世界日報
- 鎮威第3・第4方面聯合軍団司令部布告
- 正言晩報の告知
- 世界日報副刊の合本
北京の世界日報はこの日曜版に、張学良と韓麟春が率いる第3・第4方面聯合軍団の司令部布告を載せた。布告は、一時の措置として城内に駐屯していた部隊が、秩序の回復を受けて他所へ移ると伝えた。司令部は同じ布告で、兵士の乱暴を受けた住民に訴え出るよう求め、加害者の処罰と告発者の氏名の秘匿を約束した。紙面には、同じ日に創刊する正言晩報が北京の他の晩報の倍の紙面をうたった告知と、北京大学教授の劉半農が主編する世界日報副刊の合本の広告も並んだ。
この読み取りは紙面上部の3件を対象とし、軍団司令部の布告、正言晩報の告知、世界日報副刊の合本広告を扱う。布告の書き起こしは途中から正言晩報の告知の冒頭と重なり、判読できない部分を示す記号のところで途切れる。書き起こしの最後の一行は殿本の影印本の予約販売を知らせるが、詳細は判読できない。小さな活字の書籍目録、上下逆さに刷られた薬の広告、電話と鉄道の告知の一部は書き起こしていない。参照した背景資料は、正言晩報の創刊者の名を挙げていない。
翻訳
鎮威第3・第4方面聯合軍団司令部布告
丙寅年九月十一日 日曜日
鎮威第3・第4方面聯合軍団司令部布告
本軍が城内に駐屯しているのは、もともと一時の便宜的な措置にすぎず、軍民ともに不便を感じていることは十分に承知している。目下、京師の秩序は次第に回復し、治安にも懸念がなくなったので、適当な地点を選び、速やかに他所へ移転する。ただ、取り締まりが行き届かず、不逞の軍人が法紀に従わず、町々の住民に害を及ぼすことがないとは言い切れない。被害を受けた者は、本部が先に出した2回の布告に従い、自らの氏名と住所、ならびに事件を起こした将兵の所属部隊と氏名を詳しく記し、直ちに事実に基づいて、直接または書面で司令部に訴え出よ。事実と確認されれば、必ず法に照らして厳罰に処する。ただし、私怨を抱いて誣告することは許さない。告発者が後で累の及ぶことを恐れるならば、本部はその氏名を厳に秘匿し、決して公表しない。ここに重ねて懇切に告示する。商民一同、各自これを周知せよ。以上布告する。
中華民国15年10月 日 軍団長 張学良 韓麟春
正言晩報 定期刊行開始ならびに原稿募集のお知らせ
本紙は10月17日に創刊する。毎日大判1枚を発行し、紙面は北京の既存の各晩報より倍の大きさで、ニュースは早く確かで、材料も豊富である。小売は1部銅貨6枚、月ぎめ大洋4角5分、年間大洋4元5角。本紙は力[?] [?] [?] [?] [?] [?] [?] [?] [?] [?] [?] [?] [?] [?] [?] [?] [?] [?] [?] [?] [?] [?] [?] [?] [?] [?] [?] [?] [?] [?] [?]
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正言晩報の告知
日曜日
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本紙は10月17日に創刊する。毎日大判1枚を発行し、紙面は北京の既存の各晩報より倍の大きさで、ニュースは早く確かで、材料も豊富である。小売は1部銅貨6枚、月ぎめ大洋4角5分、年間大洋4元5角。本紙は紙面の精美を追求し、専任の記者を招いてニュースの取材と各種の文章を担当させるほか、高額の謝礼を惜しまず、各種の重要ニュース、社会ニュース、短編の小品文を募集する。寄稿くださる方は、宣武門外山西街の本社に直接お送りいただきたい。採用して掲載したものには十分な謝礼を贈る。採用しなかった原稿は返却しない。以上、謹んでお知らせする。
世界日報副刊の合本
世界日報
世界日報副刊 合本 第一巻・第二巻・第三巻
世界日報副刊は北京大学教授の劉半農博士が主編を務め、執筆陣にも当代の碩学が多い。合本は1か月分の掲載を集めて1冊に製本したもので、印刷も装丁もきわめて美しく、古新聞をそのまま綴じた粗末な体裁のありふれた合本とはまったく異なる。各冊は約120ページで、作品は150編以上を収める。内容は豊富で、学問と面白さをともに重んじており、青年が授業の合間に一人1冊ずつ手元に置くべきものである。
解説
1926年に奉天軍が北京城内に駐屯した経緯
布告が城外への移転を約束した部隊は、反奉戦争の中で北京に入った軍である。張作霖は1926年1月に攻勢を始め、奉天省と山東省の部隊に、馮玉祥の国民軍を相手に北京と天津へ進攻するよう命じた。郭松齢の張作霖に対する反乱が鎮圧された後、韓麟春は蔣登選が率いていた第4方面軍の司令官となり、張学良の第3方面軍と合同の司令部を組んだ。張学良は張作霖の息子であり、父の老帥に対して少帥と呼ばれた人物である。この合同司令部が、本紙の布告に連名で署名した第3・第4方面聯合軍団にあたる。張学良と韓麟春は北京地域の昌平で国民軍と激しく戦い、韓麟春の指揮の下で8月に国民軍を破った。張作霖の奉天派は1926年半ばまでに北京の北洋政府で主導権を握った。布告が京師の秩序は次第に回復していると述べたのはこの戦況を受けたものだが、その評価は軍自身の言い分である。南方では広州の国民党政府が1926年6月に北伐を始めており、城内から移る奉天軍も戦時の態勢を続けていた。
司令部が自軍兵士への告発を住民に求めた理由
布告が加害兵士の厳罰と告発者の氏名の秘匿を約束したのは、奉天軍の司令部が自軍の規律の乱れをすでに把握していたからである。韓麟春の伝記によれば、昌平での戦闘中に奉天軍の呉俊陞の部隊が周辺地域で略奪を働き、韓麟春と張学良は呉俊陞と関係した将校を解任した。布告自身も同じ趣旨の布告をすでに2回出したと述べており、司令部は10月半ばまでに城内での兵士の乱暴に関する苦情に繰り返し対応していたことになる。本紙の紙面は、告発の件数や処罰された兵士の数を伝えていない。城内からの移転の後も、奉天派の軍事中枢は北京にとどまった。張作霖は1か月後の1926年11月、反奉戦争の勝利を受けて安国軍を組織した。安国軍の首脳は北京の司令部で会議を開いて方針を決め、張学良もその会議にたびたび出席した。
劉半農と世界日報副刊
広告が主編として名を挙げた劉半農は、詩人、雑文家、言語学者として、10年近く北京大学の新文学の人脈に連なっていた人物である。劉半農は1917年夏に蔡元培の招きで北京大学予科の教員となり、雑誌『新青年』の編集委員を務めた。その後、劉半農はまずロンドン大学で学び、翌年の夏からパリ大学に留学し、1925年にフランスの国家文学博士の学位を得て帰国した。劉半農は同じ年の秋に北京大学国文系の教授と研究所国学門の指導教員に就き、『語絲』と『世界日報』に寄稿した。広告が強調した博士と北大教授という肩書は、帰国からまだ1年ほどの新しい経歴だった。劉半農は1926年に詩集『瓦釜集』と『揚鞭集』も出版しており、副刊の合本はこれらの詩集と同じ年に売り出された。
世界日報の発行者と北京の晩報市場
世界日報は、1921年に北京大学で国文学を専攻して卒業した成舎我が築いた新聞事業の一つである。成舎我は卒業後に世界晩報、世界日報、世界画報を創刊した。この紙面の発行者は自ら晩報も手がけており、正言晩報が倍の紙面で上回るとうたった北京の晩報市場に、世界日報の発行者自身も加わっていた。世界日報はこの紙面に、新しい晩報の価格と有償の原稿募集を記した創刊告知を、自社副刊の合本広告と並べて載せた。成舎我は1927年に南京に戻って民生報を創刊し、事業を北京の外にも広げた。
原文
鎭威第三四方面聯合軍團司令部佈告
丙寅年九月十一日星期日鎮威第三四方面聯合軍團司令部佈告照得本軍駐守城內原屬一時權宜之計深知軍民均感不便目下京師秩序逐漸恢復治安無虞自當採擇相當地點即行遷移他處惟誠恐查察未周難免有不逞軍人罔遵法紀擾害閭閻倘有被害之人應遵照本部前兩次佈告計明詳細姓名住址及肇事官兵隊屬姓名即時據情或具函投轅控告一經查實定即依法嚴懲但亦不得挾嫌誣控告發人姓名如恐事後受累本部當爲嚴守秘密決不宣佈用再剴切曉諭凡我商民人等其各週知此佈中華民國十五年十月日軍團長張學良韓麟春正言晚報定期出版徵求稿件啟事本報定期十月十七日出版日出一大張較比北京現有各晚報加大一倍消息靈通材料豐富零售每份銅元六枚每月大洋四角五分全年大洋四元五角本報力 [?] [?] [?] [?] [?] [?] [?] [?] [?] [?] [?] [?] [?] [?] [?] [?] [?] [?] [?] [?] [?] [?] [?] [?] [?] [?] [?] [?] [?] [?] [?] 殿本影印發售預約
正言晚報啟事
星期日正言晚報定期出版徵求稿件啟事本報定期十月十七日出版日出一大張較比北京現有各晚報加大一倍消息靈通材料豐富零售每份銅元六枚每月大洋四角五分全年大洋四元五角本報力求精美除聘定專員擔任新聞探訪及各種文字外并不吝重酬徵求各種重要消息社會新聞及短篇小品文字倘荷惠稿希逕寄宣外山西街本社如經選載酬贈從豐不合鄙不檢還此啟
世界日報副刊合訂本
世界日報世界日報副刊合訂本第一卷第二卷第三卷世界日報副刊, 爲北大教授劉半農博士主編, 担任撰述者, 亦多一時績學之士, 合訂本乃彙集一月所載, 裝爲一冊, 印刷裝潢, 均極精美, 與尋常以舊報裝訂, 形式粗劣者, 完全不同, 每冊約一百二十頁, 作品在一百五十種以上, 內容豐富, 講學與趣味并重, 青年課餘, 所當人手一編也。