L’Écho annamite
- 相互教育協会
- ロベール領事の葬儀
- ミトー襲撃事件をめぐって
この日の『レコー・アンナミット』紙は、教育論と植民地のニュースと新聞どうしの論争を並べた。L・K・ヴァンの署名コラムは、ハノイ、サイゴン、フエにある三つの主要な相互教育協会の創立年と支部を紹介し、図書館や講演会、コンクール、展覧会を通じて会員にフランス語や科学、芸術、フランスの法律を学ばせるというサイゴンの協会の規約をたたえた。ハノイ発の記事は、10月31日にロンチョウからランソンへ向かう道路で殺されたロベール領事の葬儀を伝え、総督が葬列の先頭に立ち、葬列が大聖堂を経て墓地へ向かったと報じた。ヴオン・クアン・グオウの署名コラムは、ミトーでの襲撃を是認したとして『ランパルシアル』紙を攻撃し、同紙の社長がブイ・クアン・チエウの歓迎会で武装した一団を率い、カティナ通りで女性を平手打ちしたと非難した。
翻訳
相互教育協会
現在、主要な協会は三つある。最も古い協会は創立34年で、ハノイにある。サイゴンの協会はそれより14年若い。伝統を重んじ保守的な古都フエは最後の協会の誕生を見たが、この協会はおそらく姉妹のうちの末っ子である。トンキンとアンナンの協会が地方に支部を持っているかどうか、我々は知らない。コーチシナの協会は首都の外にいくつかの支部を持っている。これらの協会はきわめて称賛すべき目的を追求している。とりわけサイゴンの協会の規約は、最も実り多い手段(図書館、自習室、教養のための会合、コンクール、展覧会、講演会など)によって、会員がフランス語、科学、芸術、フランスの法律と慣習を学びやすくすることを目的に掲げている。この規約は他の協会の規約ときっと同じである。
ロベール領事の葬儀
ハノイ発。10月31日日曜日、中国のロンチョウからランソンへ向かう道路上で暗殺されたロベール領事の荘厳な葬儀が、ヨーロッパ人と現地人の大群衆が見守るなかで執り行われた。総督が葬列の先頭に立った。出棺は8時、駅構内に設けられた安置所で行われた。棺は到着直後からそこに安置され、守備隊の将校たちと現地人衛兵隊の分遣隊が寝ずの番をしていた。現地人衛兵隊の軍楽隊と、総督、トンキン理事長官、各国領事らが贈った数多くの花輪の担ぎ手を先頭に、堂々たる葬列は心を揺さぶられた群衆のなかを大聖堂へ進み、葬儀ミサの後、墓地へ向かった。
ミトー襲撃事件をめぐって
『ランパルシアル』紙は暴力を是認し、満足の意を示している。我々は驚かない。同紙の社長は強硬手段の信奉者だからである。その証拠に、彼はブイ・クアン・チエウ氏の歓迎会の際、牛革の棍棒とリボルバーで武装したならず者の一団を率いて街頭に繰り出し、野次を飛ばし、拳と足で殴り合いを演じた。さらに、ある新聞が我々に伝えたところでは、彼はカティナ通りの真ん中で、愛し敬うべきであった一人の女性に平手打ちを食らわせた。
解説
1892年創立のハノイ相互教育協会
コラムが創立34年と書いたハノイの協会は、トンキン相互教育協会にあたり、この協会はベトナム語でホイ・チー・チーと呼ばれた。1926年から34年をさかのぼると1892年になり、この年はトンキンの協会の創立年と一致する。歴史家デヴィッド・マーは、この協会をフランス語の通訳と教師たちが1892年に創立した団体だと説明している。マーによれば、協会はフランス語による定期的な公開講演や私的な講座を開き、年3回の会報を出し、北部に16の関連委員会を置いていた。筆者はトンキンの協会に地方支部があるかどうか知らないと書いたが、マーの記述に従えば協会は北部各地に委員会を持っていたことになる。この協会は1907年から1908年まで短期間続いたトンキン義塾の母体でもあり、トンキン義塾はハノイのハンダン通り59番地に置かれた。この経緯は、相互教育協会がサイゴンの規約にあるフランス語学習の場にとどまらず、新しい学校づくりの拠点にもなりえたことを示している。
龍州のフランス領事館とランソンへの道
ロベール領事がロンチョウからランソンへの道路で殺された背景には、フランスが広西の龍州に置いた領事館がある。記事がロンチョウと表記した町は現在の龍州である。清朝政府は清仏戦争の後、龍州を通商港とし、フランスがそこに領事館を開くことを認めた。龍州から延びる鉄道はベトナムの鉄道網につながり、ランソンを経てハノイへ通じていた。ロベールが殺された道路は、この領事館とトンキンを結ぶ主要な道筋にあたる。ハノイでは総督が葬列の先頭に立ち、トンキン理事長官と各国領事が花輪を贈った。この顔ぶれは、植民地政府がこの死を公の出来事として扱ったことを示している。記事は殺害の日付と場所だけを記しており、誰がなぜ殺したのかは書いていない。
1926年3月のブイ・クアン・チエウ帰国
コラムが挙げた歓迎会は、政治的な緊張を帯びた出来事だった。穏健民族主義の立憲党を率いるブイ・クアン・チエウは1926年3月21日にフランスから帰国し、同じ日にグエン・アン・ニンが逮捕された。チエウに付き従ってサイゴンの街を進んだ群衆は、グエン・アン・ニンの釈放を求めて声を上げた。筆者は『ランパルシアル』紙の社長が棍棒とリボルバーで武装した一団を率い、この歓迎会で野次を飛ばし乱闘したと非難した。この非難は、新聞どうしの争いが1926年のサイゴンの街頭政治と結びついていたことを示している。これらの非難は筆者自身の主張であり、カティナ通りで女性を平手打ちしたという話は筆者が別の新聞から聞いたものとして伝えている。抜粋はミトーの襲撃そのものを描かず、『ランパルシアル』紙がそれを是認したことだけを記している。
『レコー・アンナミット』紙と立憲党
『レコー・アンナミット』紙がチエウを擁護したのは、同紙自身の政治的立場によるものだった。グエン・ファン・ロンは以前『ラ・トリビューン・アンディジェーヌ』紙で働き、1920年に『レコー・アンナミット』紙を創刊した。ロンは、1923年に創立されブイ・クアン・チエウが率いた民族主義政党インドシナ立憲党で副党首を務めた。このため同紙は、チエウの歓迎会への妨害を自らの政治陣営への攻撃と受け止めた。ミトー事件をめぐるコラムは、『レコー・アンナミット』紙と『ランパルシアル』紙の論争のなかで一方の陣営が書いた反論として読むのが適切である。
原文
Les Sociétés d'Enseignement Mutuel
Il en existe, à l'heure actuelle, trois importantes: l'ainée, âgée de 34 ans, est à Hanoi; celle de Saigon est de 14 ans plus jeune; le vieux Huê, traditionnaliste et conservateur, a vu naître la dernière, selon toute apparence, la cadette de ses sœurs. Nous ignorons si les Sociétés du Tonkin et de l'Annam ont des filiales en province. Celle de Cochinchine possède plusieurs sections en dehors de la capitale. Ces associations poursuivent des buts éminemment louables, notamment celui, disent les statuts de celle de Saigon, assurément identiques avec ceux des autres, de faciliter à leurs membres l'étude du français, des sciences, des arts, des lois et coutumes de la France, par les moyens les plus fructueux, (bibliothèques, salles d'étude, réunions instructives, concours, expositions, conférences, etc.)
Les obsèques du Consul Robert
Hanoi. - Les obsèques solennelles du Consul Robert, assassiné sur la route de Long-Tchéou à Langson, en Chine, le dimanche 31 Octobre, ont eu lieu en présence d'une foule considérable d'européens et d'indigènes. Le Gouverneur Général conduisait le deuil. La levée du corps a eu lieu à 8 heures dans la chapelle ardente aménagée dans la gare, où le cercueil avait été déposé dès l'arrivée, puis veillé par des Officiers de la Garnison et un détachement de la Garde Indigène. Précédé par la musique de la Garde Indigène et par des porteurs de nombreuses couronnes offertes notamment par le Gouverneur Général, le Résident Supérieur du Tonkin, les Consuls Etrangers, l'imposant cortège a gagné, au milieu de la foule émue, la Cathédrale, puis après le service funèbre, le cimetière.
Autour de l'agression de Mytho
L'Impartial approuve la violence et manifeste sa satisfaction. Cela ne nous étonne pas, puisque son Directeur est partisan de la manière forte. La preuve en est qu'il est descendu dans la rue, à la tête d'une bande de voyous, armés de nerfs de bœuf et de révolvers, pour siffler et se battre à coups de poing et de pied, lors de la réception de M. Bui-quang-Chiêu. Un journal nous a appris, en outre, qu'il avait giffé, en pleine rue Catinat, une femme qu'il devait aimer et respecter.