時報
- 褚玉璞、済南から天津へ戻る
- 連軍の現駐屯地点の調査
- 褚玉璞の済南到着後の会議
1926年10月26日の『時報』は、北伐が進むなかでの北方と上海周辺の軍事情勢を伝えた。済南発の電報は、褚玉璞の到着を受けて張宗昌が軍事会議を開いたと報じた。会議では直隷・山東の将領が連名で通電を出し、湖北救援のために出兵することが決まった。両軍には1か月分の給与が支給され、褚が天津に戻りしだい部隊が南下する予定だった。別の記事は、連軍第7師団の部隊が松江と上海のどの寺院や兵営に駐屯しているかを列挙した。済南発の記事はさらに、梅蘭芳や楊小楼らの名優が引き留められ、督署の新しい舞台で「覇王別姫」などを演じたと伝えた。
この版は紙面から選んだ3本の記事を訳している。記事の段の継ぎ目では1、2字が欠けたり重なったりしている可能性があり、不確かな継ぎ目はできる限り避けた。購読料表と広告料表、会審公廨の告示、公債の告示、廈門大学の告示は活字が小さく薄いため訳していない。「直魯援鄂軍、決定直軍一」で始まる見出しは途中で切れているため使っていない。駐屯地点の調査記事は、選んだ範囲の文の途中で終わっている。
翻訳
褚玉璞、済南から天津へ戻る
褚玉璞が済南に来ると、張宗昌は軍事会議を招集した。会議では、直隷・山東の各将領が連名で通電を発表し、協力の趣旨を貫いて、湖北救援の出兵を実行することが決まった。直魯軍には一律に1か月分の給与を支給し、褚が天津に戻りしだい、軍隊はただちに南下を開始する。(済南24日発、新魯社電)
連軍の現駐屯地点の調査
第7師団第14旅団第27連隊長張広厚の部隊のうち、歩兵第1大隊と迫撃砲中隊1個は松江の超果寺に駐屯し、第3大隊は松江の広福寺に駐屯している。さらに歩兵1個中隊が石湖蕩を守備している。第7師団第14旅団の旅団本部は松江の酔白池に置かれ、第27連隊の連隊本部は旧提督衙門にある。第7師団第14旅団第27連隊第2大隊の歩兵全大隊と機関銃中隊は、上海斜橋の老営盤に駐屯し、
褚玉璞の済南到着後の会議
梅蘭芳・余叔岩・楊小楼・尚小雲ら各名優も、潘氏に引き留められて済南にもう1日とどまった。今夜(22日)梅らは督署の新しい舞台で引き続き上演し、演目は梅蘭芳と楊小楼の「覇王別姫」などである。明日(23日)もさらにもう1日上演することになっている。
解説
直隷・山東両軍が湖北への出兵を約束した理由
済南発の電報によれば、張宗昌は褚玉璞の到着を受けて軍事会議を開いた。会議では直隷と山東の将領が連名で通電を出し、湖北救援の兵を送ることが決まった。両軍には出発前に1か月分の給与が支給され、褚が天津に戻りしだい部隊は南下することになっていた。名前の挙がった2人は北方陣営の中心人物である。張宗昌は1925年から1928年まで山東を支配した軍閥であり、褚玉璞は1926年に奉天派の直隷軍の指揮官となり、直隷省の軍政長官にも就いた。この会議の時点で、湖北は援軍を送れば済む呉佩孚の地盤ではなくなっていた。武昌に残っていた呉佩孚の部隊はすでに降伏し、国民革命軍は湖北省の制圧を終えていた。北伐の初期に奉天派は呉佩孚に支援を申し出たが、呉は北方の軍閥に自分の地位を奪われることを恐れてこれを断った。10月下旬の出兵決定は、呉が単独で戦おうとした戦争を北方連合が引き継ぐことを意味した。記事が伝える財政面の情報は、1か月分の給与支給だけである。後世の記述によれば、張宗昌の山東統治は過重な課税と、価値がなくなるまで刷り増した省紙幣で賄われていた。
浙江の反乱後の孫伝芳軍の配置
この調査記事は、張広厚が率いる第7師団第14旅団第27連隊の配置を列挙した。2個大隊は松江の寺院に宿営し、1個中隊が石湖蕩を守っていた。旅団本部は酔白池に、連隊本部は旧提督衙門に置かれ、1個大隊と機関銃中隊は上海市内の斜橋の兵営に駐屯していた。見出しの連軍は、当時江蘇・浙江・福建・安徽・江西を支配していた孫伝芳の軍を指すとみられる。この一覧は、孫伝芳が大きな危機を乗り越えた数日後に掲載された。浙江省長の夏超が反乱を起こすと、夏の部隊は10月17日夜までに上海から5キロの地点に迫った。孫は上海の防衛に回せる兵がほとんどなく、杭州から上海への鉄道を破壊させた。その後、孫の軍は21日に嘉興を、23日に杭州を奪回した。同じ23日には国民党の組織者である鈕永建が上海での蜂起を命じた。記事に記された松江と上海の駐屯部隊は、反乱後の数日間に孫伝芳が上海周辺をどう押さえていたかを示している。この支配は長く続かなかった。1927年3月、国民革命軍と結んだ共産党系の労働組合が上海を占領し、孫は南京から逃れた。
督署の舞台に立った京劇の名優たち
『時報』は軍事会議の見出しの下で、梅蘭芳・余叔岩・楊小楼・尚小雲が潘氏に引き留められ、済南にもう1日とどまったと伝えた。名優たちは22日に督署の新しい舞台で上演し、梅と楊は「覇王別姫」を演じ、23日にも上演する予定だった。この光景は、歴史家が記す張宗昌の済南の本営の姿と一致する。張は本営を中世の宮廷のように運営し、豪華な余興と盛大な宴会を催した。張はまた芸術家、作家、芸能人のほか、武器商人、麻薬の元締め、外交官、欧米の記者の後援者にもなった。この見方に立てば、名優の上演は軍事会議と同じく張の力を見せる場だった。将領たちが集まる時期に当代一流の役者を済南に引き留めることで、督署は客に財力と影響力を示した。記事はこの宮廷の費用には触れていない。張の政府は重税を課し、1927年までに山東の教育制度は崩れ、地域経済は荒廃した。記事が役者を引き留めた人物として名を挙げるのは潘氏だけであり、出演料を誰が払ったかは書かれていない。
南下計画のその後
済南の会議は、褚玉璞が天津に戻りしだい南下すると約束した。張宗昌の軍は北伐の期間中に実際に南へ進んだ。ただし歴史家が記録しているのは湖北の救援ではなく上海の一時的な奪回であり、張の軍はその後北へ押し戻された。1926年10月に済南で会合した連合は、この戦役を生き延びられなかった。1928年、白崇禧が率いる国民革命軍は張宗昌の軍を打ち破って壊滅させ、5万人の兵のうち2万人を捕虜にした。
原文
褚玉璞由濟返津
褚玉璞來濟、 張宗昌召集軍事會議、 決定由直魯各將領聯名發表通電、 貫澈合作宗旨、 實行出兵援鄂、 直魯軍一律發餉一月、 俟褚返津、 軍隊即出發南下、 (濟南二十四日新魯社電)
聯軍現駐地點之調查
第七師十四旅廿七團團長張廣厚部步兵第一營及迫擊砲連一連、 駐紮松江超果寺、 第三營駐松江廣福寺、 尚有步兵一連駐守石湖蕩、 第七師十四旅旅部駐松江醉白池、 二十七團團部在舊提督衙門、 第七師十四旅二十七團第二營步兵全營、 及機關槍連、 駐紮上海斜橋老營盤、
褚玉璞到濟後之會議
各名伶如梅蘭芳 • 余叔岩 • 楊小樓 • 尙小雲等、 亦被潘氏留濟一日、 今夜 (二十二) 梅等在督署新戲台續演、 其戲目爲梅蘭芳楊小樓之霸王別姬等、 明日 (二十三) 尙須再演一日、