新聞を読み込んでいます… / Loading the edition…

· リスボン(ポルトガル) · ポルトガル語

Diário de Lisboa

1926年11月5日付の『ディアリオ・デ・リスボア』は、商船隊をめぐる論説を載せた。論説は、ブラジル航路の開設を検討する委員会の作業について何も知らないと認めた。そのうえで、委員会が数回会合を開いただけで問題は解決不能だと結論づけることのないよう望んだ。論説は、国が諦めれば敗北主義が勝ち、国は敗者の役割に甘んじて現代生活のリズムから外れると警告した。同じ面には、パレデスという姓と「壁に耳あり」のことわざを掛けた短い小咄が並んだ。パリ近郊アニエール発の短信は、木の義足をつけた56歳の夜警が材木置き場の火鉢のそばで眠り込み、目を覚ますと義足が燃えていた出来事を伝えた。

翻訳

商船隊

ブラジルへの航路開設の可能性を検討している委員会の作業について、我々は何も知らない。委員の顔ぶれを見れば、委員会が何度か不毛な会合を重ねたあげく、ある日我々に向かって「この問題をあらゆる面から検討した結果、問題は解決不能との結論に達した」と告げに来ることはあるまいと信じたくなる。そうなれば敗北主義が勝利を収めるだろうが、我が国は諦め、無為こそ自らの運命だと思い込んで、敗者の役割に自らを追いやることになる――現代生活のリズムとはまったく相容れない役割に。

用心のため……

――パレデスの姉妹ときたら、なんて不器量なんだ……
――黙れよ、おい、「壁」に耳ありだぞ……

アニエールで

アニエールのメニル通りに住むル・マユという56歳の男は、木の義足をつけていた。男はヌイイの材木置き場の夜警をしており、ひどく寒かったので、火鉢のそばに腰を下ろし、そのまま眠り込んでしまった。夜更けに男は激しい痛みで目を覚ました。木の義足が燃え、火はすでに男の肉にまで達していたのである。

解説

国営船隊は1916年の拿捕から始まった

論説が国のブラジル航路を求めた背景には、戦争で手に入れた船隊の歴史がある。ポルトガルは第一次世界大戦に参戦した1916年に「国営海上輸送」を設け、この事業体がドイツから没収した船の維持と運航を担った。ポルトガルはドイツとオーストリア=ハンガリーの船72隻を拿捕し、ドイツは1916年3月9日にポルトガルに宣戦した。ポルトガルは拿捕船のうち20隻、総トン数の約35%だけを手元に残し、残りをイギリス、フランス、イタリア、ベルギーに分けた。これらの船はポルトガルの商船隊を強めたが、その38%はドイツ潜水艦に沈められるか海難で失われた。1926年に新聞が国のブラジル航路を求めたとき、国が自前で持っていた船隊は、拿捕で得て大きく減ったこの船隊だった。

国営海運は1922年の失態を機に解体された

論説が出た時点で、国はすでに自前の海運事業を運営していなかった。ルイス・ミゲル・コレイアとルイ・レイスは2024年の海運史で大統領の1922年の旅を国営海上輸送の最も有名な失態と呼び、オブセルバドール紙がその本を書評した。アントニオ・ジョゼ・デ・アルメイダ大統領は、ポルト号の度重なる故障と質の悪い石炭のために、1922年にブラジルの独立記念式典へ10日遅れて到着した。アルメイダ大統領は帰路にイギリス船を選び、国営会社を閉鎖して船隊を競売にかけると決めた。国営船の競売をめぐって、民間の船主たちはかつてない商業上の競争を繰り広げた。旧ドイツ船だった国営船マシコは、1925年にソシエダーデ・ジェラルに売られ、ルーゾと改名された。同じ時期には、植民地航路を担う植民地航海会社が1922年7月3日にアンゴラで設立された。新聞が論じた委員会は、国が自ら船を運航する事業から手を引いた直後に、ブラジル航路を検討していたことになる。

ブラジル航路は19世紀から失敗を重ねていた

ブラジル航路には、論説が恐れた「解決不能」の結論を思わせる失敗の前例があった。1852年にポルトで設立されたルゾ=ブラジル蒸気船会社は、リオデジャネイロ航路で補助金を受けたイギリスとフランスの会社と競い、4年ともたなかった。ある会社は1908年4月に王家を乗せてポルトガル・ブラジル航路を開く計画を立てたが、国王暗殺事件がこの計画も阻んだ。19世紀末にポルトガルからブラジルとアメリカ合衆国へ多くの移民が渡ったとき、その利益を大きく得たのは外国の海運だった。コレイアとレイスは、第一次世界大戦前のポルトガルの船は国の必要に対してあまりに少なく、国は外国の海運に頼っていたと書いている。1926年にポルトガルの商船隊が担った海上輸送は、全体の10分の1をわずかに超える程度だった。新聞が無為を敗者の役割と結びつけたとき、新聞はこうした失敗と外国依存の歴史を前にして書いていた。

移民向けブラジル航路は1929年の危機で頓挫した

論説は委員会の作業について何も知らないと書いており、委員会の結論も今回の資料ではたどれない。コレイアとレイスは、ブラジル向け移民航路のような拡大の試みが1929年の金融危機で頓挫したと記している。書評はこの航路が1926年の委員会から生まれたかどうかを述べておらず、両者の直接のつながりは確かめられない。新聞は問題が解決不能とされないことを望んだが、少なくとも移民航路という試みの一つは1929年の危機を乗り越えられなかった。

原文

MARINHA MERCANTE

Nada sabemos dos trabalhos da comissão que estuda a possibilidade de se estabelecer uma carreira de navegação para o Brasil. Os nomes que a compõem animam-nos a crer que não reunirá esterilmente, umas tantas veses, para um dia nos vir dizer: - Encarámos o assunto sobre todos os aspectos e chegamos á conclusão de que o problema é insoluvel. O derrotismo triunfaria, mas o nosso pais, resignando-se, convencendo-se de que a inação é o seu destino, condenar-se-ia a um papel de vencido - em desharmonia total com o ritmo da vida moderna.

A' cautela...

- Que feias são as irmãs do Paredes... - Cala-te, homem, que as " paredes " teem ouvidos...

EM Asnières

EM Asnières, um tal Le Mahou, de 56 anos, morador na rua do Mesnil, tinha uma perna de pau. Como era guarda nocturno duma estancia de madeiras, em Neuilly, e fazia muito frio, sentou-se junto dum brazeiro, adormecendo. Alta noite acordou com uma grande dôr: a sua perna de pau tinha ardido e o fogo chegava-lhe já ás carnes.

紙面の出典:Source: Internet Archive / Fundação Mário Soares

万国一面について →

本日の新聞一覧

街を巡る ↑
100%
原紙を拡大して読む

つまんで拡大 · 指で紙を動かす