Politika
- 政局危機の決着をめぐる反響
- 謎の議定書
- 国王、トポラへ戻る
1926年10月18日付の『ポリティカ』1面は、ベオグラードで10日ほど続いた内閣危機の結末を伝えた。主要記事は、10月7日夜にニキッチ博士がウズノヴィッチ内閣を離れ、翌日ラディッチがザグレブ駅で騒ぎを起こして急進党に動揺が広がった経緯をたどった。同じ記事は、13日にウズノヴィッチが辞表を出し、王冠がそれを受理せず、急進党とラディッチ派が一時断絶したのち、危機は始まった場所で終わったと評した。別の記事は、ウズノヴィッチも閣僚も与党議員も、秘密のままとされる新しい議定書について語ろうとしなかったと報じた。短い記事は、辞表提出の知らせでトポラから来た国王が、撤回を受けてトポラへ戻ったと伝えた。
この版は1面の3つの抜粋を部分的に訳している。段の端で語が切れているため、各抜粋は語や文の途中で始まり、途中で終わる。国王の帰還を伝える抜粋は判読しにくく、冒頭にある判読できない3語を [?] で示している。「謎の議定書」の抜粋は、確実に読めない閣僚の姓の手前で止めている。「АКЦИЈА ЗЕМЉОРАДНИКА」の見出しの記事は本文の文字が薄くて書き起こせないため、訳していない。断片的なOCRの文字は、欠けた部分の補完に使っていない。
翻訳
政局危機の決着をめぐる反響
……政界筋、危機は始まったその場所で終わった。10日ほど続いた危機の間、事態は一歩も前へ進まず、ただの一つの問題も解決されなかった。危機が実際に始まったのは10月7日木曜日であり、その晩にニキッチ博士がウズノヴィッチ氏の内閣の閣僚でなくなった。すぐ翌日の10月8日には、ザグレブ駅でSt.ラディッチ氏の、あの周知の暴言騒ぎが起きた。あらゆる政界、とりわけ内閣そのものの中で大きな嵐が巻き起こった。急進党員は皆色めき立ち、協議や話し合いや交渉が始まり、国王のいるトポラにまで人が出向き、そのすべての結果、10月13日水曜日にウズノヴィッチ氏は内閣の辞表を提出した。ただ王冠だけがその辞表を受理しなかった。新たな苦しい協議と交渉が始まり、St.ラディッチ氏もベオグラードに来て、急進党とラディッチ派の関係は(金曜日の夜に)完全な断絶にまで至った。ところが、国王がすでに辞表を受理し、議会議長が王宮に呼ばれたと言われていたまさにその瞬間に、すべては思いがけず、ウズノヴィッチ氏が……ことで終わった。
謎の議定書
……近日中に、しかもそのすべてが、苦労の末にようやく立て直された急進党・ラディッチ派連立の庇護の下で行われる。
謎の議定書
ウズノヴィッチ氏が、世間に対して秘密のままとされる新しい議定書について語ろうとしなかったのと同じく、閣僚も政府与党の議員も、この件について語ろうとしなかった。そもそも彼らは皆、同じ一つの答えを使っていた。それは、彼らには……
国王、トポラへ戻る
……新副議長 [?] [?] [?] ……スボティッチ氏は議会議長団に再び選ばれることを望んでいないと言われていた。
国王、トポラへ戻る
国王は、政府が辞表を提出したとの知らせを受けて、トポラからベオグラードに来ていた。政府が辞表を撤回し、再びすべてが元のままとなった今、国王は昨日午後にベオグラードを離れ、トポラへ戻った。
解説
発足半年のウズノヴィッチ内閣と急進党内の対立
ポリティカ紙は、危機の中心にニコラ・ウズノヴィッチ首相を置き、危機は始まった場所で終わったと書いた。ウズノヴィッチは1926年春に首相になったばかりだった。同年4月、汚職疑惑に直面したニコラ・パシッチ首相が辞任に追い込まれ、ウズノヴィッチが4月8日に首相に就いた。ウズノヴィッチの在任中には急進党内部の対立が続き、短命の内閣が次々に入れ替わった。この事情があったため、閣僚1人の離脱とラディッチの1度の騒ぎだけで、ウズノヴィッチは紙面が伝えるとおり10月13日に内閣の辞表を出すまでになったと考えられる。紙面が伝えた立て直しも長続きせず、ウズノヴィッチの首相在任は1927年4月17日に終わった。
ニキッチの離脱と秘密議定書の背後にある急進党・ラディッチ派連立
ポリティカ紙は、金曜日の夜に両派が完全に断絶したのち、急進党・ラディッチ派の連立が苦労の末にようやく立て直されたと伝えた。この連立は1925年に始まったものである。長く野党にいたラディッチのクロアチア農民党は、その年に人民急進党と合意を結び、権力を分け合う取り決めを交わした。ラディッチ本人は教育相となり、他の党員も閣僚の座を得た。その中にニコラ・ニキッチという名があり、この名はポリティカ紙が10月7日夜に内閣を離れて危機の発端になったと書いたニキッチ博士と一致する。紙面は、争いを収めた新しい議定書が秘密のままとされ、閣僚も与党議員も語ろうとしなかったと書いており、紙面から議定書の条件を知ることはできない。ラディッチの伝記によれば、この権力分担の取り決めは1926年12月10日のパシッチの死後に打ち切られた。
トポラとベオグラードを往復したアレクサンダル国王の裁定役
ポリティカ紙は、アレクサンダル国王を危機の決定的な人物として描いた。紙面によれば、政治家たちはトポラの国王のもとへ出向き、王冠だけがウズノヴィッチの辞表を受理せず、国王は辞表提出の知らせでベオグラードに来て、辞表が撤回されるとトポラへ戻った。紙面は、決着の直前に国王がすでに辞表を受理したとのうわさが流れていたことも記した。アレクサンダルは摂政として事実上の国家元首を務めたのち、1921年に父王の死去を受けて即位していた。この一件は1920年代の長い政治危機の一部であり、その危機はクロアチア人指導者ステパン・ラディッチの暗殺に行き着いた。アレクサンダル国王はこれを受けて1929年にヴィドヴダン憲法を廃止し、議会を停止し、国名をユーゴスラビア王国に改め、国王独裁を敷いた。
パシッチ死去を目前にした急進党の指導部
ポリティカ紙の記事は、ラディッチの騒ぎで急進党員が皆色めき立ったと書き、党内の派閥の名は挙げなかった。ニコラ・パシッチは首相の座を離れていたが、この時期もなお人民急進党の党首だった。パシッチはこの号の発行から2か月足らず後の1926年12月10日に、80歳で心臓発作により死去し、その後アツァ・スタノイェヴィッチが党首になった。パシッチの死はラディッチの党との権力分担の取り決めが終わる区切りにもなり、ポリティカ紙が10月18日に伝えた妥協は、この連立の最後の修復の一つになった。
原文
Одјек решења кризе
литички кругови, завршила на ономе месту на коме је и почела. Свих десетак дана кризе није се одмакло ни ко рака даље нити је решено ма и једно питање. Криза је управо отворена у четвртак 7 октобра када је увече др. Никић престао бити члан владе г. Узуновића. Одмах сутра дан, 8 октобра, дошао је познати испад г. Ст. Радића на загребачкој станици. Дошло је до велике буре у свима политичким круговима а нарочито у самој влади. Радикали су се били сви узбунили, настала су саветовања, разговори, преговори, ишло се и у Тополу где је био Краљ и све је довело до тога да је у среду 13 октобра г. Узуновић поднео оставку своје владе. Само Круна није ту оставку уважила. Настала су нова мучна саветовања и преговарања, у Београд је дошао и г. Ст. Радић, дошло је и до потпуног прекида односа између радикала и радићеваца (у петак увече) али се све неочекивано, баш у тренутку када се тврдило да је Краљ већ уважио оставку и да је у Двор позват председник Скупштине, свршило тиме што је г. Узуновић по -
ТАЈАНСТВЕНИ ПРОТОКОЛ
жим данима и то све под заштитом с тешком муком васпостављеном коалицијом радикално радићевском. ТАЈАНСТВЕНИ ПРОТОКОЛ Као што г. Узуновић није хтео да говори о новом протоколу који ће остати тајан за јавност, тако о томе предмету нису хтели да говоре ни чланови владе ни чланови владине већине. Уосталом, сви су они употребљавали један исти одговор, а то је да им
КРАЉ СЕ ВРАТИО У ТОПОЛУ
вог потпредседника [?] [?] [?] че говорило да г. Суботић не жели да буде понова биран у председништво Скупштине. КРАЉ СЕ ВРАТИО У ТОПОЛУ Краљ је био дошао у Београд из Тополе када му је било јављено да је влада поднела оставку. Сада пошто је влада повукла оставку и пошто је опет остало све по старом, Краљ је јуче по подне напустио Београд и вратио се у Тополу.