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· ベルリン(ドイツ) · ドイツ語

Vossische Zeitung

ベルリンの自由主義紙『フォス新聞』のこの紙面は、ブリアンとシュトレーゼマンのトワリー会談の続報を載せた。パリ発の記事は、地中海周遊から戻る途中のチェンバレン英外相がケ・ドルセーでブリアンと会談し、共同コミュニケが両者の一致を「かつてなく緊密」とうたって、独仏関係をロカルノ条約とトワリーに結びつけたことを伝えた。ロンドン発の記事は、和解の最大の障害は米国にあると報じた。ウォール街はドイツ債発行をめぐる英国の打診に冷淡で、米財務省は、ドイツの大型借款によってフランスが債務協定を無条件で批准せずに済むようになることを嫌ったとされた。編集長ゲオルク・ベルンハルトの署名論説は、和解が演説から実務の段階に移ったと論じた。論説は、ヒンデンブルクの同意とポアンカレの渋々の同意、反対派の陰の動きに触れ、ブリアン外交が「米国への債務奴隷状態」からの解放をもたらすというフランスの期待を描いた。

翻訳

トワリーの継続

「フォス新聞」通信 lst パリ、10月2日発 英国のチェンバレン外相が本日パリに到着した。パリのリヨン駅ではブリアンが自ら出迎え、チェンバレン外相はただちに英国大使館に向かった。ブリアンとの会談は5時半にケ・ドルセーで始まり、7時ごろに終わった。次のコミュニケが発表された。「ブリアンとチェンバレンは本日午後会見し、ケ・ドルセーで協議を行った。その中で両者は、目下懸案となっている国際問題の解決に関し、双方の見地と政治的活動が一致していることを確認し、その内容を明確にした。チェンバレンはジュネーヴでブリアンとシュトレーゼマンの会談について逐一報告を受けていたが、トワリーでの会見が行われる前にジュネーヴを離れねばならず、2週間にわたる地中海周遊旅行で休養の時を過ごしていた。ロンドンに戻って外務省の指揮に復帰する前に、フランス外相と話し合うためパリに立ち寄る必要があると考えたのである。両政治家は対外情勢全般を検討し、とりわけ、ロカルノ条約とトワリーでの会談によってその方向が明確にされた独仏関係について検討した。会談は好ましい雰囲気の中で行われ、平和に奉仕する両相の一致がかつてなく緊密で、心のこもった、信頼に満ちたものであることが確認できた。」フランスのブリアン外相はその後、このコミュニケを補足してフランスの報道陣に対し一連の声明を行い、その中で、自分がチェンバレン……と強調した

シティとウォール街

「フォス新聞」通信 whe ロンドン、10月2日発 当地で得られた情報によれば、独仏の早期和解を妨げている難題の核心は米国にある。英国の有力政治家からワシントンとニューヨークに対し、欧州の「小邦分立」をめぐる米国の空疎なおしゃべりをやめ、その代わりにドイツの起債を容易にすることで、欧州の安定と、その最も根本的な前提である独仏和解を後押しするよう、さまざまな働きかけがなされてきた。英国政治家のこうした努力は、これまでのところ望んだ成果を上げていない。ウォール街は、ドイツ債をどれほどの額まで発行する用意があるかという英国側の打診に対してかなり冷淡な態度をとってきた。しかも、ワシントンの財務省は銀行に対し、大規模なドイツ債の発行は好ましくないと伝えたという。ドイツの借款操作による財政上の成果が、仏米債務協定を無条件で批准せざるをえないという窮地から、フランスを長期にわたって解放しかねないからだというのである。[?]

フランスの署名

ゲオルク・ベルンハルト 独仏和解への取り組みは、式典での演説の段階から実務の段階へと移った。今後は官僚の手が細部の精緻な作業を引き継がねばならず、その作業こそが最終的に、ジュネーヴとトワリーの構想を実行に移すための土台となるはずである。和解事業に反対する者たちが、両国ともに、いずれにせよ今や双方で行われている冷静な検討をあおっているのは当然である。この事業をもはや公然と妨げることはできない。ドイツとフランスの権威、すなわちヒンデンブルク大統領とポアンカレ首相は、ブリアンとシュトレーゼマンが大筋で合意したことに同意を表明した。たしかにポアンカレは、例によっていつもの流儀で、議論を法律上の準備書面のやり取りと同一視し、最後の一言を自分が握ることを忘れず、避けようのないものに祝福を与える際の甘酸っぱい表情をはっきりと見せずにはいられなかった。しかし、そのため和解の反対者たちにとって新しい政策への公然たる抵抗は得策とは思えないにしても、陰でできることは彼らはやっている。大衆がすでにドイツと折り合うという考えに深く染まっているフランスでは、ブリアン外交の成果が米国への債務奴隷状態からの解放をもたらすとの信念が支配している。というのも、フランスでは、戦時に共同で負った債務の返済と利払いとして米国が要求する金額にフランスの財政が依存していることが、一般に債務奴隷状態と受け止められているからである。社会党でさえフランス下院で仏米債務協定への署名に同意することを拒んだのも、根底にはこの理由がある。* いまや早くも、この債務協定の署名がいまだに……ことへの一定の失望が目立ち始めている

解説

ロカルノ後、チェンバレンのパリ立ち寄りが持った意味

パリ発記事が引くコミュニケは、独仏関係を「ロカルノ条約とトワリーでの会談」に明確に結びつけている。この組み合わせを見れば、独仏二国間の構想を英外相が支持する姿を示そうとした理由がわかる。ロカルノの主条約で英国は、独仏・独白国境の不可侵を保障する5か国の一つであり、そのため西欧の戦後秩序のいかなる変更にも直接の利害を持っていた。諸条約はドイツの国際連盟加盟を条件に1926年9月14日に発効し、ドイツは9月10日に理事会の常任議席を得ていた。ブリアンとシュトレーゼマンのトワリー会談は同じ月に行われた。チェンバレン自身の狙いも独仏接近と合致していた。彼は、仏独関係が改善すればフランスが東方の「防疫線」を徐々に手放すと期待していたのである。こうした背景に照らすと、両相の一致が「かつてなく緊密で、心のこもった、信頼に満ちた」ものだとの強調は、ロカルノの保障国である英国がトワリー会談に反対していないことを示すものと理解できる。

メロン=ベランジェ協定が米国の融資とトワリーをどう絡み合わせたか

ロンドン発記事は、出所を明かさない情報として、米財務省がドイツの大型起債を好まなかったと伝えている。その資金によって、フランスが「仏米債務協定を無条件で」批准しなくて済むようになりかねない、というのが理由だった。この協定とは、1926年4月29日にフランス議会の批准を条件として調印されたメロン=ベランジェ協定で、フランスの対米戦時債務の額と返済条件を定めていた。フランスは英国との協定と同様に、支払いをドイツの賠償と連動させる条項を求めたが、米国はそのような連動を一切認めなかった。米国はすでに資本市場を圧力の手段として使っていた。債務問題が未解決の間、フランスへの民間・公的融資をひそかに阻んでいたのである。財務省がウォール街にドイツ債について指示したという話は特派員の出所不明の情報に基づくものだが、フランスが債務条件を受け入れるまで信用供与を控えるという、記録に残るこの米国の手法とは符合する。米国の投資家が資金を出すドイツの起債がフランス財政を楽にすれば、フランスには批准する理由が薄れる。記事が描いたのはまさにこのジレンマだった。

フランスはなぜ「債務奴隷状態」と語り、批准にどれほどかかったか

フランス世論が対米債務を「債務奴隷状態」とみなし、社会党でさえ署名への同意を拒んだというベルンハルトの指摘は、記録によく残る反感を反映している。多くのフランス人は、戦争で被った損失を考えれば米国は債権を放棄すべきだと考えていた。パリでは約2万人の退役軍人がメロン=ベランジェ協定に反対してデモを行い、歴代政府は批准を先送りした。ブリアンの対独政策がこの重荷からフランスを解放するというベルンハルトが描いた期待は、1926年に想定された形では実現しなかった。下院が協定を批准したのは1929年7月21日になってからで、徹夜の審議の末、300対292の僅差だった。ベルンハルトがトワリーへの渋々の同意を、最後の一言にこだわる法律家流と皮肉ったポアンカレこそが、1929年に全力を挙げて議会での批准を実現させた人物だった。そのころ賠償問題はすでにヤング案の交渉へと移っていた。

ゲオルク・ベルンハルトとは誰か、トワリーはどうなったか

この署名論説は『フォス新聞』の編集長自身によるものだった。ゲオルク・ベルンハルトは銀行実務の修業を経た経済ジャーナリストで、1920年から1930年までウルシュタイン社傘下の同紙の単独編集長を務めた。彼は同紙を左派自由主義の新聞に育て、ヴェルサイユ条約にもかかわらずフランスとの和解を強く主張した。論説の手法はこの経歴から説明できる。論説は独仏接近を既定の路線として扱い、陰の妨害を両国の「和解事業に反対する者たち」のせいにし、債務・署名・借款という財政の観点から争点を読み解いている。ベルンハルトは後に1928年から1930年までドイツ民主党の国会議員を務めた。この事業は「もはや公然と妨げることはできない」という彼の楽観は時期尚早だった。トワリーは一般に、ブリアンもシュトレーゼマンも提案された解決策について国内世論を味方につけられなかったため、逸した好機として記憶されている。

原文

Die Fortführung von Thoiry

Nachrichtendienst der " Vossischen Zeitung " lst Paris, 2. Oktober Der englische Außenminister Chamberlain ist heute in Paris eingetroffen. Er wurde am Lyoner Bahnhof in Paris von Briand persönlich empfangen und begab sich sofort in die englische Botschaft. Die Aussprache zwischen ihm und Briand hat um ½6 Uhr am Quai d'Orsay begonnen und war gegen 7 Uhr beendet. Folgendes Communiqué wurde ausgegeben: " Briand und Chamberlain trafen sich heute nachmittag und hatten am Quai d'Orsay eine Besprechung, in deren Verlauf sie die Uebereinstimmung ihres Gesichtspunktes und ihrer politischen Tätigkeit hinsichtlich der Lösung der augenblicklich schwebenden internationalen Probleme konstatierten und präzisierten. Chamberlain, der in Genf über die Unterhaltungen Briands mit Stresemann auf dem laufenden gehalten worden war, hatte Genf verlassen müssen, bevor die Zusammenkunft in Thoiry stattgefunden hatte, und hatte sich eine Zeit der Ruhe während einer vierzehntägigen Rundfahrt durch das Mittelmeer gegönnt. Bevor er nach London zurückkehrte und die Leitung des Foreign Office wieder übernahm, hielt er es für notwendig, in Paris Station zu machen, um sich mit dem französischen Außenminister zu unterhalten. Die beiden Staatsmänner haben die gesamte auswärtige Lage geprüft und vor allen Dingen die deutsch-französischen Beziehungen, deren Richtung die Verträge von Locarno und die Unterhaltungen von Thoiry präzisiert haben. Die Unterhaltungen fanden in einer günstigen Atmosphäre statt, und es konnte festgestellt werden, daß die Uebereinstimmung der beiden Minister im Dienste des Friedens enger, herzlicher und vertrauensvoller als jemals war. " Der französische Außenminister Briand gab dann in Ergänzung dieses Communiqués der französischen Presse gegenüber eine Reihe von Erklärungen ab, in denen er betonte, daß er Chamberlain

City und Wallstreet

Nachrichtendienst der " Vossischen Zeitung " whe London, 2. Oktober Der Kernpunkt der Schwierigkeiten, die einer baldigen deutschfranzösischen Verständigung entgegenstehen, liegt nach hier vorliegenden Informationen in den Vereinigten Staaten. Verschiedene Appelle sind von maßgebenden englischen Politikern nach Washington und New York gerichtet worden, das leere amerikanische Geschwätz über die " kantonale Zerrissenheit Europas " einzustellen und statt dessen lieber durch Erleichterung deutscher Emissionen eine Konsolidierung Europas und deren grundlegendste Voraussetzung, die deutsch-französische Verständigung, zu fördern. Diese Bemühungen englischer Politiker haben bisher nicht den gewünschten Erfolg gehabt. Die Wallstreet hat sich gegenüber englischen Fühlern, bis zu welcher Höhe sie bereit sein würde, deutsche Bonds zu emittieren, recht kühl verhalten, und zwar soll das Schatzamt in Washington die Banken dahin informiert haben, daß es eine deutsche Emission größeren Stiles nicht gern sehen würde, weil das finanzielle Ergebnis einer deutschen Anleiheoperation Frankreich auf lange Zeit aus der Zwangslage befreien könnte, vorbehaltlos das französischamerikanische Schuldenabkommen ratifizieren zu müssen. [?]

Die französische Unterschrift

Von Georg Bernhard Die Arbeit für die deutsch-französische Verständigung ist aus dem Stadium der Festreden in das Stadium der praktischen Arbeit gekommen. Bürokratenhände werden jetzt die Filigranarbeit an den Einzelheiten übernehmen müssen, die schließlich den Unterbau für die Ueberführung der Gedanken von Genf und Thoiry in die Praxis bilden soll. Es ist selbstverständlich, daß von den Gegnern des Verständigungswerkes hüben und drüben die nüchternen Erwägungen genährt werden, die man sowieso jetzt auf beiden Seiten anstellt. Offen stören kann man dieses Werk nicht mehr. Die Autoritäten in Deutschland und in Frankreich, der Reichspräsident Hindenburg und der Ministerpräsident Poincaré, haben sich einverstanden erklärt mit dem, was Briand und Stresemann in den Grundzügen vereinbarten. Poincaré hat es zwar nicht unterlassen können, seiner alten Gewohnheit gemäß, in der Diskussion, die er, wie immer, dem Wechsel juristischer Schriftsätze gleichstellte, das letzte Wort zu behalten und deutlich die süß-saure Miene zu zeigen, mit der er seinen Segen zu dem gibt, was nun einmal nicht zu vermeiden ist. Aber wenn deshalb auch der offene Widerstand gegen eine neue Politik den Gegnern der Verständigung nicht ratsam erscheint, was sie im geheimen tun können, tun sie. In Frankreich wo die Massen bereits von dem Gedanken des Sich-Vertragens mit Deutschland tief erfüllt sind, herrscht der Glaube, daß die Erfolge der Briandschen Politik die Befreiung von der amerikanischen Schuldknechtschaft bringen werden. Denn als Schuldknechtschaft faßt man dort allgemein die Abhängigkeit der französischen Finanzen von der Summe auf, die die Vereinigten Staaten als Rückzahlung und Verzinsung der im Krieg gemeinsam aufgenommenen Schulden fordern. Das ist auch der innere Grund, aus dem selbst die sozialistische Partei in der französischen Kammer sich geweigert hat, die Zustimmung zur Unterzeichnung des französisch-amerikanischen Schuldenabkommens zu geben. * Nun machen sich bereits gewisse Enttäuschungen darüber bemerkbar, daß noch immer die Unterzeichnung dieses Schul -

紙面の出典:Source: Staatsbibliothek zu Berlin / zefys

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