Journal de Genève
- ヴィルノとロシア
- 予備軍事教育の改革
- リッケンの謎が解けた
1926年10月26日付のジュルナル・ド・ジュネーヴは、W. M.の論説でヴィルノ問題を取り上げた。論説は、この都市が地理的な位置のためにソヴィエト政府が東欧に火を放つ導火線になりうると論じ、ポーランドとリトアニアの長い連邦の歴史を振り返り始めた。フェイレール大佐は、スイスの予備軍事教育の改革を審議する連邦委員会が11月3日にベルンで開かれると伝えた。この委員会は、スイス将校協会の要請を受けて設けられたものだった。リッケン・トンネル事故の記事は、事故列車と同じ機関車と燃料を使った試験列車が同じ4キロ地点で止まったことを報じた。記事は、練炭が列車の重量に見合わなかったこと、ガス防護器具があれば乗務員が助かった可能性があることを結論として示した。
翻訳
ヴィルノとロシア
ヨーロッパ政治に重くのしかかる未解決の、そしておそらく解決不能な問題のなかで、ヴィルノの問題は最も深刻なものの一つである。それはこの問題そのものの難しさや重要性のためではなく、その地理的な位置のためである。そこには、ソヴィエト政府がたやすく東欧に火を放つことのできる導火線がある。そして東欧は、人々が思っているよりも西欧に近いのである。まず、ヴィルノ問題が歴史的、政治的にどのような姿をしているかを振り返っておこう。ポーランドとリトアニアは数世紀にわたり、きわめて緊密な連邦関係で結ばれていた。当時ヴィルノはリトアニア国の首都であり、リトアニア国は大ポーランドの一部をなしていた。歴史的にみれば、リトアニア人はそこがかつて自分たちの首都だったという理由でヴィルノを要求し、ポーランド人はそこが昔から常に自分たちの土地だったという理由でヴィルノを要求している。
予備軍事教育の改革
来る11月3日、予備軍事教育(I. M. P.)の改革を審議する連邦委員会が、歩兵局長ド・ロリオル師団長大佐の主宰のもと、ベルンで開かれる。この検討が始まった経緯は、以前の本欄で述べた。当時ジュネーヴに置かれ、サラザン師団長大佐が議長を務めていたスイス将校協会の中央委員会は、この制度が現在の組織のままでは望ましい成果を上げていないと考え、検討を促すことを決議したのである。
リッケンの謎が解けた
その結果は今日では明らかになっている。事故の列車とまったく同じ編成で、同一の機関車と燃料を使った「試験」列車が、トンネル内の同じ4キロ地点で停止し、それ以上進めなくなったのである。ガス防護器具を身につけた実験担当者たちは、少しも体調を崩さなかった。この結果から二つの結論を引き出すことができる。第一に、使われた燃料である練炭は、列車の牽引重量に対して不十分だった。あるいは、こう言っても同じことだが、使われていた燃料の種類に対して列車の重量が重すぎた。第二に、事故列車が不意に停止したにもかかわらず、もし職員たちが線路係員と同じようにガス防護器具を備えていたなら、おそらく彼らの命は救えたであろう。
解説
1926年9月のソ連・リトアニア不可侵条約とヴィルノ
この論説は、ソ連とリトアニアが1926年9月28日に不可侵条約に調印してから4週間後に掲載された。この時期の事情が、ヴィルノとロシアを結びつけた表題に現実味を与えていた。条約のもとで、ソ連はヴィリニュスとその周辺地域をリトアニア領として引き続き認めた。ポーランドは、1920年のジェリゴフスキの反乱以来この地域を支配していた。その見返りとして、リトアニアはソ連に向けられたいかなる同盟にも加わらないと約束した。ポーランドは、この条約がリガ平和条約に違反すると抗議した。リトアニアの外交官たちは、ヴィリニュス問題をヨーロッパ政治の争点として保ち続けることには、この条約の代償を払う価値があると判断していた。W. M.が書いた、ソヴィエト政府が火をつけうる導火線という表現は、モスクワの後ろ盾がリトアニアの要求を国際問題として保ち続けていた状況を指している。この新聞が出た時点で、条約はまだ発効していなかった。両国は1926年11月9日にカウナスで批准書を交換し、条約は同日に発効した。
ヴィルノがポーランドの支配下に入った経緯
論説がきわめて緊密な連邦関係と書いたポーランドとリトアニアの結びつきは、長い歴史を一言にまとめたものである。1385年のクレヴォ合同は、何世紀も続くポーランド・リトアニアの連合を始めた。1569年のルブリン合同は、この連合をポーランド・リトアニア共和国という新しい連邦国家に変えた。W. M.はリトアニアを大ポーランドの一部と書いたが、ルブリン合同が生んだのは新しい連邦国家だった。第一次世界大戦の後、リトアニアはかつての連合を復活させる道を選ばず、独立国家の道を選んだ。ポーランドがジェリゴフスキの行動によって生まれた中部リトアニア共和国を併合すると、リトアニアはポーランドとの外交関係を断った。このため、記事が出た時点で両国の間には正常な外交関係がなかった。論説が描いた緊張はその後も続き、両国は1927年に戦闘再開の恐れを伴う危機を経験した。
1926年10月4日にリッケン・トンネルで起きたこと
1926年10月4日、蒸気機関車が牽く貨物列車がカルトブルンとワットヴィルの間のリッケン・トンネルで立ち往生し、乗務員6人と救助隊員3人が一酸化炭素中毒で死亡した。この列車は252トンを牽引しており、その重量は当時この路線でこの機関車に許されていた最大牽引重量260トンに近かった。列車は質の悪い練炭を燃料にしていたため、勾配の途中で動けなくなった。トンネルには人工的な換気設備がなく、このトンネルは蒸気機関車の時代から急勾配と換気不足のために評判が悪かった。燃料が牽引重量に見合わなかったという記事の第一の結論は、後の記述が示す原因と一致している。記事が書いた4キロ地点という位置も、ザンクト・ガレン検察当局が1927年にまとめた報告書の表題にある4.1キロ地点と合っている。
救助の失敗と事故後の対策
ガス防護器具についての記事の第二の論点は、救助活動の失敗とも関わっている。ワットヴィルから来た8人の救助隊は呼吸器具を持っていたが、隊員の何人かが意識を失ったため、救助隊は救出を断念しなければならなかった。事故の後、列車の許容牽引重量は引き下げられ、乗務員には酸素マスクが配られ、ワットヴィルとカルトブルンには救助用の設備が置かれた。より長く続く対策となったのは電化であり、電化によってトンネル内から蒸気機関車の排気がなくなった。事故の後に路線の即時電化が承認され、トンネルを含むラッパースヴィルとワットヴィルの間では1927年5月7日に電気運転が始まった。
原文
Vilno et la Russie
Parmi les questions non résolues et peutêtre insolubles qui chargent la politique européenne, celle de Vilno est l'une des plus sérieuses. Non point en raison de sa difficulté propre ou de son importance, mais à cause de sa position géographique. Là est la mèche par laquelle il serait aisé au gouvernement des soviets de mettre le feu à l'Europe orientale - laquelle est plus près qu'on ne croit de l'Europe occidentale. Rappelons tout d'abord comment se présente historiquement et politiquement la question de Vilno. La Pologne et la Lituanie ont été liées, pendant plusieurs siècles, par un fédéralisme très étroit. Vilno était alors la capitale de l'Etat de Lituanie, qui faisait partie de la Grande Pologne. Historiquement, les Lituaniens réclament Vilno parce que ce fut leur capitale, et les Polonais parce qu'ils y ont toujours été chez eux.
La réforme de l'instruction militaire préparatoire
Le 3 novembre prochain se réunira à Berne, sous la présidence du chef du service de l'infanterie, colonel divisionnaire de Loriol, la commission fédérale chargée d'examiner une réforme de l'instruction militaire préparatoire (I. M. P.). Une chronique précédente a dit l'origine de cette recherche. Considérant que l'institution, dans son organisation actuelle, ne rend pas ce qui serait désirable, le comité central de la Société suisse des officiers, siégeant alors à Genève, sous la présidence du colonel divisionnaire Sarasin, a résolu de la provoquer.
Le mystère du Ricken est éclairci
Ce résultat, on le connaît aujourd'hui: un train d ' «expérience», composé exactement comme celui du sinistre, avec locomotive et combustible identiques, s'est arrêté, ne pouvant plus avancer, au même kilomètre 4 du tunnel. Les expérimentateurs, munis des appareils de protection contre les gaz, n'ont subi aucun malaise. On peut en tirer une double conclusion: 1º le combustible employé - des briquettes - était insuffisant pour la charge du train; ou, si l'on préfère - et cela revient au même - la charge du train était trop lourde étant donné le genre de combustible qui était employé. 2º Peut-être, malgré l'arrêt inopiné du train sinistré, la vie des employés aurait-elle pu être sauvée s'ils avaient été munis, comme le sont les agents de la voie, des appareils de protection contre les gaz.