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· アルジェ(アルジェリア) · フランス語

L’Écho d’Alger

このアルジェの日刊紙の紙面は、先にリヴォルノでムッソリーニと会っていたチェンバレン英外相とブリアン仏外相のパリ会談をめぐるフランス各紙の論調をまとめた。『プチ・パリジャン』と『ルーヴル』は、会談がリヴォルノをトワリーと対立させる見方や伊英ブロック論を打ち消したと論じ、『ラヴニール』は英国が自ら提唱した仏独接近を公式に妨げることはできないと書いた。一方、『エコー・ド・パリ』は英国が大陸諸国の緊密すぎる合意を常に警戒してきたと注意を促した。別の記事は、フランスの戦債について米国から譲歩は得られないだろうと伝え、フランスは保障条項を求めるが拒否され、それでもベランジェ=メロン協定を批准するだろうという米債務委員の見通しを報じた。あわせて、連合国間債務全体を国際会議か国際法廷に委ねるべきだとする仏下院議員の個人的な提言も載せた。さらに、スペイン兵がリーフ族首長5人の首を掲げ、別の兵士が赤十字旗を半ば広げた写真がテトゥアンで売られていることに対する人権同盟の抗議を伝えた。本稿で扱うのはこの三つの抜粋のみである。

翻訳

パリ会談

…彼に。昨日の会談は、その必要があったとすれば、フランスの意図を彼にはっきりと示し得たはずである。フランスにとって、ムッソリーニ氏が描きかけた策動の進展を許すことなど問題外なのだ。

パリ会談

フランスの新聞論調

ブリアン=チェンバレン会談を論評して、『エコー・ド・パリ』は、英国人が仏独接近に何の不安も感じていないと弁明するのは本心からだが、「彼らの政策は常に矛盾から成り立ってきた」と指摘する。彼らは、大陸の諸国民の間に戦争へと転じかねないほど激しい敵意が生じることを好まない。その一方で、同じ諸国民の間に[?]、自らの安全を脅かしうる勢力を生みかねないほど緊密な合意ができることを恐れる。だからこそ、ドイツに接近した若いフランスが英国を不安にさせず、英国を他の同盟に均衡の重しを求める方向へ傾かせずにいることは、常に非常に難しいだろう。

『プチ・パリジャン』によれば、英仏両国の大臣が検討した議題は、リヴォルノで取り上げられたものと同じである。中心を占めたのは当然ながら仏独接近の問題だった。チェンバレン氏は、ムッソリーニ氏の見解、懸念、要望をブリアン氏に伝えることを怠らなかった。『プチ・パリジャン』は、昨日の会談が、リヴォルノをトワリーと対立させようとしてきた人々に対する最も明確な反証になっていると見ている。

『ルーヴル』もまた、ブリアン=チェンバレン会談は一部の論評家の悪意ある組み立てを打ち崩すものだと述べる。彼らは、問題にもなっていない仏独ブロックに対抗して、およそ考えにくい伊英ブロックをすでに持ち出していたが、そもそもチェンバレン氏がそのようなものに加担するはずはない。

『ラヴニール』は書く。英国が、自ら提唱した仏独接近の前に公式に立ちはだかることができないのは明らかであり、しかも英国は…

わが国の対米債務

わが国の対米債務

譲歩は一切得られまい

ワシントン、10月3日発――そうした趣旨の提案はホワイトハウスに一つも提出されていないものの、クーリッジ大統領は、米国政府によるドイツ鉄道証券の売却または受け入れを定めた戦債・賠償の解決案には、いかなるものであれ反対する意向だという。

米国債務委員会の委員バーンズ氏は、欧州から帰国するとすぐにメロン氏と協議し、自らの見解を伝えた。同氏によれば[?]、フランスは安全条項と、逆境に陥った場合を考慮する条項とを求めるだろう。同氏は、米国はこれらの要求を拒否し、フランスは最終的にベランジェ=メロン協定を批准するだろうと見ている。

ダリアック氏の見解表明

アランソン、10月3日発――ペルシュロン種馬およびノルマンディー種牛の品評会を機に、クイユ氏を座長として開かれた晩餐会で、下院債務小委員会委員長のダリアック氏はワシントン協定について語り、あくまで個人的な立場で話しているのだと強調しつつ、次のように述べた。

ジュネーヴで国際連盟が成し遂げた仕事を考え、英国ほど独自性の強い国民と、それに続く50か国を、領土問題のような重大な問題、国家の名誉がかかった問題の決定を国際機関に委ねる方向へと導いている、この広大で寛大な動きを見つめるとき、人は問わずにはいられない。道義的な観点からははるかに重要度の低い問題、すなわち連合国間の債務と債権の清算という問題を、なぜその全体にわたって一括して、ジュネーヴであれほかの場所であれ、国際会議または国際法廷に付託してはならないのか、と。私は問う。だから[?]、答えはしない。しかし私の理解が正しければ、ほとんどいたるところで同じ問いが投げかけられている。そして、あらゆる方面で悲劇的な過去を清算しようとする努力がなされているとき、フランスとドイツがトワリーで[?]、両国がはるかに痛ましい記憶を忘れようと努めているとき、寛大で人道的なアメリカが、物質的な利害のためにこの大きな動きから離れていられるとは、私にはとても思えない。

イタリアにて ファシストの裁き

モロッコにて

[?] パリ、10月3日発――人権同盟から次の通知があった。テトゥアン(モロッコのスペイン領地帯)の街頭で、スペイン兵の一団が処刑されたリーフ族の首長5人の首を手に掲げている写真が売られている。一団の中の別の兵士は、赤十字の旗を半ば広げている。このような写真が売りに出され、これほどの野蛮の実例が見世物にされうることは言語道断である。さらに、このように赤十字の標章を汚して、残虐に皮肉を上塗りするのも言語道断である。フランス人権同盟はスペイン人権同盟に対し、これらの残虐行為と、臆面もなくそれを世間にさらしたことの双方について、自国政府に抗議するよう求めた。

不気味な発見

遠足の一行、白骨を発見

解説

リヴォルノ会談はトワリーを損なわない、と新聞が強調した理由

この論調まとめを見ると、フランスの新聞はチェンバレンとブリアンのパリ会談を、チェンバレンがその前にリヴォルノでムッソリーニと会ったことが仏独和解に対抗する英伊の重しづくりの始まりではないという証拠として受け止めていた。『プチ・パリジャン』は、この会談が「リヴォルノをトワリーと対立させようとしてきた」人々への反証だと述べ、『ルーヴル』も対立ブロック論を退けた。この年の秋にこの点が重視されたのは、仏独和解が一つの節目を迎えたばかりだったからである。1925年のロカルノ条約の交渉ではドイツの国際連盟加盟が予定され、加盟は1926年9月に実現した。ブリアンとグスタフ・シュトレーゼマンはロカルノでの功績により1926年のノーベル平和賞を共同受賞した。英国の動機を疑う見方はドイツ側にもあった。シュトレーゼマンは後に、チェンバレンは「決して我々の友ではなかった」と書き、その最初の行動は旧協商の復活の試みだったと記している。英国は大陸諸国の緊密すぎる合意を恐れるという『エコー・ド・パリ』の指摘は、ロンドンが仏独和解を本当にどこまで支持しているのかという、ほかでも抱かれていた疑念に触れるものだった。

ベランジェ=メロン債務協定の争点

ワシントン発の記事は、1926年4月29日に調印され、フランスの対米戦時債務の返済方法を定めたメロン=ベランジェ協定を読者が知っていることを前提にしている。フランスは安全条項と逆境の場合を考慮する条項を求めるだろうというバーンズの予想は、フランスでこの協定の最大の争点となった点に関わっていた。フランスは、英国との協定と同じように対米支払いをドイツの賠償に連動させることを望んだが、米国はこの連動を受け入れなかった。協定はフランスで非常に不評で、パリでは退役軍人2万人が抗議デモを行い、フランス人の多くは米国が戦債の請求そのものを放棄すべきだと考えていた。連合国間債務全体を国際会議か国際法廷に委ねるというダリアックの個人的な提案は、こうした世論を背景に、ジュネーヴとトワリーの精神に沿うものとして示された。フランスは最終的に批准するというバーンズの予想は的中したが、それには3年近くを要した。下院が1926年の協定を承認したのは1929年7月21日で、票決は賛成300、反対292だった。米国はそれでもなお、賠償受取額との連動を一切認めなかった。

リーフ戦争と切り落とされた首の写真

人権同盟の抗議は、リーフ戦争の主要な戦闘が終わってから数か月後に出された。リーフ戦争は1921年から1926年にかけて北モロッコのベルベル系諸部族とスペインの間で戦われた反植民地戦争で、1924年にはフランスも参戦した。反乱の指導者アブド・エル・クリムは1926年5月27日にフランス当局に降伏したが、抵抗の拠点はその後も残り、最後の拠点がスペイン軍に占領されたのは1927年7月だった。したがって、処刑されたリーフ族首長の写真がテトゥアンで売られていたのは、スペインがなお最後の抵抗を制圧しつつあった時期にあたる。ただし、処刑がいつ行われたかは紙面からはわからない。この種の暴力はこの戦争の記録に繰り返し現れる。人質の身体損壊は双方で報告されており、スペイン兵が先に受けた損壊への報復として首を切り落とすこともあった。1922年の写真には、切り落としたモロッコ人の首を掲げるスペイン外人部隊の兵士が写っている。スペイン・アフリカ軍の残虐行為の一因は、1921年のモンテ・アルイットなどの虐殺後に生まれた「抑えがたい報復心」にあったとされる。紙面はフランス人権同盟の抗議とスペイン人権同盟への要請を伝えているが、どちらかの同盟が調査を行ったのか、マドリードがどう応じたのかは示していない。

原文

L'entrevue de Paris

lui. La conversation d'hier a pu, si besoin en était, le fixer sur les intentions de la France pour qui il ne peut être question de laisser se développer la manœuvre esquissée par M. Mussolini. L'entrevue de Paris DANS LA PRESSE FRANÇAISE Commentant l'entrevue BriandChamberlain, l'Echo de Paris observe que les Anglais sont sincères quand ils se défendent d'éprouver aucune inquiétude à l'égard du rapprochement franco-allemand, mais leur politique a toujours été faite de contradictions.» Ils réprouvent entre les peuples du continent une animosité trop vive susceptible de dégénérer en guerre. Par contre, ils redoutent entre ces mêmes peuples [?] un accord trop intime d'où peut sortir une puissance capable de menacer leur sécurité. C'est pour cela qu'il sera toujours bien difficile à une jeune France rapprochée de l'Allemagne de ne pas inquiéter l'Angleterre et de ne pas l'incliner à chercher un contrepoids dans d'autres alliances. Pour Le Petit Parisien, les sujets examinés par les Ministres Anglais et Français sont les mêmes que ceux qui ont été abordés à Livourne. La place principale a été prise naturellement par la question du rapprochement francoallemand. M. Chamberlain n'a pas manqué de mettre M. Briand au courant des vues, des préoccupations et des desiderata de M. Mussolini. Le Petit Parisien estime que l'entrevue d'hier inflige le plus net démenti à ceux qui ont essayé d'opposer Livourne à Thoiry. L'Œuvre également, déclare que l'entrevue Briand-Chamberlain jette bas les constructions perfides de quelques commentateurs qui dressaient déjà contre un bloc franco-allemand, dont il n'est pas question, un bloc italoanglais mal concevable et auquel M. Chamberlain, d'ailleurs, ne saurait se prêter. Il est évident, écrit l'Avenir que l'Angleterre ne peut officiellement, se mettre en travers d'un rapprochement franco-allemand qu'elle a elle-même préconisé et, qu'au demeurant, elle

Notre dette envers l'Amérique

Notre dette envers l'Amérique NOUS N'OBTIENDRONS AUCUNE CONCESSION Washington, 3 octobre. - Bien qu'aucune proposition dans ce sens ait été soumise à la Maison Blanche, le président Coolidge s'opposerait à tout plan pour le règlement des dettes de guerre et des réparations prévoyant la vente ou l'acceptation par le Gouvernement américain des valeurs ferroviaires allemandes. M. Barnes, membre de la commission américaine des dettes, dès son retour d'Europe, a conféré avec M. Mellon auquel il a exprimé son opinion. Selon lui [?] la France demandera une clause de sécurité et une clause prenant en considération les cas de revers. Il estime que les Etats-Unis rejetteront ces demandes et que la France ratifiera, finalement, l'accord BérengerMellon. UN EXPOSE DE M. DARIAC Alençon, 3 octobre. - Au cours d'un banquet donné sous la présidence de M. Queuille à l'occasion du concours de la race hippique percheronne et de la race bovine normande, M. Dariac, président de la sous-commission des dettes de la Chambre, discourant à propos des accords de Washington a déclaré, en insistant sur ce point, qu'il parlait à titre purement personnel: Considérant l'œuvre accomplie à Genève par la S. D. N., scrutant ce vaste et généreux mouvement qui entraîne un peuple aussi particulariste que l'Angleterre et 50 nations avec elle, à s'en remettre à un organisme international du soin de décider dans les questions aussi graves que les questions territoriales, dans les questions où l'honneur national est en jeu, on se demande pour quelles raisons un problème bien moins important au point de vue moral, celui de la liquidation des dettes et des créances interalliées, ne serait pas porté en bloc, dans toute son étendue, à Genève ou ailleurs, devant une conférence ou un tribunal international. J'interroge, donc [?] je ne réponds pas. Mais si je comprends bien, un peu partout la même interrogation se pose. Et quand de toute part un effort est fait pour liquider le tragique passé; quand la France et l'Allemagne [?] à Thoiry; quand elles s'efforcent d'oublier des souvenirs singulièrement plus douloureux, j'imagine mal qu'une Amérique généreuse, humaine, puisse, pour un intérêt matériel, se tenir à l'écart de ce grand mouvement. En Italie La justice fasciste

AU MAROC

[?] Paris, 3 octobre. - La Ligue des Droits de l'Homme nous communique: On vend dans les rues de Tétouan (zone espagnole du Maroc) une photographie représentant un groupe de soldats espagnols qui tiennent dans leurs mains cinq têtes de chefs riffains exécutés. Un autre soldat du groupe déploie à demi le drapeau de la Croix-Rouge. Il est scandaleux qu'une telle photographie puisse être mise en vente et qu'un pareil exemple de barbarie soit donné en spectacle. Il est scandaleux encore d'ajouter l'ironie à la cruauté, en prostituant ainsi l'emblème de la Croix-rouge. La Ligue française des Droits de l'homme a demandé à la Ligue espagnole de protester auprès de son Gouvernement, et contre ces atrocités et contre la publicité qu'on n'a pas craint de leur donner. Macabre découverte DES EXCURSIONNISTES TROUVENT UN SQUELETTE

紙面の出典:Source: Bibliothèque nationale de France / Gallica

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