Politika
- 決裂か?
- St・ラディッチ氏の拝謁
1926年10月16日付のポリティカ紙は、ベオグラードの内閣危機を一面で追った。1本目の記事は、王室が提出済みの辞表についてまだ決定を下していないと伝えた。同紙は、新しい組み合わせが整うか、現在の組み合わせが小さな人事変更で存続できると判明するまで決定が持ち越されるとの見方を示した。記事は、ステパン・ラディッチがその日のうちの解決とザグレブへの早期帰還を楽観的に予告してベオグラードに着き、ウズノヴィッチ首相と会見した様子を報じた。2本目の記事は、ラディッチが12時40分にP・ラディッチを伴って国王への拝謁から退出した場面を描いた。ラディッチは不機嫌な様子でジュネーヴの話をしただけだと述べ、国王の質問の中身を明かさず、指導者の地位を退くことをきっぱり否定した。
この版は一面の2本の記事を部分的に読んだものであり、OCRが使えなかったため紙面画像から文字を起こしている。1本目の記事は冒頭と末尾が切れており、判読できない語は[?]で示している。「Г. РАДИЋ КОД Г. УЗУНОВ…」と「ПОСЛЕ ПОСЕТЕ Г. УЗУНОВ…」という見出しの関連記事は画像の端で切れているため、この版は訳していない。ラディッチが「ジュネーヴのことを話しただけ」と述べた意味を紙面は説明していない。
翻訳
決裂か?
[?]王室もまた、提出された辞表について決定を[?]していないため、この問題は新しい組み合わせが完全に整ったとき、すなわち現在の組み合わせが、もちろん小さな人事の変更を伴って維持できるかどうかがはっきりしたときに初めて解決されるという諸説が裏付けられた。ラディッチ氏は昨日ベオグラードに到着し、大いに楽観的な見通しを携えてきたうえ、危機はその日のうちに解決され、自分も即座に、あるいは遅くとも本日午前中にはザグレブへ戻れるだろうとまで言い切った。ラディッチ氏とウズノヴィッチ氏の会見が行われ、その後ラディッチ氏はさらに[?]
St・ラディッチ氏の拝謁
12時40分、ラディッチ氏はP・ラディッチ氏に伴われて王宮から出てきた。S・ラディッチ氏は不機嫌そうな様子で、新聞記者たちに長い説明を一切しようとしなかった。記者たちが四方から浴びせた数多くの質問に、ラディッチ氏はこう答えた。
「ジュネーヴのことを話しただけです。国王から二、三の質問を受けましたが、それは今のところ皆さんにお話しできません。結果を見ればわかるでしょう」
「あなたが指導者の地位を退くというのは本当ですか」
「いや、とんでもない!」とラディッチ氏はきっぱりと手を振りながら断言した。それから彼は言葉を止め、驚いたように尋ねた。
「それで、誰がそんなことを求めるというのですか」
解説
ウズノヴィッチ内閣の成立と度重なる組み替え
ポリティカ紙は、王室が提出済みの辞表にまだ決定を下しておらず、新しい組み合わせが整うか現在の組み合わせが小さな人事変更で存続できると判明するまで決定を持ち越すとの見方を伝えた。この辞表を出していた内閣を率いたのは、人民急進党のニコラ・ウズノヴィッチである。ウズノヴィッチは、汚職スキャンダルに直面したニコラ・パシッチ首相が辞任を余儀なくされたあと、1926年4月8日に首相に就いた。ウズノヴィッチは在任中に自党内の対立に直面し、短命な内閣が次々に生まれては消えた。ウズノヴィッチの首相在任は1927年4月17日に終わった。記事が描いた王室の様子見は、首相が地位にとどまったまま内閣の顔ぶれだけを組み直すこの時期の進め方と合っている。記事自体は予定された人事の具体的な名前を挙げておらず、ベオグラードで流れていた見方を同紙が伝えたにとどまる。
ラディッチのベオグラード訪問の背景にあった1925年の急進党・農民党協定
ポリティカ紙が存続を論じた政府は、1925年の協定の上に成り立っていた。この年、ステパン・ラディッチのクロアチア農民党は人民急進党と協定を結び、両党は権力を分け合った。この取り決めにより、ラディッチ自身が教育相に就き、パヴレ・ラディッチ、ニコラ・ニキッチ、ベンヤミン・シュペリナ、イヴァン・クライチら党員も閣僚の地位を得た。そのためウズノヴィッチ内閣の改造は、急進党の主要な提携相手である農民党に直接かかわった。同紙がラディッチのザグレブからの到着、ウズノヴィッチとの会見、王宮での拝謁を細かく追ったのはこのためである。同紙は、危機がその日のうちに解決するというラディッチの自信と、指導者の地位を退くことを強く否定した発言を記録した。記者の質問から、ラディッチの退任のうわさが当時流れていたことがわかる。同紙は協議の条件を報じておらず、ラディッチは国王の質問の中身は結果でわかると記者に述べただけである。
1926年10月の危機のあと連立はどうなったか
見出しが問いかけた決裂は、この年の秋には起きなかった。急進党と農民党の協力は冬まで続き、1926年12月24日には農民党の有力党員でラディッチの娘婿にあたるアウグスト・コシュティッチが、ニコラ・ウズノヴィッチ政府の建設相に任命された。決裂はその数週間後に起き、農民党は1927年2月1日に急進党との連立から離れた。ウズノヴィッチの首相在任は1927年4月17日に終わった。この流れに照らすと、ポリティカ紙が10月に伝えた危機は連立の終わりではなく、続いた一連の再交渉の一つだったことになる。ラディッチが指導者の地位を手放さないと言い切った時期のあとも、農民党はさらに数か月にわたって政府にとどまった。
王宮でラディッチに同行したパヴレ・ラディッチ
ステパン・ラディッチとともに王宮から出てきたP・ラディッチ氏は、パヴレ・ラディッチ(1880〜1928年)である。パヴレ・ラディッチはクロアチア人民農民党の党員で、1925年の急進党との権力分担協定によって閣僚の地位を得た党幹部の一人だった。拝謁への同行は、党が政権に加わっていた時期にパヴレが党指導部で占めた位置を示している。この記事の2年足らずのちの1928年6月20日、急進党議員プニシャ・ラチッチが国民議会でパヴレ・ラディッチを射殺した。ステパン・ラディッチも同じ襲撃で致命傷を負った。この銃撃によって、農民党の指導者たちがザグレブとベオグラードの内閣と王宮の間を行き来したこの記事の時期の協力と対立は終わった。
原文
Раскид?
[?] пошто ни Круна није [?] ла одлуку о поднетој оставци, чиме су потврђене верзије да ће се то питање решити тек онда када буде потпуно готова нова комбинација, односно када се буде начисто да ли ће се досадашња комбинација моћи да одржи, наравно с малим личним променама. Г. Радић је јуче допутовао у Београд и собом је донео много оптимизма па чак и тврђење да ће криза бити решена још током дана те ће се и он моћи да врати у Загреб или одмах или најдаље до данас пре подне. Дошло је до виђења између г. Радића и г. Узуновића, г. Радић је после тога био и [?]
АУДИЕНЦИЈА Г. СТ. РАДИЋА
У 12 и 40 г. Радић изашао је из Двора у пратњи г. П. Радића. Г. С. Радић изгледао је зловољан и новинари ма није хтео давати никаква дужа објашњења. На унакрсна многобројна питања новинара г. Радић одговорио је: - Само смо о Женеви разговарали. Два, три питања ми је Краљ поставио, која вам не могу за сада казати, а која ћете видети по резултатима. - Је ли тачно да ћете се ви одрећи вођства? - А, никако! одговорио је категорички г. Радић, махнувши одрешито руком. Затим је застао и у чуду запитао: - А к оби то тражио?