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· 上海(中国) · 中国語

時報

1926年10月19日の時報は、浙江の危機を時刻ごとの速報で伝えた。時報は、夏超の軍の前鋒が18日未明に突然引き返し、石湖蕩と楓涇にとどまらず嘉善へ戻ったと報じた。同じ記事は、嘉興の軍当局が機関車の待機を命じたことと、兵士300人を乗せた10両の兵員列車が杭州を出たことも伝えた。孫伝芳の側について、時報は前隊が石湖蕩に達し、歩哨が明星橋の外へ出て、1個小隊が松江に着き、各大隊が梅家弄と新龍華に駐屯していると報じた。北京発の電報は、斉燮元が済南で張宗昌と会い、表向きは江西と湖北の救援を話し合いながら東南の情勢も協議したと伝えた。同じ電報は、山東軍が蚌埠に着いたとの噂を時期尚早だと書いた。この読み取りは3本の記事を扱っており、紙面の多くの部分は判読できない。

この読み取りは、順序の乱れたOCRではなく紙面画像から取った3本の記事を扱う。[?]の箇所は判読できない文字である。斉燮元の記事では「不」の次の文字が読めないため、訳はその句を「近く」の意味に読んでいる。孫軍の記事のうち橋の番号がにじんだ1項目は省いており、残りの記事にも文の途中で切れる箇所がある。画像の端で切れた「孫軍之運輸」「宋梅村旅續有到滬」などの欄は読んでいない。広告料金、法律公告、物価表の小さな文字も読んでいない。

翻訳

夏軍前隊、嘉善に退却

◎夏軍の前鋒は昨日(18日)午前5時に突然後退し、石湖蕩、楓涇のいずれにもとどまらず、嘉善方面へ戻った。(18日午後2時の情報)
◎夏軍の前線は現在、嘉善に戻っている。(18日午後3時の情報)
◎嘉興に駐屯する軍当局は昨日、鉄道局に対し、少なくとも機関車3両を用意して嘉興駅に待機させ、いつでも使えるようにせよと命じた。
◎昨日(18日)午前10時9分、杭州から兵員列車1本が出発した。連結した車両は計10両で、兵士300人を乗せ、城站から嘉興へ向かった。また午後……

山東の張と東南問題

▲斉燮元、済南に着き張と会見
◎斉燮元の済南行きは、各方面の注[?]をかなり集めている。聞くところでは、斉は済南に着いて張宗昌と会見した。表向きは依然として江西救援と湖北救援の各問題を[?]協議しているが、実際には東南の[?]局についても話し合ったという。聞くところでは、魯軍の江西救援の動きは近く[?]実現が見込まれ、その出兵経路は従来どおり以前に[?]定した道筋に従うという。魯軍が蚌埠に到着したとの外部の噂は、いささか[?]早すぎるようである。(北京18日午後[?]時発電)

孫軍前隊、石湖蕩に到着

◎孫軍の前隊は既に石湖蕩三、一に到着した。(19日午前2時の情報)
◎孫軍の歩哨は18日午前3時過ぎ、明星橋の外まで[?]した。(18日正午[?])
◎孫軍第13連隊のある小隊長が兵の[?]隊を率い、梅家弄から小道を前進して、午後6[?]には既に松江に達した。(18日午後7時)
◎孫軍第13連隊王雅之部の第1・第2の両大隊と第3大隊の第9、第10、第12の3個中隊、さらに第6旅団第151連隊の1個大隊、および到着した第152連隊の1個大隊は、昨日(1……依然として梅家弄、新龍華などに駐屯し、警戒している。

解説

夏超の浙江独立と上海進攻

第1報の「夏軍」は夏超の部隊である。孫伝芳は1924年に浙江を手に入れたとき、協力の見返りとして夏超を浙江省長に任じた。夏超は蜂起の前に、孫伝芳の勢力の中心とされる上海と浙江を結ぶ鉄道を切断した。夏超は1926年10月16日、地元の複数の司令官や文官の支持を得て浙江の独立を宣言し、続いて上海へ兵を進めた。夏超の部隊は10月17日の夜までに上海から約5キロの地点に迫った。独立宣言の3日後に出たこの紙面は、その作戦で最初の後退を記録している。時報は、夏軍の前鋒が18日午前5時に突然後退し、石湖蕩と楓涇にとどまらず嘉善方面へ戻ったと報じた。同じ記事は、杭州から嘉興へ兵員列車がなお走り、嘉興駅に機関車の待機が命じられたことも伝えた。こうした細部は時報自身の速報によるものである。歴史研究が記すのは前進と撤退の大まかな流れにとどまる。

上海進攻が失敗した理由

歴史研究は、この紙面が伝えた後退を、孫伝芳側の備えと夏超の味方の不発に結びつけている。孫伝芳は数日前に夏超の計画を察知しており、夏超はほとんどすぐに浙江へ撤退を強いられた。孫伝芳が上海防衛の援軍を得ると、夏超の前進は阻まれた。夏超に約束されていた上海での蜂起は実現しなかった。上海の共産党と国民党の指導者が、蜂起の進め方と成否をまだ議論していたからである。夏超はその結果、退却を余儀なくされた。時報が報じた18日未明の突然の後退は、この流れと合っている。孫伝芳の軍は数日のうちに21日に嘉興を、23日に杭州を占領し、夏超の反乱は最終的に敗れた。記事に名前が出る嘉興駅と杭州の城站は、この号が出てから1週間のうちに孫軍の手に落ちたのである。

滬杭鉄道をめぐる両軍の動き

夏超と孫伝芳の双方が、杭州と上海を結ぶ鉄道に手を打った。夏超は反乱の前に浙江から上海への鉄道を切断し、杭州の守備隊を分散させて孫伝芳の支配を弱めようとした。孫伝芳は上海防衛に回せる兵が少なかったため、杭州から上海へ向かう線路を取り外すよう命じた。孫伝芳は1925年11月から南京に司令部を置き、支配を江蘇、浙江、福建、安徽、江西に広げていた。第3の記事は孫軍側の動きを伝えている。時報によれば、孫軍の歩哨は明星橋の外まで出て、第13連隊の1個小隊は梅家弄から小道を進んで松江に達し、第13、第151、第152連隊の大隊は梅家弄と新龍華に駐屯していた。第1の記事は、浙江側が機関車を要求し、10両編成の兵員列車を嘉興へ走らせた様子を伝えている。部隊番号や時刻は時報の報道によるものであり、歴史研究で照合することはできない。

斉燮元と張宗昌、北方軍の江西救援

北京発の電報は、かつて敵同士だった2人の会見を伝えている。1924年から25年にかけての戦いで、奉天派は張宗昌を南へ送り、斉燮元は孫伝芳とともに江浙聯軍を宣言して張宗昌に対抗した。呉佩孚は1925年に斉燮元を討賊聯軍の副司令に任じた。1926年の山東は、北京政府と奉天派を率いる張作霖の連合の支配下にあった。呉佩孚は以前、北方の軍閥が自分の地位を損なうことを恐れて奉天派の援助を断っていた。電報にある江西救援と湖北救援の話は、北伐の進展を反映している。蒋介石は9月4日に江西の省境を越えて攻め込み、孫伝芳は9月21日に南京から援軍を率いて到着し、武昌に残った呉佩孚の部隊は10月10日まで持ちこたえた。江西は孫伝芳の支配地域であったため、山東軍が江西に入れば北方の軍が孫伝芳の地盤に入ることになる。江西救援が近く実現するという見通しも、蚌埠到着の噂が早すぎるという判断も、電報が伝えた主張である。斉燮元と張宗昌が実際に何を取り決めたかは、ここでは確かめられない。

原文

夏軍前隊退回嘉善

◉ 夏軍前隊退回嘉善 ◎ 夏軍前鋒昨 (十八) 晨五時忽然後退、 經石湖蕩楓涇均未停留、 回嘉善方面、 (十八日下午二時消息) ◎ 夏軍前線現回嘉善、 (十八日下午三時消息) ◎ 駐紮嘉興軍事當局昨命路局、 至少須備機車三輛、 停候嘉興站上、 隨時聽用、 ◎ 昨日 (十八) 上午十時零九分、 由杭開出兵車一列、 計挂車十輛、 裝兵士三百人、 由城站出發至嘉興、 又下午

魯張與東南問題

▲ 齊燮元到濟晤張 ◎ 齊燮元赴濟、 頗引起各方之注 [?] 聞齊到濟晤張宗昌、 表面上仍 [?] 洽援贛援鄂各問題、 實則與東南 [?] 局亦有討論、 聞魯軍援贛之舉、 不 [?] 可望實現、 其出兵路線、 仍依前此 [?] 定途程、 外傳魯軍抵蚌埠、 似未免 [?] 之過早、 (北京十八日下午 [?] 時電)

孫軍前隊抵石湖蕩

◉ 孫軍前隊抵石湖 ◎ 孫軍前隊已抵石湖蕩三、 一 (十九日晨二時消 ◎ 孫軍步哨、 十八日晨三時許、 [?] 至明星橋之外、 (十八日上午十二時 [?] ◎ 孫軍十三團有某排長率兵 [?] 隊、 由梅家弄小路前進、 下午六 [?] 已達松江、 (十八日下午七時 ◎ 孫軍十三團王雅之部一二兩及第三營九、 十、 十二、 三連、 並六旅一百五十一團一營、 及由到之一百五十二團一營、 昨 (十仍在梅家弄新龍華等處駐紮、 防範、

紙面の出典:Source: Internet Archive / eastasia-periodicals

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