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· ベオグラード(現セルビア) · sr-Cyrl

Politika

1926年10月29日付の『ポリティカ』は、ブルガリア政治についての論評を掲載した。論評は、ブルガリア最強の政党とする農民民族同盟を極端な反動派とファシスト派へ引き寄せる試みがあると述べ、その試みを純然たる親独的傾向のものと呼んだ。論評はさらに、リャプチェフ政府がイギリスとイタリアへ無条件に傾いていると指摘した。同じ紙面は、1903年5月29日の政変を前にした日々を振り返る回想録も載せた。回想録の筆者は、選挙の後に政治の空気が軽くなり、農民の群れが夫に外務省から自宅まで付き添ったと書いた。回想録の本文は一部しか読み取れない。

この読み取りは紙面から2本の抜粋を扱う。OCRの文字列は大半が乱れているか複数の文字体系が混ざっていたため、本文には使っていない。画像タイルの端が複数の段で語を切っているため、回想録の抜粋には[?]で示した欠落があり、読み取りの確度は低い。回想録の筆者名は複数のタイルにまたがって切れており、この版は筆者を特定しない。『IV Шта конкретно тражимо?』と題する節などは右側が切れているため、この版は訳していない。

翻訳

ブルガリアの出来事

次の二つの事実が、ブルガリアの政治情勢を最も明確に特徴づけている。1.) ブルガリアで最も強力な政党であるブルガリア農民民族同盟を、最も極端な反動的・ファシスト的右派へ引き寄せようとする試み。これは純然たる親独的傾向の試みである。2.) リャプチェフ政府のイギリスとイタリアへの無条件の傾斜。

1903年5月29日を前に

しかし、3月の選挙が終わると、突然、空気が[?]軽くなったかのようだった。地平線は[?]晴れ始め、政治的[?]が国中で目覚め、ある一つの特定の団体、すなわち自らの[?]のまわりに[?]集まっていった。そのころ、農民の群れ[?]が、そしてごく頻繁に、[?]夫に外務[?]からわが家まで付き添った。

解説

アンドレイ・リャプチェフと記事が批判した政府

記事が言うリャプチェフ政府は、アンドレイ・リャプチェフの内閣である。リャプチェフは1926年1月4日にブルガリア首相となり、民主同盟と国民自由党の連立を率いた。リャプチェフは、当時オスマン帝国領だったマケドニアのレセンで生まれた。リャプチェフ政府は内部マケドニア革命組織の活動を黙認したとして批判され、この黙認はユーゴスラビアおよびギリシャとの関係を悪化させた。リャプチェフは在任中、経済を支えるために国際連盟から2度の借款を得た。イギリスとイタリアへの無条件の傾斜という評価は記事自身の主張である。

記事が農民同盟をブルガリア最強の政党と呼んだ理由

ブルガリア農民民族同盟は、記事が「ブルガリアで最も強力な政党」と呼んだ組織である。同盟はアレクサンダル・スタンボリイスキの指導の下で、1920年に広い民衆の支持と一部の強制的な手段を組み合わせて同盟主導の政府をつくった。同盟は、ヨーロッパの農民政党として唯一、単独過半数の政府で政権に就いた政党である。スタンボリイスキは、ブルガリアの外へ、さらにバルカン地域全体へ広がる農民の同盟を望み、その実現を促した。1923年6月9日に軍の諸派の連合がクーデターを起こし、スタンボリイスキを政権から排除した。記事が掲載された1926年には、同盟は多くの農民の支持者を抱えながら政権の外にあった。記事は、この大勢の支持者を誰が引き寄せるかを問題にしたのである。

「親独的」な右派と1920年代半ばの自由主義諸党

記事の「親独的」という言葉は、ブルガリア右派の特定の流れに当てはまる。国民自由党は、ラドスラヴォフ派の自由党などが合同して1920年11月29日に結成された。国民自由党の前身の諸党は第一次世界大戦中に中央同盟国寄りの外交政策を取っており、他の政党はそのために国民自由党との協力を避けた。国民自由党は、農民同盟政府を退けた1923年6月のクーデターにも関わった。ディミタル・ペトコフを中心とする一派は、1925年7月にスタンボロフ派の人民自由党を再建した。この号より後の1927年の選挙でも、各党の組み合わせは流動的だった。スタンボロフ派は与党の民主同盟と連合して選挙を戦い、国民自由党は民主党および農民同盟トモフ派とともに民主同盟に対抗する連合を組んだ。農民同盟全体を意図的に極右へ引き寄せる動きがあったという見方は、記事自身の解釈である。

ツィンツァル=マルコヴィチ将軍の政府と1903年5月29日の政変

回想録の題にある5月29日は、セルビアの五月政変のユリウス暦の日付である。1903年のユリウス暦5月28日から29日にかけての夜、つまりグレゴリオ暦6月10日から11日にかけての夜に、ドラグティン・ディミトリエヴィチ大尉、通称アピスが組織した将校団が、アレクサンダル国王、ドラガ王妃、ディミトリエ・ツィンツァル=マルコヴィチ首相らを殺害した。ツィンツァル=マルコヴィチは将軍であり、1897年から1900年までミラン王の最も近い側近の一人だった。アレクサンダル国王はラディカル党に責任を負わせて新たなクーデターを起こし、1902年11月6日にツィンツァル=マルコヴィチを首班とする政府を置いた。1903年3月23日の集会は警察および軍との衝突に発展し、6人が死亡した。国王は新しい選挙に勝てないと見て、1時間のうちに2度のクーデターを行った。政府はその後、1903年5月18日に選挙を実施して勝利した。回想録の筆者は、3月の選挙の後に政治が国中で目覚め、農民が夫を自宅まで送ったと回想している。百科事典の記述は、この選挙を5月に置き、国王の2度のクーデターの後に行われたものとして描いている。

原文

Догађаји у Бугарској

Следећа два факта најјасније карактеризују политичку ситуацију у Бугарској: 1.) Покушај да се привуче најкрајњијој реакционарној и фашистичкој десници најсилнија политичка партија у Бугарској -. Бугарски Народни Земљоделски Савез, - покушај чисто германофилске тенденције. 2.) Безрезервна оријентација Љапчевљеве владе ка Енглеској и Италији.

Пред 29 мај 1903

Али, по извршеним мартовским изборима, одједном као да је у атмосфери [?] лакнуло, хоризонат се поче [?] разведравати, политички [?] будити у целој земљи, групишући [?] око једног одређеног тела - свога [?]. Тих дана групе [?] сељака и врло често пратиле су [?] мужа од Министарства Спољних [?] до наше куће.

紙面の出典:Source: Narodna biblioteka Srbije / Digitalna NBS

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