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· ベオグラード(現セルビア) · sr-Cyrl

Politika

ポリティカ紙は1926年10月17日付の一面で、ベオグラードの政府危機を伝えた。巻頭記事は、政府筋、とりわけラディッチ派が一昨夜まで、急進党とラディッチ派が折り合って内閣がほぼそのまま残ると見ていたと報じた。ほかの政界筋は、そのような収拾は新たな危機を先送りするだけだと付け加えていたと記事は伝えた。記事は、ウズノヴィッチ首相の辞表が受理されなかったことが、最も権威ある筋も同じ収拾を望んでいる兆しと受け止められていたと伝えた。もう一つの記事は、両党が決裂した争点として急進党の条件を挙げ、どちらの側もセルビア人、クロアチア人、スロヴェニア人のいずれかの種族が迫害されていると訴える扇動をしないという誓約を紹介した。ラディッチ派の一人は、この要求がニキッチ博士の運動のような分派運動をあらかじめ追認するものだと同紙に語った。

この読解は、1926年10月17日付ポリティカ紙の紙面画像から直接書き起こした二つの抜粋を扱う。一つは政府危機を伝える巻頭記事の冒頭で、もう一つは対立点を伝える記事の断片であり、後者は文の途中で始まり文の途中で終わる。OCRの結果は使えなかった。画像の端、とくに中央の段の右側では本文が切れており、小見出しの一部も欠けている。風刺画の説明文は薄くて読み取れない。手元の背景資料は、1926年7月14日の急進党とラディッチ派の合意、ザグレブ駅での事件、ラディッチがチェコスロヴァキアの議員に謝罪した件を扱っていないため、解説はこれらに触れていない。

翻訳

旧内閣が続投へ

政府筋、とりわけラディッチ派は、一昨夜までは政治情勢を楽観的に見ていた。急進党とラディッチ派は結局なんらかの形で折り合いをつけ、多少の人事の入れ替えはあるにせよ、大筋ではすべてが従来どおりになるだろうと信じられていた。ほかの政界筋でさえ、危機がこのように収拾されると予想していた。ただしそれらの筋は、そのような解決は懸案の問題をひとまず片づけるにすぎず、その結果として新たな危機が続かざるをえないだろうと付け加えていた。こうした危機の収拾が最も権威ある筋でも望まれているという結論は、ウズノヴィッチ氏が提出した辞表が受理されず、辞表を受理する前に危機を収めようとする試みと努力が重ねられたことから導き出されていた。

両党は何をめぐって決裂していたか

……双方は、その場合が到来したとしても、セルビア人であれクロアチア人であれスロヴェニア人であれ、一つの種族が迫害されているという口実のもとに、それ以上の扇動は行わないと表明する。交渉当事者の側で説明されたところによれば、コミュニケのこの項目によって、ラディッチ氏は、自身が問題となった場合に、クロアチア人が迫害され脅かされているかのようにクロアチアの民衆を惑わすことを禁じられる。政界筋は、この条件はまことに厳しく、わが国のこれまでの政治生活ではまったく新しいものだと強調した。急進党のこの要求について、ラディッチ派の一人は本紙に対し、これは実のところ、ニキッチ博士の運動のような分派運動の問題をあらかじめ追認することを意味すると語った。2)第二の条件として、急進党は、ラディッチ派が無条件に、かつ……

解説

急進党とラディッチ派が連立を組んだ経緯

この紙面で対立している両党は、わずか1年半前まで激しく争う間柄だった。1925年2月の総選挙で、人民急進党は第一党の地位を保ったものの、315議席のうち123議席しか得られず、単独では過半数に届かなかった。選挙後の交渉の結果、ラディッチは共和主義を放棄して王政を受け入れ、クロアチア農民党は中央政府と君主の統治、そしてヴィドヴダン憲法を公に承認した。パシッチの退陣後、1926年4月8日にニコラ・ウズノヴィッチが首相に就任し、急進党と農民党の連立内閣を率いた。しかしウズノヴィッチは党内の対立に直面し、その在任中には短命の内閣が次々に交代した。ポリティカ紙が伝える10月の危機は、こうした危機の一つである。記事によれば、政府筋は一昨夜まで、両党が少しの人事の入れ替えだけで対立を収めると見込んでいた。

つなぎ直された連立はいつまで続いたか

記事によれば、ウズノヴィッチの辞表が受理されなかったことから、最も権威ある筋も連立の維持を望んでいるという結論が導かれていた。ただし記事は、その筋が誰なのかを名指しせず、理由も説明していない。記事は同時に、こうした収拾は一時的なものにすぎず新たな危機を招くという、ほかの政界筋の見通しも記録していた。その後の経過は、この見通しのとおりになった。農民党は連立内閣の中で実質的な影響力をほとんど持たず、連立は1927年までしか続かなかった。この権力分担の取り決めは、急進党の指導者ニコラ・パシッチが1926年12月10日に死去したあとに打ち切られ、農民党は1927年1月に政府から離脱した。ウズノヴィッチ自身の首相在任も1927年4月17日に終わった。農民党は連立参加によって支持を失い、1927年の総選挙で得票率の3分の1を減らした。旧内閣の続投を伝えた見出しは、長続きする決着ではなく、数か月の延命を表していたことになる。

ニキッチ博士とラディッチ派内部の分派

二つ目の記事に登場するラディッチ派の人物は、急進党の条件がニキッチ博士の運動のような分派運動をあらかじめ追認することになると反発した。ニコラ・ニキッチは党の外部の人物ではない。1925年に権力分担の取り決めが結ばれた際、ニキッチはパヴレ・ラディッチ、ベンヤミン・シュペリナ、イヴァン・クライャチとともに、閣僚ポストを得た農民党員の一人だった。ラディッチの連立参加はクロアチア国内でも党内でも批判を受け、党員の一部は抗議して離党し、クロアチア連邦主義農民党を結成した。ポリティカ紙はニキッチの運動を周知の前例として扱い、その中身を説明していない。この発言からは、扇動を禁じる条項によって自陣営内の離脱運動に対抗する手段が縛られることを、ラディッチ派が恐れていたことがうかがえる。

迫害を訴えることの禁止がなぜ重い条件だったのか

記事が伝える急進党の要求は、ラディッチが自身が問題となった場合に、クロアチア人が迫害され脅かされているとクロアチアの民衆に訴えることを禁じる内容だった。政界筋はこの条件を厳しく、前例のないものだと評した。ラディッチの経歴を見ると、この条項の重さがよくわかる。ラディッチは政治活動を通じて、国家の統合に、のちにはユーゴスラヴィアにおけるセルビア人の覇権に反対してきた。この紙面のわずか1年半前、1925年の総選挙に向けて、当局は政治、警察、軍、準軍事組織による圧力で農民党の活動を抑え込もうとし、党の幹部を逮捕した。迫害を口にしないという誓約は、ラディッチ自身が当局の処分を受ける場合にこそ、ラディッチの運動が支持を広げてきた主張を使えなくするものだった。コミュニケはセルビア人、クロアチア人、スロヴェニア人をそろって種族と呼び、形の上では双方に義務を課していた。しかし記事の説明からは、交渉当事者がこの条項をラディッチに向けたものと理解していたことがわかる。

原文

Остаје стара влада

Владини кругови, нарочито радићевски, посматрали су политичку ситуацију оптимистички све до прексиноћ. Веровало се да ће се радикали и радићевци ипак на неки начин погодити и да ће углавном све остати по старом, можда само с неким личним изменама. Такво решење кризе очекивали су чак и остали политички кругови, који су само додавали да би такво решење значило привремено решење отворених питања и да би као резултат тога морала следовати нова криза. Да се такво решење кризе жели и на најмеродавнијем месту извођен је закључак по томе што оставка коју је поднео г. Узуновић није уважена већ је покушавано и чињени су напори да се криза затвори пре него што се оставка уважи.

НА ЧЕМУ СУ СЕ БИЛИ РАЗИШЛИ.

једна и друга страна изјављују да за тај случај ако дође да неће водити даљу агитацију под изговором да се прогони једно племе било српско било хрватско било словеначко. Према овој тачци комуникеја како се објашњавало у преговарајућим странама г. Радићу се забрањује да заводи хрватске народне масе, ако би он дошао у питање, као да су Хрвати прогоњени и угрожени. Политички кругови истицали су да је овај услов заиста тежак и потпуно нов у нашем политичком животу до сада. Поводом овог захтева радикала један од радићеваца нам је изјавио да ово у ствари значи унапред санкционисати питање дисидентских покрета као што је био покрет г. др. Никића. 2) Као други услов радикали су постављали да радићевци безусловно и

紙面の出典:Source: Narodna biblioteka Srbije / Digitalna NBS

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