時報
- 江西・福建の軍事情報
- 呉、奉天に代表を派遣して援助を求める
- 革命軍、昨日武昌に入城
時報の1926年10月11日付紙面は、北伐の戦況を伝えた。江西からの電報は、孫伝芳の聯軍が修水への南軍の攻撃を撃退したこと、孫が艦船で南京に戻り配下の将軍が九江を守ったこと、徳安に革命軍が現れて南潯鉄道が脅かされたため聯軍が兵站本部を湖口に移したことを報じた。北京電は、軍費と武器に困った呉佩孚が初めて天津経由で奉天に代表を送り、出兵を求めたと伝えた。その前には漢口に足止めされた難民の窮状を嘆く断片が並んだ。見出しは革命軍が前日に武昌へ入城したことを告げたが、判読できる本文は広水での急ぎの鉄道工事を扱っていた。この読み取りは各記事の断片を対象とし、武昌入城そのものの記述を含まない。
この読み取りは、紙面のうち一部判読できる三つの記事を対象とする。OCRの結果は段をまたいで大きく乱れていたため、本文は画像だけで確認した。隣の段に属する断片的な書き出しはそのまま訳し、判読できない文字は[?]で示す。武昌入城の見出しの下の本文は断片しか残っておらず、入城そのものの記述を含まない。小さな活字の広告、債券の当選番号、武昌の婦女子救済の報告の大部分はかすれていたため、書き起こしていない。はっきり読めない日付と数字は省いた。
翻訳
江西・福建の軍事情報
……最近特に代表を派遣し……援助、[?]……時電)[?]……節句の後、下……(二)南北の線を五つに分け、……呉はかなり戦争の前途を……七時電)……軍軍長、……事、……七時電)……九日に報告を発し……方面の防衛軍二個連隊、……海からの情報)……さらに聞くところでは某軍……いずれも関係があり、どの部隊を討伐に派遣しようとも、彼らは後ろ盾を頼んで恐れない。彼らの首領も彼らが強姦や略奪をほしいままにすることを望んではいないが、ただそれを抑える権限がないだけである。(十月八日)
◉ 江西・福建の軍事情報
◎ 七日に突然修水を攻撃した南軍二千は、八日に孫軍第二師に撃退され、西方の山地へ向かった。聯軍の新編第六軍は、徳安の戦いで最も功績のあった顔景崇を司令とした。(九江九日、電通社)
◎ 今朝ある公使館が南京から無線電信を受けた。孫伝芳は庚(八日)の午後に艦船で九江を離れ、昨夜南京に到着した。陳調元と張鳴岐はなお九江を固守している。(北京十日午後七時電)
◎ 革命軍が徳安に現れて以来、聯軍は南潯鉄道を兵站線としているため、同線が断ち切られようとしていることを非常に危険だと感じている。そこで五日から総兵站部を湖口に移し、武器弾薬と軍需品はすべて鄱陽湖経由で南昌方面へ転送している。(九江七日、電通社)
◎ 永定……雷……広州の各商人は、貨物の引き渡しを停止した。(香港十日午後七時電)
呉、奉天に代表を派遣して援助を求める
……の難民は、漢口に長く留まれば、やはり生活を維持するのが難しい。その衣食は目下[?]……女児用の綿入れの上着とズボンが購入できるかどうかも、まだ見通しが立たない。難民たちは、平素は必ず美しい模様の衣服を着、必ず[?]上等の穀物を食べていたが、この大災厄に遭い、粗末な穀物で飢えをしのぐことさえできない。これはほとんど天の恵みをむやみに損なうことである。
……代表を奉天に派遣して援助を乞う。これまで一貫して奉天側に出兵を求めたことはなかったが、[?]の変化により、呉は軍費も武器も欠き、しかも最近の[?]情勢がとりわけ深刻になったため、ついに自らの力不足を認め、奉天側が出兵して援助することを望んだ。最近特に代表[?]を派遣し、同人は……日に天津を経て奉天に赴き、援助について協議する。(北京十日午後四時電)
革命軍、昨日武昌に入城
……城、灰(十九時電)……英国公使、……全力を尽くし[?]……日、ロイター通信)……高趙典之、……漢、……陳・劉である
◎ 当地のある所が受け取った漢口からの報告によれば、南軍は現在、広水・武勝関線の工事を急務としている。昨日(八日)一つが広水に到着した。(東方社十日
◉ 開封城付近の烽火
解説
1926年10月10日の武昌陥落
時報の10月11日付紙面は、革命軍が「昨日」武昌に入城したと見出しで伝えた。見出しの下で判読できる断片は、主に別の話題を扱っている。東方社の漢口電は、南軍が広水・武勝関線の工事を急務とし、八日に一つが広水に到着したと伝えた。独立した記録によれば、国民革命軍は1926年9月6日に漢陽を、7日に漢口を占領した。呉佩孚と配下の主力は北の河南省へ逃れ、城壁に囲まれた武昌に残った部隊は1か月以上持ちこたえた。武昌の守備隊は辛亥革命の武昌蜂起から15周年にあたる10月10日に降伏し、国民革命軍はこれによって湖北省の制圧を完了した。紙面が伝えた入城の日付は、この確定した日付と一致する。紙面が報じた鉄道工事は、主な敵がすでに北へ退いた後に革命軍が進めた作業である。
孫伝芳の五省聯軍と江西での反撃
江西からの各電が伝える「聯軍」と「孫軍」は、孫伝芳の軍隊を指す。孫伝芳は江蘇、浙江、福建、安徽、江西の五省を支配し、自らの軍を五省聯軍と名付けた。孫伝芳は1925年11月に江蘇の督軍として南京に司令部を置いていた。ある公使館の無線電信が伝えたのは、艦船による孫の本拠地への帰還だった。国民革命軍は1926年9月19日までに九江と南昌を手に入れたが、孫伝芳は9月21日に南京から援軍を率いて到着し、国民革命軍を退却させた。紙面が載せた10月7日から10日にかけての電報は、その後の戦況を伝えている。聯軍は修水で南軍二千を撃退し、徳安の戦功で顔景崇を新編第六軍の司令に据えた。それでも聯軍は徳安付近の革命軍が南潯鉄道を断つことを恐れ、兵站本部を湖口に移して鄱陽湖経由で物資を送った。これらの数字と主張は、日本の通信社の電報と名前を伏せた公使館に由来する。孫伝芳の巻き返しは長く続かず、孫の軍は10月末までに再び江西と福建で退却した。国民革命軍は11月初めに長江の港である九江と湖口の攻略に動いた。湖口は、紙面が聯軍の新しい兵站拠点として伝えた場所である。
湖北を失った呉佩孚が奉天に頼った理由
北京10日発の電報は、呉佩孚がそれまで一度も奉天に出兵を求めなかったと伝えた。同じ電報は、軍費と武器の不足と情勢の悪化によって呉が力不足を認め、天津経由で代表を送ったと報じた。この記述は確かめられている経緯と合う。奉天派は以前に呉への支援を申し出たが、呉は北方の軍閥に自分の地位を損なわれることを恐れて断った。呉の兵力の多くは、その間北京近くの南口で国民軍との戦闘に投入されていた。武昌は同じ10月10日に陥落し、呉の勢力基盤は1926年後半に国民党が湖北を制圧したことで失われた。奉天側はその後、北方の新しい軍事同盟を組織した。張作霖の陣営は反奉戦争に勝利した後の1926年11月に安国軍を結成し、呉はその一員とみなされるにとどまった。ここで用いた記録は奉天側のこうした動きを示すが、張作霖がこの代表に直接どう答えたかは示していない。
原文
贛閩軍訊
近特派代接濟、 [?] 時電) [?] 節後下 (二) 爲南北線分五、 吳頗以戰事前途七時電) 軍軍長、 事、 七時電) 九日發報方面之防軍二團、 海消息) 續聞某軍、 均有關係、 無論派何軍隊往剿、 彼輩有恃不恐、 彼之首領亦不願其肆淫掠、 特無權以約束之耳、 (十月八日) ◉ 贛閩軍訊 ◎ 七日突然進攻修水之南軍二千、 於八日爲孫軍第二師所擊退、 向西方山地、 聯軍新編第六軍、 以德安一役最有功之顏景崇爲司令、 (九江九日電通社) ◎ 今晨某使館接甯無線電、 孫傳芳庚 (八日) 日下午乘艦離潯、 昨夜抵甯、 陳調元張鳴岐仍扼守九江、 (北京十日下午七時電) ◎ 自革軍發現於德安後、 聯軍以南潯鐵道將被截斷、 以該路爲兵站線、 甚覺危險、 故自五日起、 將總兵站部移設湖口、 軍火軍需品概由鄱陽湖轉運南昌方面、 (九江七日電通社) ◎ 永定雷廣州各商、 停付貨物、 (香港十日下午七時電)
吳派代表赴奉乞援
之難民、 在漢久留、 亦難維持、 其衣食刻 [?] 女孩棉衣褲能可購得、 尚無把握、 難民輩、 平日衣必文采、 食必 [?] 粱、 遭此浩刼、 粗糲充饑而不可得、 是殆暴殄天物、 天派代表赴奉乞援始終未請奉方出兵、 惟因 [?] 變更、 吳既餉械兩缺、 且近 [?] 勢、 尤形嚴重、 遂自認力量不足、 希望奉方出兵援助、 近特派代 [?] 日過津赴奉協商接濟、 (北京十日下午四時電)
昨日革軍入武昌
城、 灰 (十九時電) 英使、 盡力 [?] 日路透社) 高趙典之、 漢、 係陳劉 ◎ 據本地某處、 所接漢口告、 南軍現以廣水武勝關綫工程爲急務、 昨 (八日) 有一開抵廣水、 (東方社十日 ◉ 汴垣附近烽火