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· ベオグラード(現セルビア) · sr-Cyrl

Politika

ポリティカ紙は論説「われわれに人物を与えよ」を、ベオグラードの政局からではなく、大戦中のたとえ話から書き起こした。論説は、本国から直接補給を受けていたフランス戦線のイギリス軍が、鉄道路線の不足のために存亡の危機に陥ったと伝えた。論説によれば、誤りからも学ぶ国であるイギリスは、国民の中から危機に立ち向かえる最も有能な人物を探した。イギリスはその人物としてゲデスを見いだし、論説はゲデスを北西鉄道の重役の一人と紹介した。同じ面にはニコラ・ウズノヴィッチ首相を描いた風刺画も載った。ウズノヴィッチ内閣は当時、閣僚の入れ替えを進めていた。

この版は論説「Дајте нам човека」の冒頭の段落だけを翻訳している。OCRの結果は信頼できないため、本文は紙面の画像から書き起こした。段の端で切れた文字は補っていない。同じ面のウズノヴィッチの風刺画は、見出しの冒頭と説明文の大部分が切れているかぼやけているため、翻訳に含めていない。翻訳した段落には鉄道予算や赤字の数字が出てこない。1926年から1928年の交通省予算を扱う資料も入手できなかったため、この版はその問題を扱っていない。

翻訳

われわれに人物を与えよ

戦争中、フランス戦線にあったイギリスの大軍は、イギリス本国から直接食糧と物資の補給を受けていたが、十分な数の強力な鉄道路線がなかったために、存亡の危機に陥った。そのときイギリスは、決してくじけることがなく、誤りを犯したときでさえその誤りを教訓とし、新たな、さらに大きな力で定めた目標へ急ぐ励みとする国であるが、そのイギリスは、自国の人々の中から、有能な者のうちで最も有能な人物、危機に立ち向かえるだけでなく危機よりも強い人物を探し求めた。そしてイギリスはその人物を見つけた。その人物こそ、北西鉄道の重役の一人、ゲデスであった。

解説

1916年の西部戦線でゲデスが果たした仕事

ポリティカ紙のたとえ話は実際の出来事にもとづいているが、論説はそれを、国が有能な者の中で最も有能な人物を探し出した話として語っている。1916年8月、当時陸軍大臣だったデビッド・ロイド・ジョージは、英国派遣軍司令官ダグラス・ヘイグを説得して、ゲデスと3人のチームを2日間フランスに招かせ、輸送について助言させた。ヘイグはゲデスの働きに強い印象を受けて滞在を延ばさせ、ゲデスを少将の階級で軍用鉄道総監兼輸送監察長官に任命した。ゲデスのチームは港湾と鉄道を効率よく動かし、前線へ資材を運ぶ軽便鉄道を建設した。記録によれば、ゲデスは大臣の後押しと司令官の招きによって起用されたのであり、国を挙げた人材探しによって選ばれたのではない。ポリティカ紙はゲデスを北西鉄道の重役と紹介したが、この紹介も正確ではない。ゲデスは1904年にノース・イースタン鉄道に入社し、1911年に同鉄道の副総支配人に昇進した。

英国の鉄道人が大臣選びの手本とされた理由

ゲデスは、実務の実績を買われて戦時政府に招かれた実業家の一人だった。軍需大臣ロイド・ジョージは、ゲデスを「推進力と実行力のある男たち」の一人として政府の仕事に招いた。ゲデスは1915年に軍需品供給担当の副総監に任命され、ノース・イースタン鉄道を離れた。戦後の1919年5月、ゲデスは英国で初代の運輸大臣に就任した。1926年にベオグラードで論説を書いた筆者にとって、ゲデスは大きな組織を動かす力を実証したために選ばれた大臣の手本だった。見出しの「われわれに人物を与えよ」と、危機に立ち向かえて危機よりも強い人物という言い回しは、ポリティカ紙が同じ基準を自国の人選に求めたことを示している。冒頭の段落はユーゴスラヴィアの官職も政治家の名前も挙げていない。たとえ話が鉄道による補給の行き詰まりを題材にしていることから、論説は交通省とその管轄下の国有鉄道を念頭に置いていたと考えられる。

1926年10月に交通大臣を務めていた人物

論説が掲載された時点で交通大臣を務めていたのはヴァシリエ・ヨヴァノヴィッチである。ニコラ・ウズノヴィッチの第1次内閣は1926年4月8日から15日まで続き、この内閣ではクルスタ・ミレティッチが4月13日まで交通大臣を務め、その後ヨヴァノヴィッチが職を引き継いだ。ヨヴァノヴィッチは、4月15日から12月24日まで政権を担った第2次ウズノヴィッチ内閣でも交通大臣の職にとどまった。ニコラ・ニキッチが1926年10月7日に林業・鉱山大臣の職を離れると、ヨヴァノヴィッチは林業・鉱山大臣の代理も兼ねた。この交代は、この号が出る3週間足らず前に起きた。ポリティカ紙が鉄道の危機に立ち向かえる人物を求めたとき、交通大臣は別の省の代理職も兼ねていたのである。

1926年に相次いだウズノヴィッチ内閣

ポリティカ紙が有能な大臣を求めた背景には、内閣の度重なる入れ替えがあった。首相ニコラ・パシッチは汚職スキャンダルに直面して1926年4月に辞任を余儀なくされ、ウズノヴィッチが4月8日に首相に就任した。ウズノヴィッチは自らの急進党の内部対立を抱え、その下では短期間の内閣が次々に生まれては消えた。第1次ウズノヴィッチ内閣の在任期間は1週間で、ユーゴスラヴィアのすべての内閣の中で最も短かった。この号が出たときに政権にあった第2次内閣は、1926年12月24日に終わった。ウズノヴィッチの首相在任は1927年4月17日に終わり、同じ党のヴェリミル・ヴキチェヴィッチが後を継いだ。同じ面に載ったウズノヴィッチの風刺画も、閣僚が絶えず入れ替わり、一人ひとりの大臣の人選が政治の争点になっていた状況の中で描かれたものである。

原文

Дајте нам човека

Када су за време рата велике енглеске армије на француском фронту, хра њене и снабдеване биле непосредно из Енглеске, са немања довољно и снажних железничких линија, у животној опасности, Енглеска, која никада не клоне већ и када греши грешке јој служе за наук и подстрек да са новом и још већом енергијом хита одређеној мети - та Енглеска потражила је међу својим људима најспособнијега међу способнима, дораслог опасности и јачег од ње. И нашла га је. Тај човек био је Цедес, један од директора северозападних железница.

紙面の出典:Source: Narodna biblioteka Srbije / Digitalna NBS

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