時報
- 田家鎮で両軍が交戦
- 聯軍の南昌奪回の状況補記
- 各方面の軍事消息
1926年10月15日付の『時報』は、北伐軍が江西と湖北で進めた戦いの様子を伝えた。九江発十三日の電報は、揚子江岸の田家鎮で両軍が再び衝突して軍艦が増援に急派されたことと、南昌方面で十二日から激戦が続きなお勝敗が決していないことを報じた。ロイター電は、吉安方面の將鎮臣軍が南軍に押されて臨江付近まで退いたと伝えた。東方社の上海発記事は、半月以上途絶えた通信の後に届いた先月二十九日付の書簡を載せ、党軍が十九日晩に南昌へ入った後に聯軍が反撃し、二十一日晩には渡河突撃の寸前まで迫った経過を記した。各方面の軍事消息欄は、包囲された城で北兵が武器を捨てた場面や、呉佩孚からの来電を受けた総部の決定、駐屯軍の地方官に関する命令を断片的に並べた。
この版の読解は、紙面のニュース欄にある軍事記事三本を対象とする。広告の小さな活字や多くのニュース欄は、ぼやけや欠け、画像の継ぎ目での切れによって読みにくく、訳文は欠けた箇所を省略記号で示している。九江発記事の旅団長名などの一部の人名や、段の切れ目にある一部の文字は確実に読めず、翻刻していない。OCRの候補文は文字化けが多く、画像が判読できない箇所では採用していない。南京発の記事を含む紙面のほかの記事は、この読解の範囲に入っていない。
翻訳
田家鎮で両軍が交戦
◉ 田家鎮で両軍が交戦
◎ 両軍は田家鎮で再び衝突し……現在、軍艦を急派して増援している……(九江、十三日)
◎ 揚子江岸の田家鎮付近……一時……(九江、十三日)
◉ 南昌付近はまだ決戦に至らず
◎ 南昌方面では両軍が昨日(十二日)から衝突し、現在激戦中であり、まだ……ないようだ……(九江、十三日)
聯軍の南昌奪回の状況補記
……大決戦。(北京十四日ロイター電)吉安方面の將鎮臣軍は南軍に押し返され、臨江付近まで退いた。
聯軍の南昌奪回の状況補記(東方社十四日上海発)……通信が途絶えてすでに半月を超えた。昨日になってようやく先月二十九日付の通信員の書簡を受け取った。書簡は聯軍が南昌を奪回した前後の状況を述べており、以下に記録する。十九日晩、党軍が南昌に進んで占領した後、対岸の沙井にいた蘇軍が党軍と戦い、砲声と銃声は夜間に最も激しかった。当時、蘇軍は上手に陣取り、二十一日晩には危うく突撃して渡河するところだった。さらに鄧如琢は江西で第九・第二の両旅と劉寶題の混成旅を集めて攻撃させた。南昌にいた……第六・第二・第三などの軍に属する師団は、すべて前線へ向かい……長の程潜が自ら陣地に臨んだ。二十三日朝になると、革命軍の後方防衛司……
各方面の軍事消息
……そのほかは皆、開城を願い、急いで城を出ようとした。そのため革命軍は時に起ち……革命軍は城を囲んで攻め……命に服し……余蔭森部の……十……通湘・中和・平湖・望山……部隊がなだれ込み、北兵は皆武器を捨てた……ら諸人……漢口に来た者は大学内に……と聞く。同大学はこれら諸人ときわめて親密であるため……
▲ 聯軍戦報。長江……勝……各部……連日公安で……
▲ 総部は呉佩孚からの来電を受け……運び到り、即日、道を分けて出発することを決定した……
▲ 省都の官庁および慈善家……
▲ 総部は淮・徐・海の駐屯軍の地方官に責任を負わせ、総司令部執法官の権限を与えるべきであるとし……
▲ 聯軍第二師は混……から
解説
1926年9月に南昌の支配はどう入れ替わったか
第二の記事が載せた東方社の書簡は、江西作戦の大筋と一致する経過を記している。国民党は8月に長沙で開いた軍事会議で、孫伝芳の南昌を避けて呉佩孚の拠点である武昌を直接攻める方針を決めていた。孫伝芳は不可侵の協定を持ちかけられても自分の政権を国民党の支配下に置くことを拒み、蔣介石は9月4日に江西省境を越えて攻撃を始めた。国民革命軍は孫の部将頼世璜の離反にも助けられ、9月19日までに九江と南昌を手に入れた。書簡は党軍の南昌入城を十九日晩としており、この日付は上の経過と合う。孫伝芳は9月21日に南京から援軍を率いて到着し、国民革命軍の攻勢を退却に追い込んだ。書簡が聯軍側の部隊が二十一日晩に渡河突撃の寸前まで迫ったと記すのも、この反撃の時期と重なる。鄧如琢の旅団や前線に出た程潜の名は、書簡そのものが伝える細部である。孫伝芳は失地の大半を取り戻し、学生や教員、国民党員と疑った者を数百人殺して支配を固め直した。見出しの奪回は実際に起きた逆転を指しているが、その逆転は数週間しか続かなかった。
聯軍の正体は孫伝芳の五省連合だった
紙面の聯軍は孫伝芳の連合軍を指している。孫伝芳の連合は1926年に福建、浙江、江蘇、安徽、江西の五省を支配していた。孫伝芳は1925年11月25日に江蘇の督軍として南京に本拠を置き、最盛期には20万人を超える軍を率いていた。広州政府は孫伝芳に不可侵の協定を持ちかけたが、孫伝芳は自分の政権を国民党の支配下に置くことを拒んだ。そのため国民革命軍は、呉佩孚の軍が退却を始めると次の戦場として江西へ進んだ。紙面の言葉遣いもこの関係に沿っている。南昌の書簡は対岸の孫側の部隊を蘇軍と呼んでおり、蘇は孫伝芳が拠点を置いた江蘇の略称である。書簡は相手側を党軍や革命軍と呼んでいる。第三の記事の総部や聯軍第二師の項目は、同じ司令部が前線から離れた場所で駐屯軍の地方官や任命の問題を扱っていたことを示している。
10月中旬の江西戦線の状況
九江発十三日の電報は、戦線がまだ定まっていない様子を伝えている。電報によれば、両軍は揚子江岸の田家鎮で再び衝突し、軍艦が増援に急派され、南昌周辺では十二日から激戦が続いても決着がついていなかった。ロイター電は將鎮臣軍が吉安方面から臨江付近へ押し戻されたと伝えており、この記述は聯軍側が南からも圧力を受けていたことをうかがわせる。漢口のアメリカ総領事は10月11日の報告で、約9,000人の北軍兵士が前日に上流から九江へ到着したと記し、漢口と九江の間の地域から北軍が徐々に撤退していると判断した。その後、戦況は孫伝芳に不利な方向へ進んだ。孫の部下の夏超は10月16日に浙江の独立を宣言し、孫はこの反乱を鎮めたが、10月末には孫の軍は江西と福建で再び退却していた。紙面が伝えた決着のつかない戦闘は、孫伝芳の江西支配が崩れる直前の時期にあたる。
10月10日以降の武昌
第三の記事の前半は、包囲された城の最後の場面を描いているように読める。断片には、守備側が開城を望んだこと、革命軍が城を囲んで攻めたこと、通湘・中和・平湖・望山の名とともに部隊がなだれ込んだこと、北兵が皆武器を捨てたこと、人々が大学内にいたことが並んでいる。これらの細部は武昌陥落の経過と矛盾しない。呉佩孚は軍の大半とともに北の河南省へ逃れ、武昌に残った部隊は10月10日に降伏し、国民革命軍は湖北の制圧を終えた。漢口のアメリカ総領事は、南軍がその朝に計略を用いて城を取ったこと、敗走した北軍兵士が武器や軍服を捨てたこと、目撃者が死傷者を数百人と見積もったことを報告した。総領事はさらに、劉玉春将軍がブーン大学構内にある不在のアメリカ人の住宅に身を隠していて捕らえられたことを伝えた。総領事は、武装を解かれた兵士が南軍に加わるか解放されるかを選ぶことになり、多くが南軍に加わったことも報告した。紙面が大学とこれら諸人の親密な関係に触れた部分は同じ出来事に関わる可能性がある。ただし判読できる文字は武昌の名も劉玉春の名も示していない。同じ欄は呉佩孚からの来電にも触れており、呉佩孚の残存部隊はその後数か月のうちに解体していった。
原文
田家鎮兩軍作戰
◉ 田家鎮兩軍作戰 ◎ 兩軍於田家鎮又發生衝現急派軍艦增援、 (九江十三日 ◎ 揚子江岸田家鎮附近、 一時、 (九江十三日 ◉ 南昌附近未決戰 ◎ 南昌方面兩軍自昨 (十二) 日衝突、 現正在激戰、 似尚未 (九江十三日
聯軍奪回南昌情形補誌
大決戰、 (北京十四日路透電) 將鎮臣軍在吉安方面被南軍壓退至臨江附近、 聯軍奪回南昌情形補誌 (東方社十四日上海消息) 信不通、 已逾半月、 昨始接到上月二十九日訪函陳聯軍奪回南昌前後情形、 錄之如左、 十九日晚、 黨軍進佔南昌後、 其在對河沙井之蘇與黨軍作戰、 砲聲槍聲、 以夜晚爲甚、 時蘇軍在上、 二十一日晚幾乎衝鋒過江、 而鄧如琢復在贛有九二兩旅及劉寶題混成旅會集進攻、 在南昌六第二第三等軍所屬師團、 均完全開赴前敵、 長程潛親臨陣地、 及至二十三日早、 革軍後防司
各方軍事消息
、 其餘則均願開城、 急欲出城、 故革軍時起、 革軍環城而攻聽命、 余蔭森部之十通湘中和平湖望山隊擁入、 北兵均釋械等諸人、 聞來漢者大學內、 該大學爲與諸人感情極洽、 ▲ 聯軍戰報、 接長江勝各部、 連日在公安 ▲ 總部接吳佩孚來電運到、 決定即日分路 ▲ 省垣官廳及慈善家 ▲ 總部以淮徐海駐軍地方官負責、 應予以總司令部執法官、 ▲ 聯軍第二師、 由混