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· ウィーン(オーストリア) · ドイツ語

Neue Freie Presse

1926年10月18日付の第1面は、海外から届いた電報ニュースを大きく伝えた。上海発のユナイテッド・プレス電は、孫元帥の忠実な協力者だった浙江省の民政長官が広東派に寝返ったため、上海に戒厳状態が敷かれたと報じた。同電は、寝返りが買収によるとの見方や、南京の3個連隊の合流、避難民の流入、1200人が死亡したとされる汽船の爆発も伝えた。ニューヨーク発の電報は、土曜日の株式市場が3月以来最大の下落となり、2時間で1,103,000株が売られ、金融界が景気の頂点を懸念していると報じた。紙面の中心には、モスクワが存在を否定していたレーニンの「遺書」を初めて全文公開するとしたマックス・イーストマンの署名記事が載った。

翻訳

上海に危機迫る

編集記事欄(短信欄、地方記事、劇場ニュース、エコノミスト)に含まれる有料告知は、前に付したEの文字で識別できる。

上海に危機迫る。
浙江省長、広東派に寝返る。
「ノイエ・フライエ・プレッセ」特別電信(ユナイテッド・プレス)。

上海、10月18日。当地には戒厳状態が敷かれている。浙江省の民政長官は、これまで上海の総督である孫元帥の最も忠実な協力者の一人であったが、広東派の側に寝返り、上海への攻撃を準備している。浙江省長は広東派に買収されて味方に引き入れられたと見られている。南京から来た3個連隊が広東軍に合流した。上海が近いうちに陥落することもありえなくはないと思われる。無数の避難民が市内に流れ込んでおり、市は急いで防衛態勢を整えつつある。孫元帥のための軍需品と兵員を積んで上海を出港した汽船が爆発によって破壊され、その際1200人が命を落とした。当地では、爆発は広東派の放火犯によって引き起こされたものと推測されている。

英国炭鉱労働者の空気が硬化。
当紙特派員発電報。
ロンドン、10月18日。

ニューヨーク証券取引所で株価が大暴落

……就業していた……は、操業再開と地区協定の締結に反対を表明した急進分子の勝利に終わった。

ニューヨーク証券取引所で株価が大暴落。
「ノイエ・フライエ・プレッセ」特別電信(ユナイテッド・プレス)。

ニューヨーク、10月18日。土曜日、ニューヨーク証券取引所の株価は3月以来最も激しい下落に見舞われ、売買高は今年の土曜日の取引の中で最高に達した。2時間のうちに1,103,000株が売られた。個々の工業株は1ポイントから12ポイント下落した。とりわけ綿業株が強い売り圧力を受けた。金融界では、合衆国の景気は現在その頂点に達しており、それゆえ来年の動向には特別な注意を払う必要があるとの見方がされている。

* * *

レーニンの政治的遺書

転載は抜粋であっても禁ずる。

レーニンの政治的…… 歴史的……の初公開
マックス・イーストマン

編集部より。以下に、レーニンの政治的遺書の本文を掲載する。ソビエト・ロシアの創設者であるレーニンはこの遺書の中で、党の最も有力な二人の人材であるスターリンとトロツキーの人物について語り、二人の性質のいくつかに対する懸念を述べている。ボリシェヴィキ党内の闘争を考えれば、このセンセーショナルな公表は格別の時事性と重要性を持つ。同時に掲載する共産主義反対派の代弁者たちの声明も重要である。筆者である著名なアメリカの共産主義者マックス・イーストマンは、長年ロシアで活動し、同地でトロツキーと特別な関係にあった。記事の内容については筆者のみが責任を負うことは言うまでもない。

* * *

ニューヨーク、10月18日。3年前、死の床にあって、すでに言葉を失っていたレーニンは一通の手紙を書き、その中でトロツキーとスターリンの闘争を予言し、二人の性格を分析し、分裂を避けるために党が進むべき道を示した。レーニンの並外れた政治的先見性が、党にあてたこの短い手紙ほど明るく照らし出されたことはかつてなかった。この手紙はレーニンの「遺書」と呼ばれてきた。手紙は預言者の予言のように読める。この手紙は厳重に封じ込められ、国政の頂点に立つスターリンとその仲間たちによって存在しないものと宣言された。手紙にはスターリンに対する激しい批判と、スターリンをロシア共産党書記長の職から解くべきだという要求が含まれていたからである。私は著書『レーニン死後』の中で、この手紙の数か所を引用した。これらの引用は、ロシアの支配グループの指示に従う共産主義系の新聞によって世界中で攻撃され、否定された。モスクワの政治局は文書を公表し、レーニンの手紙は存在せず、私がそれを誤って引用したと宣言した。私は今、この「遺書」を全文で紹介できる立場にある。この文書が公表されるのは今回が初めてで……

解説

1926年10月半ばまでの北伐の進展

上海発電報にある「広東派」は、広州の国民党政府が率いる国民革命軍を指す。蔣介石は1926年7月9日の式典で総司令の職を受け、この式典が北伐の正式な開始となった。紙面が「上海の総督」と呼ぶ孫元帥は孫伝芳であり、孫の勢力は福建、浙江、江蘇、安徽、江西の5省を支配していた。国民革命軍はまず呉佩孚を攻め、武昌の城内に残った呉の部隊は10月10日の陥落まで持ちこたえた。孫伝芳に対しては、国民革命軍は9月19日までに江西省の九江と南昌を手に入れた。しかし孫が9月21日に南京から援軍を率いて到着すると、国民革命軍は退却を強いられた。この電報が打たれた時点で、孫は江西の戦線をなお保っており、国民革命軍は武昌の陥落によって次の攻勢に兵力を回せるようになったところだった。紙面が伝えた浙江の寝返りは、主力をなお保つ孫の背後の省で起きた出来事である。

寝返った浙江省長と上海進攻の結末

名前の伏せられた浙江省の民政長官は夏超である。夏超は長く浙江省の警察長を務め、1924年に孫伝芳が浙江を掌握したときに協力した見返りとして、孫から民政長官に任命された。上海の情報筋は夏が広東派に買収されたと見ていたが、歴史研究は、夏が秘密交渉を経て蔣介石と合意に達したと記している。夏は10月16日に浙江の独立を宣言し、夏の部隊は17日夜には上海から5キロの地点に迫った。18日付の電報が伝えた戒厳状態は、この接近に対応したものである。夏の進攻は数日で失敗に終わった。夏を支援するはずだった上海市内の蜂起は実現せず、増援を得た孫の軍は21日に嘉興を、23日に杭州を占領した。夏は捕らえられ、近くの町の路上で銃殺された。上海が近く陥落しうるという電報の見通しは、1926年10月の時点では実現しなかった。南京の3個連隊の合流や、1200人が死亡したという汽船爆発の報道は、戦時下の新聞が伝えた主張として読むべきものである。

レーニンの遺書がスターリンとトロツキーについて書いた内容

イーストマンが紹介した文書は、レーニンが中央委員会の指導者たちへの評価を口述した内密の手紙である。トロツキーは後年、この遺書の日付を1923年1月4日とし、レーニンは1924年1月21日に死去した。イーストマンの「3年前、死の床で」という表現はおおよそのものであり、レーニンは死の約1年前に手紙を口述していた。レーニンは、書記長となったスターリンが手中に巨大な権力を集中させたと判断した。レーニンはトロツキーについても、自信が過剰で、純粋に行政的な側面に引き寄せられやすいと批判した。編集部の前書きは、レーニンが二人の性質に懸念を示したと書いており、この記述は遺書の内容と合っている。レーニンは追記でさらに進み、スターリンは粗暴にすぎ、その欠点は書記長の職では許されないとして、スターリンを解任する方法を見つけるよう同志たちに提案した。イーストマンによれば、この要求のためにスターリンとその仲間は手紙を封じ込めた。

全文の初公開とモスクワによる否定

イーストマンの「初公開」という主張は、英語版の記録と一致する。遺書の全文は1926年10月18日付のニューヨーク・タイムズに英語で初めて掲載された。ノイエ・フライエ・プレッセは同じ日付の紙面に、ニューヨーク発の記事としてドイツ語版を転載禁止の表示付きで載せており、両紙は示し合わせて同時に発表したとみられる。イーストマンは、モスクワの政治局が手紙の存在を否定し、イーストマンの引用を誤りだとする文書を公表したと書いている。この経緯はイーストマン自身の説明であり、編集部も記事の責任は筆者のみにあると明記した。後の記録は政治局の否定と食い違う。スターリン自身が1927年11月17日付のインターナショナル・プレス・コレスポンデンスで、遺書が本物であることを公然と認めた。編集部はこの記事を共産主義反対派の代弁者たちの声明と並べて掲載し、文書を当時の党内闘争に直接結びつけた。

1920年代の上昇相場の中で起きた1926年10月の下落

電報が伝えた土曜日の暴落は、すでに大きく値上がりした相場の中で起きた。ガルブレイスが用いた株価指数は、1924年5月の106から1925年12月には181まで上昇した。ガルブレイスの記述では、1926年には短い下落が2度ほどあっただけで、株価は1927年を通じて本格的に上がり始めた。株価指数は1928年の1年間だけでも245から331へ上昇した。一方で1926年には、別の分野で投機の破綻が表に出ていた。フロリダの土地ブームは1926年のマイアミ・ハリケーンで終わり、フロリダの小規模銀行は同じ年までに預金の引き出しと貸付金の焦げ付きによって破綻し始めた。電報は、アメリカの景気が頂点に達したと金融界が見ていると伝えたが、株式相場についてはこの見方は早すぎた。10月の下落は、1929年の大暴落まで3年続いた上昇相場の中の短い中断の一つだった。

原文

Schanghai in Gefahr.

Im redaktionellen Teil (Kleine Chronik, Lokalbericht, Theaternachrichten, Economist) enthaltene entgeltliche Mitteilungen sind durch ein vorgesetztes E kenntlich gemacht. Schanghai in Gefahr. Uebergang des Gouverneurs von Tschekiang zu den Kantonesen. Spezialkabeldienst der " Neuen Freien Presse " (United Preß). Schanghai, 18. Oktober. Hier herrscht Belagerungszustand. Der Zivilgouverneur der Provinz Tschekiang, der bisher einer der treuesten Helfer des Generalgouverneurs von Schanghai, des Marschalls Sun, war, hat sich auf die Seite der Kantonesen geschlagen und bereitet einen Angriff auf Schanghai vor. Man glaubt, daß der Gouverneur von Tschekiang durch Bestechung von den Kantonsen gewonnen worden ist Drei Regimenter aus Nanking vereinigten sich mit den kantonesischen Truppen. Es erscheint nicht ausgeschlossen, daß Schanghai binnen kurzem fällt. Zahllose Flüchtlinge strömen in die Stadt, die eilig in Verteidigungszustand gesetzt wird. Ein Dampfer, der aus Schanghai mit Kriegsmaterial und Truppen für Marschall Sun abgegangen war, wurde durch eine Explosion zerstört und 1200 Mann verloren dabei ihr Leben. Man nimmt hier an, daß die Explosion durch kantonesische Brandstifter hervorgerufen worden ist. Verschärfung der Stimmung der englischen Bergarbeiter. Telegramm unseres Korrespondenten. London, 18. Oktober

Schwere Kursstürze an der Newyorker Börse.

an der Arbeit waren, hat mit einem Sieg der extremen Elemente geendet, die sich gegen die Wiederaufnahme der Arbeit und gegen den Abschluß von Distriktsabkommen aussprachen. Schwere Kursstürze an der Newyorker Börse. Spezialkabeldienst der " Neuen Freien Presse " (United Preß). Newyork 18. Oktober. Am Samstag erfuhren die Kurse an der Newyorker Börse den stärksten Kurssturz seit März und die Verkäufe erreichten den Höhepunkt der Umsätze an allen Samstagbörsen während dieses Jahres. Innerhalb von zwei Stunden wurden 1, 103. 000 Aktien verkauft. Einzelne Industriepapiere verloren einen bis zwölf Punkte. Besonders die Baumwollpapiere standen unter einem scharfen Kursdruck. In finanziellen Kreisen ist man der Ansicht, daß die Geschäftstätigkeit in den Vereinigten Staaten gegenwärtig ihren Höhepunkt erreicht habe und daher die Entwicklung für das nächste Jahr besondere Aufmerksamkeit verdient. * * *

Das politische Testament Lenins.

Nachdruck, auch im Auszuge, verboten. Das politische Lenins Erste Veröffentlichung des histo Von Max Eastman Vorbemerkung der Redaktion. Wir bringen im folgenden den Wortlaut des politischen Testaments von Lenin, in welchem der Begründer des sowjetistischen Rußland sich über die Person der zwei stärksten Talente der Partei, Stalins und Trotzkis, ausspricht und seine Bedenken wegen mancher ihrer Eigenschaften äußert. Diese sensationelle Veröffentlichung ist angesichts der Kämpfe innerhalb der bolschewistischen Partei von besonderer Aktualität und Bedeutung. Wichtig ist auch die Erklärung der Wortführer der kommunistischen Opposition, die wir zugleich veröffentlichen. Der Autor des Artikels, der bekannte amerikanische Kommunist Max Eastman, hat jahrelang in Rußland gearbeitet und stand dort in besonderer Beziehung zu Trotzki. Es ist selbstverständlich, daß er allein die Verantwortung für den Inhalt des Artikels trägt. * * * Newyork, 18. Oktober. Vor drei Jahren, auf seinem Sterbebette, bereits der Sprache beraubt, schrieb Lenin einen Brief, in dem er den Kampf zwischen Trotzki und Stalin voraussagte, den Charakter der beiden Männer analysierte und den Weg angab, den die Partei einschlagen müßte, um die Spaltung zu vermeiden. Niemals zeigte sich die außerordentliche politische Voraussicht Lenins in hellerem Lichte, als in diesem kurzen, an die Partei gerichteten Briefe, der das " Testament " Lenins genannt worden ist. Der Brief liest sich wie die Wahrsagung eines Propheten. Dieser Brief wurde unter Schloß und Riegel gehalten und von Stalin und seinen Gefährten an der Spitze der Staatsgeschäfte als nicht existierend erklärt, da er eine energische Kritik Stalins und die Forderung enthielt, daß Stalin von dem Posten des Generalsekretärs der kommunistischen Partei Rußlands entfernt werde. In meinem Buche " Seit Lenin starb " zitierte ich einige Stellen aus diesem Briefe. Diese Zitate wurden in der ganzen Welt von der kommunistischen Presse, die den Instruktionen der in Rußland herrschenden Gruppe gehorchte, angegriffen und dementiert. Das Politbureau in Moskau veröffentlichte ein Dokument, worin es erklärte, daß der Leninsche Brief nicht existiert und daß ich ihn unrichtig zitiert hätte. Ich bin nunmehr in der Lage, dies " Testament " in vollem Wortlaut wiederzugeben. Es ist das erstemal, daß dieses Dokument veröffentlicht

紙面の出典:Source: Oesterreichische Nationalbibliothek / ANNO

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