Journal de Genève
- 普通選挙と独裁
- 詩人ジャン・ペルディオス
- 教皇用特別列車でローマからテルニへ
この紙面は、グリエルモ・フェレーロの署名論説を冒頭に載せた。フェレーロは、かつて教会や保守派に恐れられた普通選挙が現代世界の大きな保守勢力になったと論じた。フェレーロは、メキシコの司教団が宗教対立について自由な国民投票を提案し、カリェス政権がそれを拒んだという出来事を出発点にした。フェレーロは、妥協で動くイギリス、フランス、ドイツの政府と、少数派が権力を奪ったロシアとイタリアを対比した。レオニダス・パウリデスは、ジュネーブで学び、韻文雑誌を一人で書き続けたキプロスの詩人ジャン・ペルディオスに、最初の詩集の刊行二十周年の祝辞を寄せた。ローマ通信員は、アッシジの聖フランチェスコ記念行事に向かう教皇特使メリー・デル・バル枢機卿の特別列車に同乗し、イタリア当局が1870年以来初めて教皇の列車に公式の栄誉を与えた様子を伝えた。
翻訳
普通選挙と独裁
ジュネーブ、1926年10月10日
数か月前、メキシコで恐ろしい宗教戦争が荒れ狂っていたさなか、司教団は政府に対し、投票の自由が真剣に保障されることを条件に、問題を国民投票によって人民に委ねるよう提案した。政府は拒否した。この出来事はほとんど注目されずに過ぎたが、重要である。実際、教会はこの提案を自ら持ち出すことで何をしていたのか。教会は、メキシコにおける自らの大義の擁護を普通選挙に託したのである。わずか30年前に、このようなことが可能だと誰が想像しただろうか。19世紀を通じて、教会は普通選挙を、多かれ少なかれ悪魔から来た発想とみなしていた。ラムネーは、人民が自らの事柄を自ら治め、自らの利益を守る権利を主張したために、多くの不興を被った。教会が今日、つい昨日までかくも恐れていたこの19世紀の申し子に神の大義を託すことをもはやためらわないのは、いかなる理由によるのか。そして逆に、自らを革命の子、最も大胆な進歩思想の旗手と称するメキシコ政府が、なぜ普通選挙を警戒するのか。
* * *
この状況はメキシコだけに見られるものではない。それはほとんどあらゆる所で垣間見え始めている、より一般的な現象である。1848年以来あらゆる保守的な階級と政党にとって恐怖の的だった普通選挙は、現代世界の大いなる保守的な力になり始めている。普通選挙は、過去50年の革命と戦争によって弱められ、あるいは破壊された他のあらゆる保守的な力に取って代わりつつある。これを納得するには、政府が普通選挙の受任者である国々と、権力が暴力によって奪取された国々とを比べてみれば足りる。前者では、政府は対立する利害と教義のあいだの絶え間ない妥協と調停によって事を進める。政府は新たな必要を満たそうと努めながらも、既存の政治的・経済的秩序をできる限り尊重しようとする。後者の国々では、小さな少数派が唱え、擁護し、合法化した極端な思想が勝利を収め、人民を支配する。
普通選挙によって統治される国々、すなわちイギリス、フランス、ドイツを例にとろう。イギリスでは、保守党政府が労働党政府に取って代わるのを我々は見た。しかし両者の違いはごくわずかだった。労働党政府は力の及ぶ限り保守党が代表する利害と教義を尊重したし、保守党政府もゼネストのさなかにあってさえ、労働党が代表する利害と政治原則をできる限り尊重しようとした。フランスでは左翼カルテルが、国民ブロックの対極として単独で統治し、対外政策ではドイツとの和解と協調の提案を推し進めることができた。しかし、左翼カルテルは多数派を握っていたにもかかわらず、財政の再建が問題となったとき、もはやフランス全体を代表することができなかった。国の財政を立て直すには、あらゆる階級とあらゆる政党に犠牲を求め、妥協と調停の政府に頼らねばならなかったからである。7年来、ドイツ共和国もまた、君主制の伝統と民主主義、民族主義と社会主義、カトリックとプロテスタント、資本主義とプロレタリアート、過去と未来のあいだの妥協と調停によってのみ事を進めてきた。このまま続けるなら、ドイツ共和国は、悪魔と聖水を折り合わせ、和解しえないものを和解させることに成功した体制として歴史に名を残すだろう。
* * *
逆に、武装した小さな少数派が普通選挙を廃して権力を奪った国々のうちの二つ、ロシアとイタリアで何が起きたかを見よ。ロシアでは少数派が24時間のうちに旧来の社会階級からすべての財産を奪うことができ、イタリアでは数か月のうちに、ほとんど議論もなく1815年の絶対君主制を復活させ、こうしてこの国が1860年以来享受してきたあらゆる自由を廃止することができた。この二つの国のどちらにおいても、普通選挙がこれほど絶対的な体制を生み出すことは決してなかっただろう。
この現象を説明するのは難しくない。数百万の男性(そしてしばしば女性も)から成る選挙民は巨大な集団であり、必然的に重く、雑多である。だからこそ、新しい思想、極端な思想、つねに多かれ少なかれ突飛な思想の衝撃によってその全体を動かすのは難しい。この種の思想を好むのは、ほとんど熱狂者の均質な少数派だけである。逆に、貧者も富者も、貴族もブルジョワも、学者も生半可な教養人も無学な者も、農民も労働者も、信者も不信心者も、互いに最も対立する教義の信奉者たちも、みな普通選挙の一部をなしている。ただし彼らは、互いに理解し合い、団結し、ともに動くことのできる、より小さく均質な、さまざまな集団を数多く形づくる必要がある。しかしこれらの集団のどれひとつとして、優越的で決定的な行動によって他の集団を支配するには至らない。イギリスのように政党が二つか三つしかない国々においてさえ、この単純さは実際のものというより見かけのものである。どの政党も多様な傾向、利害、教義から成り、それらが均衡を求めることで、政党の行動は慎重で思慮深いものになるからである。
* * *
誠実に適用された普通選挙は、それ自体としては、中庸の思想、調停の政府、すでに存在するもの、生き延びる力のあるものを尊重しようとする妥協の政策しか表現しえない。したがって、メキシコで教会が普通選挙に訴えようとし、政府がそれに反対したことに驚くには当たらない。強力な少数派の宗教でさえ、どの国においても普通選挙によって執拗に迫害されることは決してないし、多数派の宗教であればなおさらだからである。革命政党や失うもののほとんどない人々が普通選挙の敵であることにも、驚くには当たらない。しかし、多くの国で富裕階級までもが普通選挙の敵の側に立ち、普通選挙から生まれる諸制度を快く思わないのはなぜかを説明するのは、より難しい。
確かに、調停と妥協の政府は一般に鈍く、いささか動きが重く、新しさや主導性に乏しい。それは大きな害悪だろうか。告白せねばならないが、私にはそうは思えない。政府にとって大事なのは、できる限り賢明で公正であることである。活気、精力、主導と革新の精神について言えば、少なくとも平時には、それを持つのは市民であって政府ではないことが重要である。戦争だけが、活発で行動的で精力的な政府を必要とする。平時によく生きるためには、人民は、万人の権利、利害、感情、願望を調整しようと努め、各国民の生きた力が最も多様な形で自由に増殖するに任せる政府を持てば足りる。そうした政府は、市民から成る国民においては、普通選挙によって選ぶことができる。
グリエルモ・フェレーロ
第7面に「経済週報」。
詩人ジャン・ペルディオス
22年前のある穏やかな夏の夕べ、身も心もまことのアポロンの末裔のような一人のギリシャ青年が、大学で法学と文学の学業を終えてジュネーブを後にした。彼はこの愛すべき栄光の都を遠く離れてギリシャの地へ向かい、ギリシャの島々の筆頭である故郷キプロス島に腰を据えるという固い決意を抱いていた。出発の数日前、霊感に満ちたこの若者は、ギリシャ人学生たちの先頭に立ち、自由ギリシャの歴史ある川の岸辺から取り寄せた月桂樹の枝を、ジュネーブの偉大な親ギリシャ家エナールの墓に供え、理想と自由を愛するすべての心にとって大切な国スイスをたたえて、自作の最初期の詩のいくつかを朗唱したのだった。
ジャン・ペルディオス――ここで語っているのは彼のことだ――は、スイス・ロマンドの高い文化の畑で刈り集めた豊かな収穫を両手いっぱいに抱えてキプロスに戻り、文芸、とりわけ詩作に全身全霊を傾けた。ジャン・ペルディオスは成功への道を速やかに進んだ。帰国の2年後、彼はギリシャ語とフランス語による最初の詩集を世に出した。スイス・ロマンドの新聞、とりわけ彼の愛するジュネーブの大新聞は、この最初の本を大きな共感をもって迎えた。フランス、イギリス、ドイツ、さらには合衆国でも、この幸運な本は好意的な批評ばかりを受けた。
以後、ジャン・ペルディオスは自らの務めに身を捧げる。彼は2年ごとに本を出し、そのどれもが最初の本と同じく好評を得る。ただ一つ違うのは、これ以降、母国語で書かれた彼の詩をフランスの詩人たちが翻訳するようになったことだ。疲れを知らぬ彼は、1912年まで詩を単行本として出し続ける。1912年は彼の経歴にとって記念すべき年である。この年、彼は自らの詩作のすべてを載せるための週2回刊の韻文雑誌を創刊するという、恐るべき決断を下したからだ。こうして1912年以来、ジャン・ペルディオスはただ一人で、いかなる協力も決して受け入れずに、すべてが韻文から成る自らの雑誌の紙面を埋めてきた。その本質は政治的・社会的であり、その形式は諷刺的かつ抒情的である。つねに城壁の上に立ち、彼は世界の出来事、とりわけ祖国の出来事を注意深く見守る。しばしば彼はそれを予見する。彼は同時代の政治的・社会的現実の動きを、ときに微笑み、ときに寛大に、使徒として、あるいは預言者として見つめる。その明快な言葉はつねに大衆に理解され、同時にエリートをも喜ばせる。簡潔で誠実で凝縮されたその文体は、つねにまことの鏡のように彼の思想と感情を映し出す。彼は最も少ない言葉を用いながら、健全で力強い思想をつねに見事に表現してのける詩人である。彼は空疎な言葉や大仰な言葉を嫌い、表現の見事な簡素さを愛する。15年分の彼の雑誌は、すでに非常に分厚い一巻の詩集をなしている。ジャン・ペルディオスが散文を用いるのは公開書簡においてだけであり、それは彼の努力と目標のあいだに割り込もうとする名士たちに宛てるときである。
アッティカの丘の稜線のように端正で、テッサリアの川の流れのように澄んだ彼の詩句は、そのすべてが彼の比類ない精神の力を表し、説き明かしている。彼は現代詩学の苦悶を知らないし、知ろうともしない。彼は、まっすぐ目標に届く簡素な言葉の伝統にとどまっている。そもそもジャン・ペルディオスの詩は、何よりも現実の生の躍動から生まれている。彼の民族の大いなる解放の闘いの前夜、彼は竪琴を乱戦のただ中に投じ、その竪琴は祖先テュルタイオスの青銅のオルガンのように鳴り響く。詩人は「徳」が何であるかを正確に知り、「美」を深く感じ取り、「正義」の名において「悪」を糾弾する。そして「悪」に仕える邪悪な者たちに向けては、祖先アルキロコスの容赦ない諷刺詩を思わせる調子を見いだす。彼はキプロスの民に、そして彼らを通じてギリシャの民全体に、道徳的再起の大いなる輝かしい道を指し示す。それこそが社会の再建と、政治的・国民的な再生へと導く唯一の道である。誰もが、ジャン・ペルディオスがどういう人物か、どれほどの価値があるか、どんな理想を追い、どこへ向かっているかを知っている。だからこそ彼は故郷で皆に愛され、敬われている。誰をも恐れず、彼は歌によって行動する。奇妙で、意味深いことがある。5年前、ジャン・ペルディオスが雑誌創刊10周年を機にギリシャから祝福されたとき、キプロスの劇場や学校や諸団体で彼に喝采を送った群衆の中には、彼の詩神によって煉獄や地獄に送られた邪悪な者たちが大勢いたのだ!
ジュネーブを去って以来、ペルディオスは生まれ故郷の町、キプロスの美しく古い首都ニコシアを一度も離れたことがない。彼は決してそこを離れず、善良さと優しさの偶像のように敬愛する老母とともに暮らしている。近代ギリシャのもう一人の偉大な詩人ディオニシオス・ソロモス――ゲーテが新しい詩の半神の一人として崇め、コルフ島を決して離れようとしなかった詩人――にならい、ジャン・ペルディオスも、機会を与えられながら、キプロスを離れる決心をしたことは一度もない。しかし、ギリシャの海の果ての水の奥深くに隠れたその観測所から、彼は地平線のすべてを見渡している。
ここで筆を止めよう。今日の私の意図は、ジャン・ペルディオスの人物と作品を分析することではない。私はただ、ジュネーブで、ほかならぬこの新聞において、まことに正当な励ましを受けた彼の最初の本の刊行20周年に当たり、彼に挨拶を送りたかったのである。
レオニダス・パウリデス
教皇用特別列車でローマからテルニへ
ローマ通信員が次のように書き送ってきた。
「教皇の名において、アッシジのポヴェレッロの七百年を経た記憶をたたえる」ため、教皇はサン・ピエトロ大聖堂の首席司祭、ラファエル・メリー・デル・バル枢機卿を選んだ。特使の出発前夜、ピウス十一世は彼と長い会談を行った。その会談は確かに興味深いものであり、いつの日か聖座とイタリア王国の関係の歴史……そしていわゆる解決不能な「ローマ問題」の解決の歴史がたどられるときに、思い起こされることになるかもしれない。
事実、双方とも、枢機卿特使のアッシジ行きに大きな注目と華やかさを与えるためにあらゆる努力を尽くした。イタリア当局は、教皇の代理人に対し、君主にふさわしいあらゆる便宜とあらゆる栄誉を与えようと奔走し、特使もそれを明らかな満足をもって受け入れた。1870年以来初めて――イタリアの半官筋はこの点を強調したがっている――教皇の列車がローマを出発し、旧教皇領のかなりの部分を横断して、文官・武官当局の公式の敬意を受けた。教皇本人に代わって、この教皇用特別列車に乗り込んだのは教皇のアド・ラテレ特使である。慣例では、この列車は教皇のために取っておかれている。しかもこのアド・ラテレ特使は教会の元老院でも最も卓越した長老の一人であり、彼がピウス十世の在位中に聖座の国務長官を務めたことを忘れる者はいない。ピウス十世は、ここで言われるところでは「イタリアに面倒をかけなかった最初の教皇」である。
ありがたい心遣いにより、メリー・デル・バル枢機卿は、イタリア政府が丁重に彼の用に供した特別列車に「乗車して」アッシジでの新たな式典に赴くよう、我々を招いてくれた。メリー・デル・バル家の紋章入りで、枢機卿特使の副署のある優雅なカードが、鉄道の乗車券の役を果たした……。
日曜の朝、ローマ中央駅の小さな王室用待合室が扉を開き、猊下を通した。きらびやかな随員を従えた猊下は、すぐに向かいの特別客車に乗り込む。そして教皇の列車は、いくつもの代表団に見送られて動き出す。
メリー・デル・バル枢機卿のこのアッシジ行きには、まったく特別な点があった。この枢機卿は、ローマを出発した時点から教皇代理という公式の職務を帯びていたのである。枢機卿会議のたびに、新たに選ばれた者たちに枢機卿の帽子とカロッタを届けるため外国へ赴く教皇使節団は、イタリア領内では一私人として旅行し、王国の国境を越えてから初めて公式の性格を帯びる。今日はそれとは反対に、教皇特使はあらゆる公式の栄誉に包まれて出発し、使節団の俗人の随員はすでにローマで教皇宮廷のきらびやかな制服を身に着けていた。
2両の強力な機関車に引かれた我々の列車は、ラツィオを速やかに走り抜けた。ラツィオは黄ばんだ広大な平原で、水牛や馬の群れがかろうじていくらかの牧草を見つけている。オルテでメリー・デル・バル枢機卿は、参事会と地元の諸団体に囲まれた司教から最初の表敬を受けた。その後、列車は肥沃なネーラ川の谷に入る。我々はウンブリアの入り口、聖フランチェスコ・ダッシジがこよなく愛した土地にいる。枢機卿特使はこの時を選んで我々を特別客車に迎え、このうえなく親しげに語り合った。プッチ師が彼を補佐し、ほかに宮廷の俗人随員二人、使徒宮殿主計長のサッケッティ侯爵と、剣と外套の侍従カジャーノ・デ・アゼヴェード卿が付き添っていた。二人は黒いビロードに白い襞襟のアンリ4世風の装束をまとい、たいそう優雅だった。
メリー・デル・バル枢機卿の姿を今さら描写する気になれようか。この高位聖職者のよく知られた姿は、ローマのサン・ピエトロ大聖堂で主要な式典を司る彼を見た人々の記憶から、決して消えることはないだろう。そこで彼は堂々たる体躯で、手にしたろうそくのようにまっすぐ立ち、行列の先頭に姿を現す。彼はまことのスペイン大貴族であり、横顔も正面の顔も驚くほど整った目鼻立ちを見せる。口と鼻はまれに見る繊細さで、いまなお真っ黒な濃い眉が眼差しの力を際立たせている。だが彼が何より人に強い印象を与えるのは声であり、その声は澄んでいて柔らかく、しかも確固として鋭い。気まずい前置きなしに始まった会話の中で、すでに数多くの宗教的・外交的出来事に関わってきたこの教会の君主が、明らかに……
解説
フェレーロが冒頭に挙げたメキシコの政教対立
フェレーロの論説は、メキシコの司教団が自由な投票を条件に宗教問題を国民投票にかけるよう提案し、政府がこれを拒んだという出来事から書き起こしている。この対立の背景には、プルタルコ・エリアス・カリェス大統領が1917年憲法を教会に対して厳しく適用した事情がある。カリェスは1926年6月に刑法改正法、通称カリェス法に署名し、この法律は憲法の規定に違反した聖職者や修道者への具体的な罰則を定めた。カリェス政権は、法律に公然と反対した司教一人を逮捕し、裁判にかけ、有罪とした。司教団は憲法改正という手続きも試み、1926年9月に改正案を提出したが、議会は9月22日にこれを否決した。国民投票の提案そのものについては、ここで確認できる記録はフェレーロの論説だけである。この提案は、教会指導部が法と世論に訴え、政府がそのたびに道を閉ざしたという一連の流れとよく合っている。フェレーロのいう恐ろしい宗教戦争は、1926年10月の時点ではまだ初期の段階にあった。1926年には平和的な抵抗の時期を経ていくつかの小競り合いが起きていたが、クリステロの正式な反乱が始まったのは1927年1月1日であり、この論説の約3か月後である。
監視下のイタリアから書いた反ファシストのフェレーロ
グリエルモ・フェレーロは当初からファシズムに反対した人物であり、1925年にはベネデット・クローチェの反ファシスト知識人宣言に署名した。ファシスト政権はフェレーロを厳しい監視下に置き、国外へ出ることを禁じた。ムッソリーニがフェレーロに旅券を与えたのは1929年10月であり、ジュネーブの国際労働事務局長アルベール・トマの働きかけを受けてのことだった。1926年10月にこの論説が載ったとき、フェレーロはまだイタリア国内に留め置かれており、ジュネーブという日付欄は新聞社のものである。フェレーロは、武装した少数派が普通選挙を廃止した国としてイタリアをロシアと並べ、ファシズムが1815年の絶対君主制を復活させ、イタリアが1860年以来享受してきた自由を廃止したと書いた。監視下にある人物がこう書いたことは、この比較が本人にとって危険をともなうものだったことを示している。これらの表現はフェレーロ自身の論争的な判断である。大衆の選挙民は妥協の政府しか生まないという中心の主張も、フェレーロが論証として示した見解である。
教皇特使のアッシジ行きが示した聖座とイタリアの接近
ローマ通信員は、イタリアの半官筋が1870年以来初めての出来事だと強調したがっていると書いた。1870年はイタリアがローマを占領した年である。メリー・デル・バル枢機卿が率いる教皇使節団は、聖フランチェスコ七百年祭に参加するため1926年10月3日にアッシジに到着した。歴史家ピエトロ・フェデーレ公教育相が枢機卿を出迎え、イタリア王国の大臣と教皇の代理人が公式の場で顔を合わせたのは1870年以来初めてだった。10月4日には特使がフェデーレと会見し、バチカン・ニュースは2026年の記事でこの会見が1929年のラテラノ条約に至る正式交渉への道を開いたと伝えている。通信員は、ピウス11世が出発前夜に特使と交わした長い会談がいつかローマ問題解決の歴史で思い起こされるかもしれないと書いており、この見通しは3年後の決着を先取りしていた。記事そのものが記録しているのは、旅の栄誉と象徴的な演出である。
メリー・デル・バル枢機卿のバチカンでの地位
ローマ通信員は、特使がピウス10世の下で国務長官を務めたことを読者に思い出させ、ピウス10世はイタリアに面倒をかけなかった最初の教皇だというローマでの評言を引いた。ラファエル・メリー・デル・バルは、ピウス10世によってわずか38歳で枢機卿と国務長官に任命され、その後の教皇の下では検邪聖省の書記を務めた。メリー・デル・バルはバチカンで最も権威ある人物の一人であり、1914年と1922年の教皇選挙では教皇に選ばれる寸前までいった。ピウス11世はこれほど高位の聖職者を特使に選び、イタリア政府は彼に君主並みの栄誉を与えて旧教皇領を通過させた。双方のこの選択が、通信員の伝えたアッシジ行きの重みを生んだのである。
原文
Suffrage universel et dictature
GENÈVE, 10 octobre 1926 Suffrage universel et dictature Il y a quelques mois, tandis qu'une terrible guerre religieuse sévissait au Mexique, l'épiscopat proposa au gouvernement de soumettre la question au peuple par un plébiscite, à condition que la liberté de vote fût sérieusement garantie. Le gouvernement refusa. Cet épisode, bien qu'il ait passé presque inaperçu, est important. Que faisait l'Eglise, en effet, en prenant l'initiative de cette proposition? Elle confiait au suffrage universel la défense de sa cause au Mexique. Qui aurait jamais imaginé, il y a à peine trente ans, que pareille chose fût possible? Pendant tout le XIXe siècle, l'Eglise a considéré le suffrage universel comme une inspiration venue plus ou moins du diable. Lamennais encourut bien des disgrâces pour avoir affirmé le droit du peuple à diriger luimême ses affaires et à prendre soin de ses intérêts. Pour quelles raisons l'Eglise n'hésite-t-elle plus aujourd'hui à confier la cause de Dieu à ce fils du XIXe siècle hier encore si redouté? Et pourquoi, au contraire, le gouvernement mexicain se méfie-t-il du suffrage universel, lui qui se proclame le fils de la Révolution et le champion des plus audacieuses idées de progrès? * * * Cette situation ne se présente pas seulement au Mexique; il s'agit là d'un phénomène plus général que l'on commence à entrevoir un peu partout. Le suffrage universel, qui dès 1848 fut la terreur de toutes les classes et de tous les partis conservateurs, commence à devenir la grande force conservatrice du monde moderne; il prend la place de toutes les autres forces conservatrices, affaiblies ou détruites par les révolutions et les guerres des cinquante dernières années. Pour s'en persuader il suffit de comparer les pays où le gouvernement est le mandataire du suffrage universel avec ceux où le pouvoir a été conquis par la violence. Dans les premiers le gouvernement procède par des transactions et des conciliations continuelles entre des intérêts et des doctrines opposés. Tout en s'efforçant de satisfaire les besoins nouveaux il cherche à respecter autant que possible l'ordre politique et économique déjà existant. Dans les autres pays ce sont les idées extrêmes professées, défendues et rendues légales par de petites minorités qui ont la victoire et qui dominent le peuple. Prenons comme exemple les pays gouvernés par le suffrage universel: l'Angleterre, la France, l'Allemagne. Nous avons vu en Angleterre un gouvernement conservateur remplacer un gouvernement travailliste: mais la différence entre eux était minime. Le gouvernement travailliste a respecté, autant qu'il était en son pouvoir de le faire, les intérêts et les doctrines représentés par le parti conservateur; et même en pleine grève générale, le gouvernement conservateur a cherché à respecter autant qu'il le pouvait les intérêts et les principes politiques représentés par le parti travailliste. En France le cartel des gauches a pu gouverner seul, comme l'antithèse du bloc national, et poursuivre dans sa politique extérieure ses propositions de conciliation et d'entente avec l'Allemagne. Mais, malgré sa majorité, il ne lui a plus été possible de représenter toute la France lorsqu'il s'est agi de restaurer les finances. Car, pour restaurer les finances du pays, il a fallu demander des sacrifices à toutes les classes et à tous les partis et recourir à un gouvernement de transaction et de conciliation. Depuis sept ans la République allemande ne procède elle aussi que par des transactions et des conciliations entre les traditions monarchiques et la démocratie, entre le nationalisme et le socialisme, entre le catholicisme et le protestantisme, entre le capitalisme et le prolétariat, entre le passé et l'avenir. Si elle continue ainsi la République allemande sera connue dans l'histoire comme le régime qui a réussi à mettre d'accord le diable et l'eau bénite et à réconcilier l'irréconciliable. * * * Regardez au contraire ce qui s'est produit dans deux des pays où une petite minorité armée s'est emparée du pouvoir en supprimant le suffrage universel: en Russie et en Italie. En Russie la minorité a pu, en 24 heures, enlever tous leurs biens aux anciennes classes sociales de la population, et en Italie rétablir en peu de mois, presque sans discussion, la monarchie absolue de 1815, abolissant ainsi toutes les libertés dont elle bénéficiait depuis 1860. Jamais, dans aucun de ces deux pays le suffrage universel n'aurait eu comme résultat un régime aussi absolu. Il n'est pas difficile de s'expliquer ce phénomène. Un corps électoral composé de plusieurs millions d'hommes (et souvent aussi de femmes) représente une masse énorme, forcément pesante et hétérogène; c'est pourquoi il est difficile de la mouvoir tout entière sous l'impulsion d'une idée neuve, d'une idée extrême, toujours plus ou moins extravagante. Les idées de ce genre ne plaisent guère qu'à des minorités homogènes d'exaltés. Pauvres et riches, aristocrates et bourgeois, savants, demi-lettrés et ignorants, paysans et ouvriers, croyants et incrédules, disciples de doctrines les plus opposées les unes aux autres font au contraire partie du suffrage universel. Mais il est nécessaire qu'ils forment un nombre considérable de groupes divers, plus petits et plus homogènes, qui puissent s'entendre, s'unir et se mouvoir ensemble. Pourtant, aucun de ces groupes ne peut parvenir à dominer les autres groupes par une action prépondérante et décisive. Même dans les pays où, comme en Angleterre, il n'existe que deux ou trois partis politiques, cette simplicité est plus apparente que réelle, car chaque parti est formé de tendances, intérêts et doctrines multiples qui, en cherchant l'équilibre, rendent son action prudente et réfléchie. * * * Le suffrage universel appliqué sincèrement ne peut exprimer par lui-même que des idées moyennes, des gouvernements de conciliation, des politiques de transaction qui tendent à respecter ce qui existe déjà, et ce qui est capable de vivre. Il ne faut donc pas s'étonner qu'au Mexique l'Eglise ait voulu en appeler au suffrage universel et que le gouvernement s'y soit opposé. Car même la religion d'une forte minorité ne sera jamais et en aucun pays persécutée avec acharnement par le suffrage universel; encore bien moins celle de la majorité. Il ne faut pas s'étonner non plus que les partis révolutionnaires et les gens qui ont peu de chose à perdre soient les ennemis du suffrage universel. Mais il est plus difficile d'expliquer pourquoi, dans bien des pays, les classes riches se trouvent aussi parmi les ennemis du suffrage universel et pourquoi elles voient de mauvais œil les institutions qui en découlent. Il est vrai que les gouvernements de conciliation et de transaction sont en général lents, un peu engourdis, peu enclins à la nouveauté et à l'initiative. Est-ce là un grand mal? Je dois l'avouer, j'ai peine à m'en persuader. Ce qui importe pour un gouvernement, c'est qu'il soit sage et juste autant qu'il peut l'être. Quant à la vivacité, à l'énergie, à l'esprit d'initiative et de nouveauté, il est important, du moins en temps de paix, que les citoyens les possèdent et non le gouvernement. Seule la guerre réclame des gouvernements vifs, actifs, énergiques. Pour bien vivre en temps de paix, il suffit que les peuples aient des gouvernements qui cherchent à coordonner les droits, les intérêts, les sentiments et les aspirations de tous en laissant les forces vives de chaque nation libres de se multiplier dans les manifestations les plus diverses. Ces gouvernements-là, dans une nation de citoyens, peuvent être nommés par le suffrage universel. Guglielmo Ferrero. En septième page: la «Semaine économique».
Le poète Jean Perdios
SUISSE: le N ° 15 c. (Suisse romande: 10 c.) étranger: s'adresser à notre Administration, les prix varient selon que les pays ont adhéré ou non à la Convention internationale pour l'abonnement postal. Le poète Jean Perdios Voici vingt-deux ans que par un doux soir d'été un jeune Grec, véritable Apollonide de corps et d'âme, quittait Genève après avoir terminé à l'Université ses études de droit et de lettres. Il s'en allait, loin de cette chère et glorieuse cité, en pays hellénique, avec la ferme décision de se fixer dans la première des îles grecques, dans l'île de Chypre, son pays d'origine. Quelques jours avant son départ, ce jeune inspiré, à la tête des étudiants hellènes, avait déposé une branche de laurier - qu'il avait fait venir des bords d'un des fleuves historiques de la Grèce libre - sur la tombe du grand philhellène genevois Eynard, en déclamant quelques-uns de ses premiers vers en l'honneur de la Suisse, pays cher à tous les cœurs épris de l'idéal et de la liberté. Jean Perdios, car c'est de lui qu'il s'agit, rentré à Chypre les mains pleines de la bonne et riche récolte ramassée sur les champs de la haute culture romande, s'était donné entièrement aux belles-lettres, à l'art du vers tout spécialement. Jean Perdios marcha rapidement sur la route du succès. Deux ans après son retour, il lançait son premier recueil de poésies en grec et en français. La presse de la Suisse romande, la grande presse surtout de sa chère Genève, accueillait avec beaucoup de sympathie ce premier livre. En France, en Angleterre, en Allemagne et même aux Etats-Unis, ce livre heureux ne rencontra que des critiques bienveillantes. Dès lors, Jean Perdios se donne tout à sa tâche. Tous les deux ans il publie, et tous ses livres sont aussi bien reçus que le premier, avec la seule différence que, dorénavant, ce sont des poètes français qui traduisent ses poésies écrites en langue nationale. Il continue, infatigable, l'édition en livres séparés de ses poésies jusqu'en 1912, date mémorable dans sa carrière, car il prend la redoutable décision de fonder une revue en vers, bi-hebdomadaire, laquelle est destinée à recevoir toute son œuvre poétique. C'est ainsi que, depuis 1912, Jean Perdios remplit seul et sans jamais accepter aucune collaboration, les pages de sa revue toute rimée, dont l'essence est politique et sociale, et la forme satirique et lyrique. Toujours debout sur les remparts, il suit attentivement les événements du monde et particulièrement ceux de son pays. Souvent il les prévoit; il contemple le mouvement de la réalité politique et sociale contemporaine, tour à tour souriant ou magnanime, apôtre ou prophète. Son langage clair est toujours compris des foules comme il plaît à l'élite, son style sobre, sincère, concentré, représente toujours ses idées et ses sentiments comme un véritable miroir. C'est le poète qui emploie le moins de mots en réussissant pourtant toujours à exprimer à merveille sa pensée saine et forte. Il abhorre le mot creux ou pompeux, il adore l'admirable simplicité de l'expression. Les quinze années de sa revue forment déjà un très gros volume de vers. Jean Perdios ne fait usage de la prose qu'en des lettres ouvertes, lorsqu'il s'adresse à des personnes notoires qui essayent de se mettre entre son effort et son but. Ses vers, corrects comme les lignes des collines attiques, limpides comme le cours des fleuves thessaliens, expriment tous et expliquent tous sa force d'esprit incomparable. Il ne connaît pas, il ne veut pas connaître les tourments de la poétique moderne. Il reste dans la tradition de la parole simple qui arrive au but directement. Du reste la poésie de Jean Perdios procède surtout de l'élan vital de la réalité. A la veille des grandes luttes libératrices de sa race, il jette sa lyre dans la mêlée et celle-ci résonne comme l'orgue d'airain de l'ancêtre Tyrtée. Le poète sait exactement ce qu'est la Vertu, il sent profondément le Beau; au nom de la Justice, il flétrit le Mal. Et pour les méchants serviteurs du Mal il trouve des accents qui font penser aux impitoyables épigrammes de l'ancêtre Archiloque. Il indique à son peuple de Chypre et, par lui, au peuple de Grèce tout entier, la grande et lumineuse route du relèvement moral, la seule qui conduira vers la reconstruction sociale et la renaissance politique et nationale. Tous ils savent ce qu'est Jean Perdios, ce qu'il vaut, l'idéal qu'il poursuit, où il va; et c'est pour cela qu'il est chez lui aimé et respecté de tous. Sans craindre personne, il agit par ses chants. Chose étrange et significative! Lorsqu'il y a cinq ans Jean Perdios a été fêté par la Grèce à l'occasion du décennat de sa revue, parmi les foules qui l'acclamaient dans les théâtres, les écoles et les sociétés de Chypre, se trouvaient nombre de ces méchants mis par sa muse en purgatoire ou dans l'enfer! Depuis son départ de Genève, Perdios n'a jamais quitté sa ville natale, Nicosie, la belle et antique capitale de Chypre. Il ne s'en éloigne jamais, vivant avec sa vieille mère qu'il adore comme une idole de bonté et de tendresse. A l'exemple d'un autre grand poète de la Grèce moderne, Dionysios Solomos, que Goethe vénérait comme un des demi-dieux de la poésie nouvelle, qui n'a jamais voulu s'éloigner de l'île de Corfou, Jean Perdios, malgré les occasions qui lui furent offertes, ne s'est jamais décidé à quitter Chypre. Mais, de son observatoire perdu au fond des eaux extrêmes de la mer grecque, il embrasse tout l'horizon. Je m'arrête ici, mon dessein n'étant pas de faire aujourd'hui l'analyse de la personnalité et de l'œuvre de Jean Perdios. J'ai tout simplement voulu lui adresser un salut à l'occasion du vingtième anniversaire de l'apparition de son premier livre, qui avait trouvé à Genève et dans ce journal même un encouragement si légitime. Léonidas Paulidès. De Rome à Terni dans le train basilical Notre correspondant de Rome nous écrit: Pour aller «honorer en son nom la mémoire sept fois centenaire du Poverello d'Assise», le souverain-pontife a choisi le cardinal Raphael Merry del Val, archiprêtre de la basilique de Saint-Pierre. A la veille du départ de son légat, Pie XI eut, avec lui, une longue conversation, assurément pleine d'intérêt et que l'on rappellera peut-être un jour, lorsqu'on retracera l'histoire des relations entre le Saint-Siège et le royaume d'Italie... et de la solution de la soidisant insoluble «question romaine». Le fait est que, de part et d'autre, tous les efforts possibles ont été accomplis pour donner beaucoup de relief et d'éclat au voyage à Assise du cardinal-légat, et les autorités italiennes se sont multipliées pour rendre au représentant du pape, et celui-ci les a acceptés avec une satisfaction évidente, tous les services et tous les honneurs dus à un souverain. Pour la première fois depuis 1870 - les sphères officieuses italiennes tiennent à le faire remarquer -, un train papal a quitté Rome et a traversé une bonne partie des anciens Etats pontificaux, en recevant l'hommage officiel des autorités civiles et militaires. A défaut de la personne même du pape, c'est son légat ad latere qui a pris place dans ce train basilical, dont l'usage veut qu'il soit réservé au souverain-pontife. Ce légat ad latere est d'ailleurs l'un des pères les plus éminents du Sénat de l'Eglise, et personne n'oublie qu'il fut le Secrétaire d'Etat du Saint-Siège, sous le pontificat de Pie X, «le premier pape, dit-on ici, qui n'ait pas causé d'ennuis à l'Italie». Par une attention dont nous lui savons gré, le cardinal Merry del Val, nous a invité à nous rendre aux nouvelles cérémonies d'Assise «à bord» du convoi spécial mis gracieusement à sa disposition par le gouvernement italien: un élégant carton portant les armoiries des Merry del Val et contresigné par le cardinal-légat, faisait office de billet de chemin de fer.... Dimanche matin, à Rome, le petit salon royal de la gare centrale a ouvert ses portes pour livrer passage à Son Eminence. Accompagnée de sa cour brillante, elle monte aussitôt dans le wagon-salon d'en face. Et le train pontifical s'ébranle, salué par plusieurs délégations. Ce voyage du cardinal Merry del Val à Assise a eu ceci de tout à fait particulier que, dès son départ de Rome, le porporato a revêtu les fonctions officielles de représentant du pape. Les missions pontificales qui, lors de chaque Consistoire, se rendent à l'étranger, pour porter aux nouveaux élus la barrette et la calotte cardinalices voyagent en territoire italien comme de simples particuliers et n'assument leur caractère officiel qu'après avoir franchi les frontières du royaume. Aujourd'hui, au contraire, le légat du pape est parti avec tous les honneurs officiels et les membres laïques de la mission ont endossé, à Rome déjà, leurs brillants uniformes de la cour pontificale. Notre convoi, tiré par deux puissantes locomotives, a rapidement franchi le Latium: vaste plaine jaunie où les troupeaux de buffles et de chevaux trouvent avec peine quelque pâture. Après Orte, où le cardinal Merry del Val a reçu un premier hommage de la part de l'évêque, entouré du chapitre et des associations locales, le train s'engage dans la vallée fertile de la Nera. Nous sommes aux portes de l'Ombrie, la terre de prédilection de Saint-François d'Assise. C'est ce moment que le cardinal-légat choisit pour nous recevoir dans son wagon-salon et s'entretenir avec nous de la façon la plus aimable. Mgr Pucci l'assiste, ainsi que deux membres laïques de sa cour, le marquis Sacchetti, fourriermajor des palais apostoliques, et le gentilhomme Cagiano de Azevedo, camérier de cape et d'épée, très élégants dans leur costume Henri IV, velours noir et collerette blanche. Ose-t-on encore décrire le cardinal Merry del Val? Cette figure si connue de grand prélat ne peut certainement pas être oubliée par ceux qui l'ont vu présidant aux principales cérémonies, dans Saint-Pierre de Rome, où, de stature imposante, droit comme le cierge qu'il porte, il apparaît à la tête des processions. Véritable grand d'Espagne, dont le profil comme la face révèlent des traits d'une régularité extraordinaires - la bouche et le nez d'une rare finesse, alors que d'épais sourcils, restés très noirs, accentuent la force de son regard -, il impressionne plus encore par sa voix, qui est à la fois claire et douce, ferme et pénétrante. On sent, dans la conversation qui s'est engagée sans préambules embarrassants, que ce prince de l'Eglise, mêlé déjà à tant d'événements religieux et diplomatiques, a nettement con -
De Rome à Terni dans le train basilical
un encouragement si légitime. Léonidas Paulidès. De Rome à Terni dans le train basilical Notre correspondant de Rome nous écrit: Pour aller «honorer en son nom la mémoire sept fois centenaire du Poverello d'Assise», le souverain-pontife a choisi le cardinal Raphael Merry del Val, archiprêtre de la basilique de Saint-Pierre. A la veille du départ de son légat, Pie XI eut, avec lui, une longue conversation, assurément pleine d'intérêt et que l'on rappellera peut-être un jour, lorsqu'on retracera l'histoire des relations entre le Saint-Siège et le royaume d'Italie... et de la solution de la soidisant insoluble «question romaine». Le fait est que, de part et d'autre, tous les efforts possibles ont été accomplis pour donner beaucoup de relief et d'éclat au voyage à Assise du cardinal-légat, et les autorités italiennes se sont multipliées pour rendre au représentant du pape, et celui-ci les a acceptés avec une satisfaction évidente, tous les services et tous les honneurs dus à un souverain. Pour la première fois depuis 1870 - les sphères officieuses italiennes tiennent à le faire remarquer -, un train papal a quitté Rome et a traversé une bonne partie des anciens Etats pontificaux, en recevant l'hommage officiel des autorités civiles et militaires. A défaut de la personne même du pape, c'est son légat ad latere qui a pris place dans ce train basilical, dont l'usage veut qu'il soit réservé au souverain-pontife. Ce légat ad latere est d'ailleurs l'un des pères les plus éminents du Sénat de l'Eglise, et personne n'oublie qu'il fut le Secrétaire d'Etat du Saint-Siège, sous le pontificat de Pie X, «le premier pape, dit-on ici, qui n'ait pas causé d'ennuis à l'Italie». Par une attention dont nous lui savons gré, le cardinal Merry del Val, nous a invité à nous rendre aux nouvelles cérémonies d'Assise «à bord» du convoi spécial mis gracieusement à sa disposition par le gouvernement italien: un élégant carton portant les armoiries des Merry del Val et contresigné par le cardinal-légat, faisait office de billet de chemin de fer.... Dimanche matin, à Rome, le petit salon royal de la gare centrale a ouvert ses portes pour livrer passage à Son Eminence. Accompagnée de sa cour brillante, elle monte aussitôt dans le wagon-salon d'en face. Et le train pontifical s'ébranle, salué par plusieurs délégations. Ce voyage du cardinal Merry del Val à Assise a eu ceci de tout à fait particulier que, dès son départ de Rome, le porporato a revêtu les fonctions officielles de représentant du pape. Les missions pontificales qui, lors de chaque Consistoire, se rendent à l'étranger, pour porter aux nouveaux élus la barrette et la calotte cardinalices voyagent en territoire italien comme de simples particuliers et n'assument leur caractère officiel qu'après avoir franchi les frontières du royaume. Aujourd'hui, au contraire, le légat du pape est parti avec tous les honneurs officiels et les membres laïques de la mission ont endossé, à Rome déjà, leurs brillants uniformes de la cour pontificale. Notre convoi, tiré par deux puissantes locomotives, a rapidement franchi le Latium: vaste plaine jaunie où les troupeaux de buffles et de chevaux trouvent avec peine quelque pâture. Après Orte, où le cardinal Merry del Val a reçu un premier hommage de la part de l'évêque, entouré du chapitre et des associations locales, le train s'engage dans la vallée fertile de la Nera. Nous sommes aux portes de l'Ombrie, la terre de prédilection de Saint-François d'Assise. C'est ce moment que le cardinal-légat choisit pour nous recevoir dans son wagon-salon et s'entretenir avec nous de la façon la plus aimable. Mgr Pucci l'assiste, ainsi que deux membres laïques de sa cour, le marquis Sacchetti, fourriermajor des palais apostoliques, et le gentilhomme Cagiano de Azevedo, camérier de cape et d'épée, très élégants dans leur costume Henri IV, velours noir et collerette blanche. Ose-t-on encore décrire le cardinal Merry del Val? Cette figure si connue de grand prélat ne peut certainement pas être oubliée par ceux qui l'ont vu présidant aux principales cérémonies, dans Saint-Pierre de Rome, où, de stature imposante, droit comme le cierge qu'il porte, il apparaît à la tête des processions. Véritable grand d'Espagne, dont le profil comme la face révèlent des traits d'une régularité extraordinaires - la bouche et le nez d'une rare finesse, alors que d'épais sourcils, restés très noirs, accentuent la force de son regard -, il impressionne plus encore par sa voix, qui est à la fois claire et douce, ferme et pénétrante. On sent, dans la conversation qui s'est engagée sans préambules embarrassants, que ce prince de l'Eglise, mêlé déjà à tant d'événements religieux et diplomatiques, a nettement con -