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· ウィーン(オーストリア) · ドイツ語

Neue Freie Presse

1926年10月4日付のノイエ・フライエ・プレッセは、前日ウィーンで開会した汎ヨーロッパ会議を歴史的な出来事として迎えた。社説は、オルガンの調べや、ヨーロッパの国々を表す28本の光線をもつ太陽を描いた青い絹の旗を描写した。最も強い印象を与えたのはクーデンホーフ=カレルギーの人柄だとし、開会の辞を述べた前首相ザイペルを称え、イタリアの不参加をヨーロッパの分裂の一例として挙げた。ニュース記事は、リヴォルノでのムッソリーニとの会談とパリでのブリアンとの会談についてのチェンバレンの説明を伝えた。チェンバレンは、自分とムッソリーニがロカルノ政策の継続を決意していると語り、新たな協定は結ばれていないと否定し、イタリアの内政への論評は控えた。署名入りの寄稿では、地理学者オーバーフマーが、ペシェル、ミュラー、ラッツェルに始まる民族学の歩みと、ドイツの植民地を含む各地への調査旅行によって大規模な民族誌博物館に資料が蓄積されていった経緯をたどった。

翻訳

世界平和の進展。

ウィーン、10月4日。昨日という日は、歴史的な一日として記録されねばならないだろう。汎ヨーロッパ会議の開会に居合わせた者は誰一人として、無から生み出された運動のこの目覚ましい成功に対する熱狂を免れることはできなかった。この会議を通常の様式で開くのではなく、オルガンの調べと一本の旗の掲揚によって、いっそうの荘厳さと厳粛さを与えたのは良い思いつきだった。その旗は青い絹の幟で、中央に28本の光線をもつ太陽を配し、その光線はヨーロッパの28の国民を体現している。最も強い印象を与えたのはクーデンホーフ=カレルギーの人柄であった。たとえこの運動に、人々の心を動かし、知的に傑出した人々を引きつけ、あらゆる陳腐さ、あらゆる陰謀、あらゆる不誠実、あらゆる支配欲を締め出すことのできる非凡な人物が先頭に立っているという事実以外に何もなかったとしても、それだけで汎ヨーロッパの潮流を他のあらゆるスローガンから際立たせるに十分であろう。我々は会議の議長席の卓上に28か国の小旗を見た。代表者たちの入場は壮観であり、彼らは皆、一人また一人と、新しい汎ヨーロッパ主義の志を共にすることを宣言した。会議は前連邦首相ザイペル博士の開会の辞で始まった。いまなおこれほど深い憎悪が世界を引き裂いているこの時に、オーストリアにおけるこの潮流の先頭に立ち、平和と統合の代弁者となったのは、彼の政治的な賢明さの表れであった。この分裂の一例とみなさねばならないのは、イタリアがこれまでこの運動にまったく参加していないことである。ザイペル博士は正当にも、統一されたヨーロッパを夢見るのはユートピア的であろう、もしその際に……と述べた。

チェンバレン、ムッソリーニとの会談について。

英国とイタリアの政策。私はムッソリーニと心のこもった意見交換を行い、それによって英国とイタリアに関わる諸問題を彼と論じることができた」。続いてチェンバレンは、ムッソリーニとは英伊間の問題に加えて、より大きなヨーロッパの諸問題も話し合い、その際に大いに満足をもって見解の一致を確認できたと述べた。両者はロカルノ政策を継続する決意であるという。英国とイタリアの政策は、世界の経済的復興のために平和を維持し、通商を発展させることを目指している、とした。パリでは彼(チェンバレン)はブリアンと会談し、ブリアンはシュトレーゼマン博士との会談について彼に報告したという。チェンバレンはさらにこう言明した。「新たな協定が締結されたり計画されたりしていないことは、あえて強調するまでもない。パリとリヴォルノでの今回の会談で行われたのは、我々すべてに関わる問題についての率直で友好的な話し合いであった。私はシュトレーゼマン博士とも同様に友好的な間柄にあることを強調したい。質問に答えてチェンバレンは、イタリアの内政については意見を述べられないと言明した。英国にはファシズムは適さないが、ムッソリーニに対しては大きな……を感じている、と。

新しい民族学。

新しい民族学。エウゲン・オーバーフマー教授筆。半世紀以上前、オスカー・ペシェルとウィーンの言語学者フリードリヒ・ミュラーは、それぞれ異なるやり方で民族学の簡潔な概観を示し、この当時まだ若い学問分野について世間一般が抱く観念に、その後何十年にもわたって影響を与えた。続いてフリードリヒ・ラッツェルが、全3巻、第2版では2巻に縮められた大著をひっさげて登場した。それは広範な博識と膨大な素材の処理における驚くべき業績であった。それ以来、あらゆる大陸での調査旅行、とりわけドイツの植民地での調査旅行によって、ベルリン、ハンブルク、ライプツィヒ、ドレスデン、ウィーン、ミュンヘン、シュトゥットガルト、フランクフルト、ケルンなどの大規模な民族誌博物館には、ますます見渡しがたいほどの資料が蓄積されてきた。古い民族誌の著者たちも、功績あるテオドール・ヴァイツも、主として文献上の報告に頼っており、こうした資料をまだほとんど利用していなかった。ラッツェルにおいてのみ、我々はすでにそれを……

解説

クーデンホーフ=カレルギーと発足間もない汎ヨーロッパ運動

社説は汎ヨーロッパを「無から生み出された」運動と呼び、その最大の力をクーデンホーフ=カレルギーの人柄に見いだした。実際、この運動はきわめて新しく、始まったのはわずか3年前、1923年にリヒャルト・フォン・クーデンホーフ=カレルギーが統一ヨーロッパ国家を提唱する宣言書『パン・ヨーロッパ』を刊行したのが出発点である。このウィーン会議が開かれた1926年に、彼は組織の初代国際会長に選ばれた。同紙が描いたオルガンの調べや、ヨーロッパの国々を表す28本の光線をもつ太陽の青い絹の旗といった式典は、発足間もないこの組織を大陸全体にまたがる大義として演出するものだった。社説は汎ヨーロッパを単なるスローガンとは一線を画すものとしたが、この構想は数年のうちに実際にヨーロッパ外交の頂点に届いた。運動の支持者で、当時フランス首相となっていたアリスティード・ブリアンが、1929年9月5日にジュネーヴの国際連盟で連邦的なヨーロッパを訴える演説を行ったのである。

二度の首相在任のはざまにいたザイペル

同紙はイグナツ・ザイペルを「前連邦首相」と呼び、オーストリアにおける汎ヨーロッパの潮流の先頭に立ったのは政治的に賢明だと称えた。ザイペルは1922年から1924年まで首相を務めた。第一次政権は国際連盟の借款によって国家財政を安定させたが、この借款はオーストリアがドイツへの合邦を公式に放棄したことで得られたもので、国家の経済政策を国際連盟の監督下に置くものでもあった。彼は党内からの激しい批判と同年6月の暗殺未遂事件を受け、1924年11月に辞任した。会議の開会を告げた時点では無官だったが、それも長くは続かなかった。この社説の掲載から2週間余り後の1926年10月20日、彼は首相に返り咲いたのである。平和と統合の代弁者という同紙の人物像は、その後の歩みとはそぐわない。1927年までに彼は、民主主義を聖職者主導の権威主義体制に置き換えるべきだと主張するようになっていた。

チェンバレン、ムッソリーニ、そしてロカルノ体制

記事の中でチェンバレンは、ムッソリーニとの会談を「ロカルノ政策」の継続として説明し、新たな協定の締結も計画も否定した。この説明はロカルノ体制そのものに即していた。イタリアは、英国、フランス、ベルギーと並んで、シュトレーゼマンがこの条約を交渉した相手国の一つであり、チェンバレン自身も独仏間の戦争防止を目的とした1925年の条約を交渉し、その功績でノーベル平和賞を受けていた。パリとリヴォルノでの会談は、ロカルノ体制が一つの節目を迎えてから数週間のうちに行われた。1926年9月、ロカルノ交渉で予定されていたとおり、ドイツが国際連盟に加盟したのである。シュトレーゼマンとの会談についてチェンバレンに報告したブリアンは、シュトレーゼマンの外国における親しい友人の中でも筆頭格であった。したがって、シュトレーゼマンとも同様に友好的な間柄にあるというチェンバレンの言明は、ドイツ外相がすでにフランス外相と固く結びついていた関係に向けられたものだった。イタリアの内政への論評を避け、ファシズムは英国には合わないとしながらムッソリーニ個人には大きな思いを寄せた姿勢は、ムッソリーニを「取引のできる男」と評した、よく知られた彼の発言と一致している。

エウゲン・オーバーフマー:ラッツェルの系譜に立つウィーンの地理学者

この寄稿の筆者は、1902年から1930年までウィーン大学で歴史地理学・政治地理学の正教授を務め、フリードリヒ・ラッツェルの流れをくむ政治地理学の代表者であった。その背景は抜粋にも表れており、ラッツェルの数巻に及ぶ大著は驚くべき業績として、また博物館の資料をすでに活用していた唯一の旧来の総合的著作として特筆されている。2013年7月のウィーンの街路名に関する研究報告によれば、オーバーフマーは同僚アルブレヒト・ペンクの「生存圏」概念を、自ら編集したラッツェル『政治地理学』の再版に組み込み、広めたとされる。この概念は後にナチズムに取り入れられた。またウィーンでは、ウィーンは「いつの時代もドイツの都市」であったとして、自らの学部にドイツ民族主義的な方向性を持ち込んだ。1926年の抜粋にこうした点は現れないが、彼がドイツの植民地への調査旅行を民族誌資料の供給源として論じた学問的な環境を示している。

植民地への調査旅行がドイツの民族誌博物館を満たした経緯

オーバーフマーは、「とりわけドイツの植民地での」調査旅行によって、ベルリンからケルンに至る博物館にますます見渡しがたいほどの資料が積み上がったと書いた。彼が最初に挙げたベルリンの博物館の歴史は、この記述を裏づけている。同館は1873年に創設され、1886年に王立民族学博物館として開館した。ケーニヒグレーツァー通りの建物は開館の時点ですでに収蔵品に対して手狭だったが、19世紀最後の数年間には、民族学への制度的支援が強まり、ベルリン会議後にドイツの海外植民地帝国が拡大したことで収蔵品が急速に増え、事態はさらに悪化した。こうした植民地での収集の帰結には、今も対応が続いている。2022年、同館の収蔵品のうち装身具や陶器を含む23点がナミビアに返還された。これらは1884年から1915年にかけて、つまりこの地がドイツ領南西アフリカという植民地だった時期に持ち去られたものだった。

原文

Fortschritte des Weltfriedens.

Wien, 4. Oktober. Der gestrige Tag wird als ein historischer vermerkt werden müssen. Niemand von den Anwesenden bei der Eröffnung des Paneuropakongresses konnte sich der Begeisterung entziehen über diesen gewaltigen Erfolg einer aus dem Nichts heraus geschaffenen Bewegung. Es war ein guter Gedanke, diesen Kongreß nicht im üblichen Stile abzuhalten, sondern ihm erhöhte Weihe und Feierlichkeit zu geben durch Orgelklänge und durch Entfaltung einer Fahne, eines blauseidenen Banners, das in seiner Mitte eine Sonne trägt mit achtundzwanzig Strahlen, welche die achtundzwanzig Nationen von Europa verkörpern. Am stärksten wirkte die Persönlichkeit Coudenhove-Kalergis, und wenn nichts in dieser Bewegung vorhanden wäre als die Tatsache, daß hier ein ungewöhnlicher Mensch an der Spitze steht, befähigt, die Gemüter zu bewegen, geistig Hervorragende anzuziehen und alle Banalität, alle Intrige, alle Unehrlichkeit und alle Herrschsucht auszuschließen, so würde das genügen, um die paneuropäische Strömung herauszuheben von allen anderen Schlagworten. Wir sahen die Wimpel von achtundzwanzig Nationen auf dem Präsidententisch des Kongresses und es war ein großartiger Aufmarsch der Delegierten, die alle, einer nach dem anderen, die Gesinnungsgemeinschaft des neuen Paneuropäertums verkündeten. Die Tagung begann mit der Eröffnung durch den Altbundeskanzler Dr. Seipel. Es war ein Akt der politischen Klugheit von ihm, sich an die Spitze dieser Strömung in Oesterreich zu stellen und Wortführer zu sein des Friedens und der Vereinigung in einem Augenblick, da noch immer so tiefe Gehässigkeiten die Welt zerklüften. Als Beispiel dieser Zerklüftung muß es gelten, daß Italien sich bisher in keiner Weise an dieser Bewegung beteiligt. Dr. Seipel hat mit Recht erklärt, es wäre utopisch, von einem geeinigten Europa zu träumen, wenn man dabei den

Chamberlain über die Zusammenkunft mit Mussolini.

Politik Englands und Italiens. Ich habe eine herzliche Aussprache mit Mussolini gehabt, die es mir ermöglichte, mit ihm diejenigen Fragen, die England und Italien interessieren, zu erörtern. " Dann teilte Chamberlain mit, daß er mit Mussolini nebst den englisch-italienischen Problemen auch die größeren europäischen Probleme besprochen habe und dabei mit großer Genugtuung eine Gemeinsamkeit der Ansichten feststellen konnte. Sie seien entschlossen, die Locarnopolitik fortzusetzen. Die Politik Englands und Italiens sei darauf gerichtet, im Interesse der wirtschaftlichen Wiederherstellung der Welt den Frieden zu erhalten und den Handel zu entwickeln. In Paris habe er (Chamberlain) mit Briand eine Unterredung gehabt und Briand habe ihm über die Unterredung mit Dr. Stresemann berichtet. Chamberlain erklärte dann: " Ich brauche nicht zu betonen, daß keine neuen Abkommen abgeschlossen oder projektiert wurden. Was in den neuen Unterredungen in Paris und Livorno vor sich gegangen ist, war eine offenherzige, freundschaftliche Unterhaltung über die Probleme, die uns alle interessieren. Ich möchte betonen, daß ich auf ebenso freundschaftlichem Fuße mit Dr. Stresemann stehe. Auf eine Frage erklärte Chamberlain, er könne sich nicht über die inneren Angelegenheiten Italiens äußern. Für England sei der Fascismus nicht geeignet, aber für Mussolini empfinde er große

Neue Völkerkunde.

Neue Völkerkunde. Von Professor Eugen Oberhummer. Vor mehr als einem halben Jahrhundert haben Oskar Peschel und der Wiener Sprachforscher Friedrich Müller, jeder in anderer Art, eine gedrängte Uebersicht der Völkerkunde gegeben und auf Jahrzehnte hinaus die landläufigen Vorstellungen von diesem noch jungen Wissenszweig beeinflußt. Dann trat Friedrich Ratzel auf den Plan mit einem großen, dreibändigen, in der zweiten Bearbeitung auf zwei Bände verringerten Werk, einer erstaunlichen Leistung umfassender. Belesenheit und Bewältigung eines ungeheuren Stoffes. Seither haben Forschungsreisen in allen Erdteilen und nicht zum wenigsten in den deutschen Kolonien ein immer schwerer übersehbares Material in den großen ethnographischen Museen von Berlin, Hamburg, Leipzig, Dresden, Wien, München, Stuttgart, Frankfurt, Köln usw. angehäuft. Die Verfasser älterer ethnographischer Werke wie auch der verdienstvolle Theodor Waitz, die wesentlich auf literarische Nachrichten angewiesen waren, hatten davon noch kaum Gebrauch gemacht; nur bei Ratzel finden wir es schon

紙面の出典:Source: Oesterreichische Nationalbibliothek / ANNO

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