Politika
- ウズノヴィッチ氏の第四次内閣か
- 「ラディッチ氏の電報が辞任をめぐる決定を先送り」
- 旧内閣、改造を一つ加えて存続
1926年10月15日付のポリティカ紙は、ベオグラードで予想外にゆっくりと進む内閣危機を一面で伝えた。同紙によれば、ニコラ・ウズノヴィッチ首相は前々日の午前に辞表を出したが、国王はまだ辞表を受理せず、王宮での協議も始まっていなかった。各会派は危機の行方がわかるまで活動を止めていたと同紙は報じた。同紙はステパン・ラディッチ氏の電報が辞任をめぐる決定を遅らせたと伝えた。同紙はまた、王宮での謁見を終えたウズノヴィッチ首相が、内閣は辞任中も、辞表の受理後も国務を処理し続けると記者団に語った言葉を載せた。同紙の見出しは、旧内閣がおそらく改造を経て存続するとの見通しを示した。閣僚たちは、決定は早くても翌日になると述べたと同紙は伝えた。
この版は、一面から三つの部分を読んでいる。一つは内閣危機を伝える主要記事の冒頭であり、残る二つはウズノヴィッチ首相の王宮での謁見と閣僚会議を伝える後半部分である。三つの部分はいずれもスキャン画像の区画の端で途切れており、閣僚たちがラディッチ氏について語った内容を含む記事の続きは読めない。機械読み取りの文字がほとんど判読できなかったため、編集部は紙面の画像から本文を読み取った。編集部は一部の固有名詞とかすれた行を推測で補わずに省いた。第一の部分の冒頭にある題字欄の行は、紙面のとおりに訳している。
翻訳
ウズノヴィッチ氏の第四次内閣か
1ディナール|編集部:20-94、9-53|情勢 ―― 第四次……氏内閣 ―― ラディッチ氏の電報と説明を受けて、おそらく旧内閣が存続する。首相ウズノヴィッチ氏は一昨日の午前に辞表を提出したが、その日、国王はまだ辞表を受理しておらず、王宮での協議も始まっていなかった。辞表が受理されなかったというまさにその事実によって、情勢の重心は昨日へと移り、昨日が辞表受理の問題に決着をつけるはずの日となった。政界では事態がもっと速く展開すると予想されていた。そのため、事態がゆっくりと、しかも昨日の午前になっても内閣の辞表を受理するかどうかがまだ決まらないほどゆっくりと動き始めたことは、驚きをもって受け止められた。そしてこの問題が決着しないことの結果として、すべての会派の活動も止まった。各会派は、危機がどの方向へ進むのかまだわからない以上、決めるべきことは何もないと考えたのである。危機の展開が遅いことは、昨日、きわめて示唆的なものと受け止められ、また……
「ラディッチ氏の電報が辞任をめぐる決定を先送り」
「ラディッチ氏の電報が辞任をめぐる決定を先送り」。ウズノヴィッチ氏は六時十五分まで王宮にとどまった。首相府では大勢の記者が氏の帰りを待ち受けており、この謁見の結果と理由の両方を知ろうとしていた。この点について記者団が質問すると、ウズノヴィッチ氏はこう答えた。
――私が王宮を訪れた理由は、ご承知のとおり、内閣は辞任中であっても国務を処理しなければならないということだ。それどころか、辞表が受理された後でも、内閣はその務めを処理するのである。
――では首相閣下、辞表は受理されたのか。
――辞表が……という知らせは受けていない。
旧内閣、改造を一つ加えて存続
……とウズノヴィッチ氏は記者団に別れを告げながら述べた。
旧内閣、改造を一つ加えて存続
ウズノヴィッチ氏が首相府に戻ると、会議が再開された。閣僚たちはさらに半時間ほど集まったままでいたが、その後解散した。閣僚からは、決定はまだ下されていないという声が聞かれた。ある閣僚は、問題全体はまだ最終段階に入っておらず、決定はいずれにせよ翌日になってから下されると述べた。閣僚たちはさらに、ラ……氏が
解説
ウズノヴィッチが1926年に首相となった経緯
ニコラ・ウズノヴィッチは、この紙面で辞表の扱いが決まらないまま残された首相であり、就任してからまだ半年ほどしか経っていなかった。ウズノヴィッチは1926年4月8日に首相に就任した。前任のニコラ・パシッチ首相が汚職スキャンダルに直面して辞任に追い込まれたためである。ウズノヴィッチの政権は当初から急進党内部の対立を抱えていた。その結果、ウズノヴィッチの指導の下で短命の内閣が次々に入れ替わった。ポリティカ紙が見出しで第四次ウズノヴィッチ内閣かと問うた背景には、この繰り返しがある。同紙は一人の首相の下で半年足らずのうちに組まれ直した内閣を数えており、10月の辞表はその列にもう一つを加えるおそれがあった。四という数は同紙自身の数え方である。
ラディッチの電報が内閣の行方を左右した理由
ポリティカ紙はステパン・ラディッチ氏の電報を、国王の決定を遅らせている要因として扱った。国民議会の議席配分を見ると、この電報が重く見られた理由がわかる。1925年2月の選挙で人民急進党は第一党の地位を保ったが、獲得議席は315議席中123議席にとどまり、過半数に必要な158議席に届かなかった。このため急進党の首相は連立相手を必要とし、ウズノヴィッチの連立相手はラディッチらが指導するクロアチア農民党だった。内閣を改造できるかどうかは、ラディッチとその党の態度にかかっていた。この連立は10月の危機の後もしばらく続いた。1926年12月24日には、ラディッチの娘と結婚していたクロアチア農民党の政治家アウグスト・コシュティッチが、ウズノヴィッチ内閣の建設相に任命された。
急進党と農民党の連立の終わり
急進党とクロアチア農民党の連立は、この紙面が伝えた決定の遅れた危機から3か月半ほど後に解消された。コシュティッチの伝記によれば、クロアチア農民党は1927年2月1日に連立を離脱した。ウズノヴィッチは1927年4月17日まで首相の座にとどまり、同じ人民急進党のヴェリミル・ヴキチェヴィッチが後任となった。この時期を扱う別の記述は、ウズノヴィッチが4月に辞任した理由を、クロアチア農民党が政権を離れると決めたことに求めている。この記述に従えば、農民党の離脱と首相の交代は一続きの出来事である。この結末と照らし合わせると、10月の危機は1927年の初めまでしか続かなかった連立が最初に直面した試練だった。
辞表の受理と国王の役割
この紙面は、内閣交代の時期が国王の判断に大きく左右されたことを示している。同紙によれば、国王が辞表を受理せず、王宮での協議も始めなかったため、ウズノヴィッチの辞表は未決のままとなり、各会派は国王が動くまで何も決められなかった。ウズノヴィッチは記者団に対し、内閣は辞任中も、さらに辞表が受理された後も国務を処理すると語った。この発言は、決定を待つ間も行政を止めない暫定的な仕組みを説明したものである。国王はその後も同じ手順をとった。アントン・コロシェツ首相が1928年12月末に辞任すると、国王は協議を始めた。その数週間後の1929年1月6日、国王アレクサンダル1世は議会を解散し、憲法を廃止して、すべての政党を禁止した。これにより、1926年の危機が展開した議会制の枠組みそのものが終わった。
原文
ЧЕТВРТА ВЛАДА Г. УЗУНОВИЋА?
1 динар | Уредништво: 20-94; 9-53; СИТУАЦИЈА ЧЕТВРТА ВЛАДА Г. - После телеграма г. Радића и обј дати, остаје вероватно стара влада Председник владе г. Узуновић поднео је оставку прекјуче пре подне, али тога дана Краљ још није био уважио оставку нити су отпочета саветовања у Двору. Самим тим што оставка није била уважена тежиште ситуације било је пренето на јучерашњи дан који је имао да донесе решење у погледу питања уважења оставке. У политичким круговима очекиван је бржи развој догађаја и због тога је дошло до изненађења што су се догађаји почели развијати споро, толико споро да се јуче пре подне није још одлучило хоће ли оставка владе бити уважена или не. А нерешеност тога питања имало је за последицу да се укочио и рад свих клубова који су сматрали да немају о чему да решавају када се још не зна којим ће правцем криза да пође. Спорост развијања кризе сматрана је јуче као јако симптоматична и
„ТЕЛЕГРАМ Г. РАДИЋА ОДЛАЖЕ ОДЛУКУ О ОСТАВЦИ“
" ТЕЛЕГРАМ Г. РАДИЋА ОДЛАЖЕ ОДЛУКУ О ОСТАВЦИ ". Г. Узуновић задржао се у Двору до шест и четврт. На његов повратак у председништво очекивао је велики број новинара који су хтели сазнати како резултат тако иразлог ове аудиенције. На питање, које су му у том правцу упутили новинари, г. Узуновић одговорио је: - Разлог моје посете у Двору је тај што влада, као што вам је познато, мора да отправља државне послове и онда када је у оставци. Шта више она те послове отправља и онда када је остав ка уважена. - А да ли је оставка уважена, господине председниче? - Немам обавештења да је оставка
СТАРА ВЛАДА ОСТАЈЕ С ЈЕДНОМ РЕКОНСТРУКЦИЈОМ
ко је г. Узуновић опраштајући се са новинарима. СТАРА ВЛАДА ОСТАЈЕ С ЈЕДНОМ РЕКОНСТРУКЦИЈОМ Пошто се г. Узуновић вратио у председништво владе настављена је конференција. Министри су остали на окупу још пола сата па су се после разишли. Од чланова владе могло се чути да није још пала одлука. Један од ми нистара изјавио је да цело питање још није ушло у завршну фазу и да ће се одлука донети свакако тек наредног дана. Министри су још изјавили да г. Ра