Journal de Genève
- イタリアにおける国家と教会
- 率直な説明
- ギリシャの難民の奇跡
ジュルナル・ド・ジュネーヴ紙の1926年10月19日付第1面は、ローマ特派員の報告として、イタリア国家と教皇庁の対立であるローマ問題がファシストとカトリックの新聞で再び論争の的になったと伝えた。特派員は、ファシスト政権が宗教と聖職者を優遇し、フリーメーソンと闘ったことで、国家と教会の和解が具体的な可能性になったと書いた。J. M.の署名がある社説は、連邦の小麦専売制に反対する同紙が農民の破滅を望んでいるという農業関係者の見方に反論し、戦前のスイス農業の危機から説明を始めた。新刊書を紹介した文章は、人口五百万足らずのギリシャが難民を定住させたことを「新ギリシャの奇跡」と呼び、難民自身とギリシャ国家と国際連盟が後援した借款の働きをたたえた。この文章は、定住に費やした総額を15,225,000ポンドと記した。
翻訳
イタリアにおける国家と教会
本紙ローマ特派員は次のように書き送ってきた。
ローマ問題が再び議題にのぼった。ファシストの新聞でもカトリックの新聞でもこの問題が論じられており、いつものように激しい論争の的になっている。
ファシズムが政権に就いて以来、イタリアにおける国家と教会の和解の可能性が、具体的な形で現れてきた。現政府が宗教と聖職者のためにとった措置、フリーメーソンとの闘い、さまざまな立法上の、あるいは……
率直な説明
一部の農業関係者のあいだでは、われわれが小麦の専売制に反対しているのだから、農民に敵意を抱き、その破滅を望んでいるのだと、いまだに信じられている。われわれはこの誤った主張をすでに否定したが、さらにいくらか説明を加えることが欠かせないと考える。
戦前、スイス農業の状況はきわめて危機的になっており、若い農民の都市への流出はますます激しくなっていた。そして……
ギリシャの難民の奇跡
[…]権利――しかもそのすべてが、人口わずか五百万足らずで、比類のない国家的破局から抜け出したばかりの国で行われたのである。
この離れ業は成し遂げられた。そして、刊行されたばかりの本が、それがどのようにして行われたかを教えてくれる。この「新ギリシャの奇跡」は、難民自身、ギリシャの政府と国民、そして国際連盟の力が合わさって実現した。国際連盟は1923年に、ギリシャがロンドン、アテネ、ニューヨークの市場で発行した大型借款を後援することを決めたのである。
そして、これら難民の定住に要した金銭上の犠牲だけに関心を絞るなら、その本の208ページを開けばよい。そこには、この目的のためにこれまでに支出された総額が15,225,000ポンドに達し、そのうち5,919,000……と記されている。
解説
1870年以来のローマ問題
ローマ特派員が再び議題にのぼったと書いた対立は、半世紀以上前にさかのぼる。イタリア王国は1870年に、ローマを含むラツィオを占領して併合した。教皇庁とイタリア政府の関係はその後約60年間敵対的なままであり、教皇の主権をめぐるこの争いはローマ問題と呼ばれた。イタリア政府は1871年の保障法で、ヴァチカン宮殿とラテラノ宮殿の使用を教皇に認めたが、主権は認めなかった。教皇庁は、教皇の霊的な権限にはいかなる政治権力からも独立していることが必要だとしてこの解決を拒み、歴代教皇は自らを「ヴァチカンの囚人」とみなした。1922年2月に選ばれたピウス11世は、選出直後から、この長く険悪な状態を終わらせたいという意向を示した。特派員がファシズムのもとで和解が具体的な可能性になったと書いたのは、政府の教会寄りの措置を、この長い相互不承認の歴史と比べてのことである。
1926年8月に非公開で始まった交渉
1926年10月の時点で、イタリア政府と教皇庁はすでに非公開の正式交渉を進めていた。特派員の文章の残っている部分は、新聞の論争と政府の措置だけを取り上げている。法相アルフレード・ロッコは1925年に教会関係の法令を改める案を出したが、ピウス11世が教皇庁との事前の交渉と合意なしには認められないと表明したため、この案は撤回された。教会に関わるファシスト政権の立法の動きは、事前の交渉を求める教皇庁の姿勢にすでに突き当たっていたのである。イタリア政府を代表するドメニコ・バローネと教皇庁の法律顧問フランチェスコ・パチェッリは、1926年8月5日に、のちに実を結ぶ協議を始めた。両者は1929年まで何度も会合を重ね、その内容を完全に秘密にした。一般の歴史記述も教皇庁とムッソリーニ政権の交渉の始まりを1926年としている。交渉は1929年2月11日にラテラノ宮殿で調印された協定に結びついた。この抜粋には、本紙の特派員がバローネとパチェッリの協議を知っていたことを示す記述はない。
スイスの穀物専売制と1926年の国民投票
社説の反論は、スイスの穀物政策の歴史を知るとよく理解できる。19世紀後半には鉄道と蒸気船がスイスを国際分業に組み込み、畜産と酪農が広がって穀物栽培が減った。筆者が説明を始める戦前の農業の危機的な状況は、この変化を背景にしている。連邦参事会は第一次世界大戦中に輸入が滞ったため、1915年1月に、左派が長く求めてきた連邦の穀物専売制を備蓄義務とともに導入した。戦後の連邦当局は穀物の供給確保だけを続け、経済省を23年間率いたエドムント・シュルテスが専売制の維持を推した。国民は1926年の投票で専売制の存続を否決し、専売制はシュルテスが通せなかった主要法案の一つになった。国民はその後1929年に、弱めた形での再導入を承認した。J. M.は1926年の論争のさなかに、専売制への反対を自分たちへの敵対とみなした農民に答えている。抜粋は、筆者の議論が結論に至る前に途切れている。
1924年の連盟借款とギリシャ難民の定住
記事がたたえた「奇跡」は、苦労して得た国際借款に支えられていた。破局の後にギリシャへ逃れてきた難民の救援は、まずギリシャ国家と赤十字などの民間人道団体が担った。ギリシャは国際市場での信用が低く、財政の大きな不均衡と激しいインフレにも苦しんだため、より広い定住政策の資金を集めにくかった。ギリシャ政府は国際連盟の仲介を得て、1924年に1230万ポンドの借款を結んだが、その条件はギリシャにとってかなり不利だった。難民定住委員会がこの借款の運用を任され、大半が貧しい難民の救済にあたった。ギリシャ国家は土地を与えたうえで、役畜や農具も支給し、農業生産の回復を図った。記事は連盟が借款の後援を1923年に決めたと書いており、この資料は借款の締結を1924年としている。記事が新刊書の208ページから引いた総額15,225,000ポンドは借款額を上回るが、この資料はその差を説明する内訳を示していない。
原文
L'Etat et l'Eglise en Italie
L'Etat et l'Eglise en Italie Notre correspndant de Rome nous écrit: La question romaine est revenue sur le ta - [?] is. On en parle daus les journaux fascistes, [?] ans les journaux catholiques, et elle forme, [?] omme toujours, l'objet de polémiques pas - [?] ionnées. Depuis que le fascisme est arrivé au pou - [?] oir, l'éventualité d'une réconciliation entre [?] Etat et l'Eglise en Italie s'est présentée d'une [?] açon concrète. Les mesures prises par le [?] ouvernement actuel en faveur de la religion [?] t du clergé, la lutte contre la franc-maçon - [?] erie, différentes dispositions législatives ou
Franches explications
Franches explications On persiste à croire, dans certains milieux agricoles, que nous sommes hostiles aux paysans et voulons leur ruine parce que nous combattons le monopole du blé. Nous nous sommes déjà inscrits en faux contre cette assertion erronée, mais quelques explications supplémentaires nous paraissent indispensables. Avant la guerre, la situation de l'agriculture suisse était devenue très critique, l'exode des jeunes paysans vers les villes s'accentuait, et
Le miracle des réfugiés en Grèce
[?] [?] [?] [?] [?] [?] [?] droit - et tout cela, dans un pays d'à peine cinq millions d'habitants et qui sortait d'une catastrophe nationale sans pareille. Ce tour de force a été fait. Et l'ouvrage qui vient de paraître nous indique le comment. Ce «miracle néo-grec» a été réalisé grâce à l'effet conjugué des réfugiés eux-mêmes, du gouvernement et du peuple grecs et de la Société des nations, - celle-ci décidant, en 1923, de patronner un grand emprunt que la Grèce a émis sur les marchés de Londres, d'Athènes et de New-York. Et si l'on ne réduit sa curiosité que pour ce qui est des sacrifices d'argent que l'établissement de ces réfugiés a demandés, l'on n'a qu'à se reporter à la page 208 du livre en question; on y remarque que la somme totale dépensée jusqu'à aujourd'hui à cet effet s'élève à 15. 225. 000 liv. st., dont 5. 919. 000