Aftenposten
- 弾劾裁判所
- サム・エイデ、金曜日に60歳
- デン・ナショナーレ・セーネの記念祭
1926年10月26日付のアフテンポステン紙は、ベルゲ前内閣を裁く弾劾裁判所についての論説を紙面の中心に置いた。論説は、ハンデルスバンケンへの国家預託金が公表された当日に弾劾裁判を求めたと誇る自由党系の新聞を皮肉った。論説はさらに、自由党系と労働党系の新聞が一年半あまり発言してきた以上、今度は裁判所が語る番だと論じた。同じ紙面は、金曜日に60歳を迎えるサム・エイデをノルスク・ハイドロの創設者としてたたえ、1000人が暮らしていた土地で2万5000人に生計を与え、二つの町を生んだ人物だと書いた。短い記事は、ベルゲンのデン・ナショナーレ・セーネの記念祭のマチネーで、各劇場の支配人と業界団体が祝辞と花輪を贈ったことを伝えた。
翻訳
弾劾裁判所
ある自由党系の新聞は、ハンデルスバンケンへの国家預託金の知らせが公表されたその日のうちに弾劾裁判所を求める声を上げたと自慢した。それはたしかにその通りだろう。そしてそれ以来、この新聞は、ほかの自由党系新聞と労働党系新聞のすべてを引き連れて、弾劾裁判所の旗印の下に立ってきた。一年半あまりのあいだ、発言してきたのは新聞だった。それならば、10月にようやく裁判所が開かれたとき、今度は裁判所の番だったはずではないか。
サム・エイデ、金曜日に60歳
サム・エイデとは誰か。デンマークのある新聞に載った彼についての記事は、こう書き出している。ノルウェーでこんな問いを立てれば、笑いものになるだろう。ノルウェーの学童なら一人残らず、サム・エイデが誰かを知っている。サム・エイデは、ノルウェーの歴史において、今もこれからも「ノルスク・ハイドロ」の創設者であり、かつて1000人が暮らしていた土地で2万5000人に生計の道を生み出した人物であり、二つの町をはじめ、ほかにも多くのものを生み出した人物である。
デン・ナショナーレ・セーネの記念祭
昨日のマチネーの席で、劇場支配人のビョルンソンとオットが、ナショナルテアトレットとセントラルテアトレットからの美しく装丁された祝辞を贈呈した。同じく、ノルウェー手工業・工業連盟からは会長が花輪を贈った。
解説
1923年の秘密融資から弾劾裁判所へ至った経緯
論説が言う「ハンデルスバンケンへの国家預託金」は、アブラハム・ベルゲ内閣が1923年にトロンハイムのデン・ノルスケ・ハンデルスバンケンに与えた2500万クローネの融資である。内閣はこの決定を国王臨席の閣議にも国会ストーティングにも諮らず、銀行の顧客の間で取り付け騒ぎが起きるのを避けるためだと秘密にした理由を説明した。国会は1924年に1500万クローネの国家保証を可決したが、このときも前年の融資を知らされていなかった。銀行は支援を受けたまま破綻した。国会がこの件を知らされたのは1925年1月であり、この時期は論説が書く「1年半あまり」の新聞の論陣とよく合う。国会ストーティング自身の沿革はオーデルスティングによる弾劾決議を1926年7月14日とし、ノルウェー大百科事典は同年10月14日としている。ベルゲとフリシンネデ・ヴェンストレ党および保守党ホイレ出身の6人の閣僚は、国会の議決なしに支援を与え、その後も国会への報告義務を怠ったことで憲法違反の罪に問われた。
新聞の党派対立と裁判の結末
論説は自由党系と労働党系の新聞が弾劾裁判一色だったと不満を述べており、この不満は当時の激しく割れた世論を映している。国会ストーティングの沿革によれば、この裁判は新聞で大きく取り上げられ、世論には強い党派の対立線が引かれた。同じ沿革は、この裁判が既存のエリートと伸長する労働運動との政治的対立を公の議題にしたと記している。ノルゲス・コムニストブラード紙は、ベルゲを「常習犯」とまで呼んだ。アフテンポステンの論説はこうした論調に対して、今は新聞ではなく裁判所に語らせるべきだと主張した。判決はこの紙面の数か月後に出た。審理は1927年3月21日に始まり、ベルゲと6人の閣僚は3月25日に形式上の理由で無罪となった。裁判所は、当時の法律のもとで訴追がすでに時効にかかっていたことを無罪の理由とした。
サム・エイデとノルスク・ハイドロ、新しい工業の町
サム・エイデは1866年10月29日にアーレンダールで生まれたので、この号が出た週の金曜日に実際に60歳を迎えた。エイデはクリスチャン・ビルケラン教授とともに、今日ビルケラン・エイデ法と呼ばれる方法を通じて、ノルウェーの窒素工業を築くうえで中心的な役割を果たした。エイデはエレクトロケミスク、のちのエルケムとノルスク・ハイドロの設立にかかわった。ノルスク・ハイドロは1905年12月2日に設立され、エイデは総裁に就いて1917年までその職にあった。抜粋が言う「二つの町」の候補として、リューカンの水力開発がリューカンを工業の中心地に育てたこと、そして1913年にアーレンダール北方の新しい工業地がエイデハウンと名付けられたことが挙げられる。ノルウェー大百科事典は、エイデと彼が設立にかかわった企業がノルウェーの国民的象徴にもなったと記しており、この記述は、どの学童も彼を知っているという記事の言葉の背景を説明する。2万5000人の生計と以前の住民1000人という数字は、新聞自身が示したものである。
ハイドロにおけるエイデの実際の役割と1926年の立場
記事はエイデをノルスク・ハイドロの創設者と呼び、エイデ自身ものちに自伝で自分をエルケムとノルスク・ハイドロの発展の中心人物として描いた。ノルウェー大百科事典は、エイデが重要な役割を担った多国籍の事業が生まれたと語るほうが正確だと評価している。エイデは1903年にスウェーデンのクヌート・ヴァレンベリとマルクス・ヴァレンベリの兄弟、そして彼らの投資銀行と協力を始めた。ヴァレンベリ家はのちに、フランスのパリ・オランダ銀行とのつながりを使って追加の資金を集めた。この誕生日の時点で、エイデはすでに総裁の職を離れており、会社との関係も終わりに近づいていた。エイデは1927年のハイドロのハーバー・ボッシュ法への転換に評価の分かれる形でかかわり、その結果、同じ年にハイドロの取締役会から退くことを強いられた。
デン・ナショナーレ・セーネとオーレ・ブルのノルウェー語劇場
記事が伝える記念祭は、1876年にベルゲンで設立されたデン・ナショナーレ・セーネの50年を祝うものだった。この劇場は、テアーテルフォーレニンゲンを先頭とするベルゲン市民の発意で設立された。劇場の起源は1850年にさかのぼり、この年にオーレ・ブルの発意でベルゲンにデット・ノルスケ・テアーテルが創設された。ヘンリック・イプセンは1851年から1857年までこの劇場の演出家兼顧問を務め、ビョルンスチェルネ・ビョルンソンは1857年から1859年まで劇場支配人を務めた。デット・ノルスケ・テアーテルは芸術と国民意識の両面で貢献し、ノルウェー語をノルウェーの舞台の当然の言語にするのに力を貸したが、1863年に財政上の理由で閉鎖された。テアーテルフォーレニンゲンは1876年に、デット・ノルスケ・テアーテルが使っていたエンゲンの旧劇場の建物を借り受け、新しい劇場は前身の劇場の建物でそのまま活動を始めた。その後の数十年のあいだに、ベルゲンのことばがこの劇場の主要な舞台言語になった。
原文
Riksretten.
Et venstreblad har rost sig av, at det ropte paa riksretten allerede samme dag som meddelelsen om stats-indskuddet i Handelsbanken blev offentliggjort. Det er visst riktig nok. Og siden har bladet med følge av den øvrige venstrepresse og hele arbeiderpressen staat i riksrettens tegn. I godt og vel halvandet aar har pressen hat ordet. Saa var det vel rettens tur, da den omsider traadte sammen i oktober?
Sam. Eyde 60 aar fredag.
Hvem er Sam. Eyde? Saaledes begynder en artikkel om ham i en dansk avis. I Norge vilde det være latterlig at stille et slikt spørsmaal. Hvert eneste skolebarn i Norge vet hvem Sam. Eyde er. Sam. Eyde er og blir i Norges historie skaperen av» Norsk Hydro «, manden, som har skapt levebrød for 25, 000 mennesker, der hvor der før levet 1000, manden som har skapt to byer foruten meget andet.
Den nationale scenes jubilæum.
Under matineen igaar overrakte teaterchefene Bjørnson og Otto vakkert utstyrte adresser fra Nationaltheatret og Centralteatret. Likeledes blev der overrakt en krans fra Norges Haandverks - og Industriforbund ved formanden.