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· パリ(フランス) · フランス語

Le Figaro

1926年11月5日付のフィガロ紙は、一面の冒頭にリュシアン・ロミエのフラン論を掲げた。ロミエは、フラン高を見込む投機が初めて取引所の幅広い顧客を巻き込んだと伝え、1924年3月のフラン回復後と同じ「逆向きのパニック」の始まりだと論じた。フランソワ・コティは署名社説で、同紙が早い時期から経済協定を手始めとするドイツとの協調を支持してきたと述べた。コティはまた、連合国間の分裂によってヴェルサイユ条約の完全な履行はもはや不可能になったと主張した。「鉄仮面」の署名がある短い記事は、パリの新聞売りが「ピナール将軍、アメリカで大勝利!」と叫んだ様子を紹介し、アメリカの禁酒制度がフランスで不人気だと報じた。

翻訳

フランの上昇

昨日、数週間前から広がっていたフランの値上がりを見込む投機の動きが、初めて株式市場の顧客のかなり広い層を巻き込んだ。周知のとおり、投機の技術とは、長短の差はあれ呼び水を続けることで群集の殺到を引き起こすことに尽きる。その殺到によって、投機家は勝ち逃げすることも、より小さな危険で運を追い続けることも自由になる。われわれが目にしているのは逆向きのパニックの始まりであり、それは1924年3月にフランが立ち直った後に起きたパニックとそっくりである。

慎重と論理

そうすることにいくらかの勇気が要った時期に、われわれはドイツとの協調に、まず経済協定から始めるかたちで、はっきりと賛成を表明した。われわれは、それが世界の平和にもたらすあらゆる利益を語った。われわれはまた、ヴェルサイユ条約が引いたとおりのヨーロッパ諸国とその植民地領域の境界を維持することの難しさも認めた。同条約の完全な履行は、連合国間の分裂によって、今後はもはや不可能になっている。

民の声

アメリカの禁酒制度はフランスでは人気がない。昨日、ある新聞売りが晴れやかな顔で夕刊を売り歩きながら、「ピナール将軍、アメリカで大勝利!」と付け加えていた。この好人物がそうやって「自分の」将軍の勝利をたたえていることは、見ていてよくわかった。

解説

1926年秋にフランが上昇した理由

ロミエが論じたフラン高は、その年の夏に始まった回復の続きである。1926年7月21日、ポンドが235フランという記録的な水準に達して行き詰まった中で、ガストン・ドゥメルグ大統領はレーモン・ポアンカレに挙国一致内閣の組閣を求めた。経済界と預金者はすぐに信頼を取り戻し、フランは1ドル50フランから40フランへ直ちに上昇した。ポアンカレは1924年と1926年の二度の財政危機に対処した政治家である。1924年の第1四半期にも国際的な為替の動きがフランスに財政危機をもたらし、ポアンカレは短期金融市場での巧みな操作と間接税の20%引き上げでこれを乗り切った。ロミエが引き合いに出した1924年3月のフラン回復は、この局面を指している。11月4日の取引所でフラン買いが大衆の殺到に変わったという指摘はロミエ自身の観察であり、市場統計で確かめられた事実とは区別して読む必要がある。

1926年のフラン高から事実上の安定、1928年の切り下げへ

ロミエが警告した投機、つまりフランがさらに上がると見込む買いは、フランをどこまで上昇させるかという中心的な問題に関わっていた。ポアンカレは増税と歳出削減と利上げを進め、財政黒字と1ドル25フランの為替相場を実現した。ポアンカレはまた、イギリスの財務大臣チャーチルがポンドを1914年の水準に戻して輸出に大きな打撃を与えた失敗を避けようとした。ポアンカレは1928年春の総選挙の後にフランの切り下げを決め、公式相場を1926年に安定した水準に合わせた。この相場はおよそ1ポンド125フラン、1ドル25フランである。1928年の法的な安定化によってフランの価値は戦前の5分の1に定まり、1926年に安定した相場がそのまま追認された。ロミエが描いた投機的な上昇がさらに続いた場合に想定された、より高い相場は採用されなかった。

コティのドイツ協調論とロカルノ条約

コティの社説は、フィガロ紙が勇気の要る時期からドイツとの協調を支持してきたと述べ、連合国が分裂しているためにヴェルサイユ条約の国境をもはや完全には守れないと主張した。これは同紙が自らの論調とヨーロッパ情勢について述べた主張である。外交の流れは記録から確かめられる。1925年末のロカルノ条約の主条約で、西ヨーロッパの5か国はドイツとフランス、ドイツとベルギーの国境の不可侵を保障した。一方でドイツは東部国境を保障せず、ヴェルサイユ条約の修正を求める余地を残した。この条約の最も大きな成果は、1926年にドイツが国際連盟に加盟したことである。アリスティード・ブリアンはフランス外相としてロカルノに出席し、独仏和解を進めた政治家として知られている。コティが指摘した連合国の分裂には実際の背景があった。戦間期のイギリスはドイツを平和で豊かな国として立て直そうとし、その外交方針はフランスと大きく異なっていた。

ピナール将軍とアメリカ禁酒法

新聞売りが口にした「ピナール将軍」は、ピナールという安い赤ワインを人に見立てた呼び名である。フランス陸軍は1914年9月には早くもこのワインを毎日の配給として兵士に支給していた。ピナールと兵士の姿は大戦中も戦後もフランスの大衆文化に繰り返し描かれたので、パリの通行人はこの冗談をすぐに理解できたはずである。フランスにもアルコール依存への懸念はあったが、戦間期のフランスではこの問題はアメリカほど大きくならなかった。アメリカでは1920年1月17日に全国禁酒法が施行され、1920年代半ばにはニューヨークが禁酒法に対する政治的抵抗の中心地になった。1926年にもニューヨークの風紀運動家は、禁酒法の失敗を示す証拠が各地にあふれていても、法は元に戻せないと述べていた。この記事は新聞売りが祝ったアメリカの出来事を特定していない。記事が伝えているのは街頭の冗談と、アメリカの禁酒制度はフランスで不人気だという同紙の判断である。

原文

La hausse du franc

Hier, pour la première fois, le mouvement de spéculation à la hausse du franc qui se développe depuis quelques semaines, a entraîné une fraction assez large de la clientèle boursière. On sait que tout l'art de la spéculation consiste, par un amorçage plus ou moins prolongé, à déclencher l'afflux grégaire qui laissera les spéculateurs libres de faire charlemagne ou de poursuivre leurs chances à moindres risques. Nous assistons au début d'une panique renversée, tout à fait semblable à celle qui suivit le rétablissement du franc en mars 1924.

PRUDENCE ET LOGIQUE

A l'époque où il y avait quelque courage à le faire, nous nous sommes prononcés nettement pour une entente avec l'Allemagne, en commençant par des accords économiques; nous avons dit tout le bien qui en résulterait pour la paix du monde; nous avons aussi reconnu la difficulté de maintenir la délimitation des Etats européens et de leurs domaines coloniaux telle que l'a tracée le traité de Versailles, dont l'exécution complète est rendue désormais impossible par les divisions entre Alliés.

Voix du peuple.

Le régime sec américain n'est pas populaire en France. Hier, un camelot, radieux, en criant un journal du soir, ajoutait: «Grande victoire du général Pinard en Amérique!» Et l'on voyait que le brave homme exaltait ainsi la victoire de «son» général.

紙面の出典:Source: Bibliothèque nationale de France / Gallica

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