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· Italy · イタリア語

Il Piccolo

1926年10月3日付のイル・ピッコロ紙は、ロカルノ条約後の外交におけるイタリアの立場を論じる社説で紙面を始めた。社説は、論じた「最新の出来事」がチュワリーでの仏独会談への回答だという見方を否定し、地中海問題と結びつけた。そのうえで植民地委任統治などをめぐるイタリアの条約上の権利を強調し、ロンドンとローマの見解が一致したことを歓迎した。ニュース面は、1926年の市町村法にならって県行政を改める内務大臣の法案を報じた。各県を政府任命の委員会に運営させ、法的に承認された組合団体の代表が主要な部分を占める諮問会議を置く内容だった。ベルリン発の記事は、帝政時代の黒白赤の旗で飾られたケルンの会場で、シュトレーゼマンがドイツ人民党大会を開会した様子を伝えた。演説で彼は「愚かな国家主義者」を皮肉り、ロカルノ、ジュネーヴからチュワリーへと続いた路線を擁護した。

翻訳

新しい歴史の道の上で

この最新の出来事は、一部の人々にはそう見えたようだが、チュワリーでの仏独会談に対する直接的な回答でも間接的な回答でもない。しかし実際には、ロカルノとジュネーヴ以後の欧州全般の政策と関係しているうえに、地中海の問題とも関係している。この問題には、イタリアとイギリスが直接かつ広く利害を持っている。いずれにせよ、これはイタリアの政策における確固たる拠り所の一つである。ベルリンとパリの間の協調が今後どのように発展しようとも、イタリアの政策は、自国の最も死活的な利益と、条約から生じる権利との対応を再確認し、改めて確認する。そうした権利は、植民地委任統治の問題など特定の問題では、優越的な性格を持つ。そしてイタリアは少なからぬ満足をもって、イギリスとの間に見解の一致を見いだし、大英帝国の政策がローマの政策と同じ次元に立っていることを確認した。忍耐強い[?]がすでに過ぎ去り、終わった今、[?]

県議会の改革

内務大臣は、国民経済大臣と協議して準備した県・市町村制度改革の法案について、その内容を説明した。周知のとおり、1926年2月4日の第237号法と1926年6月25日の第1262号法によって、王国のすべてのコムーネ(市町村)は、国家のポデスタに由来する機関に委ねられた。その傍らには、協同体組織の代表者で構成される諮問会議(コンスルタ)が置かれている。こうして、諸政党の、さらに悪いことには諸派閥の見せかけの利益に代わって、勤労階級と、これらの組織に結集したあらゆる社会活動の現実の利益が据えられた。コムーネにポデスタ職を設けた法律の基本方針は、論理的に見て、県にも適用されるべきものであった。県は自治団体として存続しなければならず、その職務権限は、市町村の枠を超える具体的な利益の現実に対応するものであり、それ自体さらに発展しうる。それでもなお県は、市町村行政のための法規として具体化された諸原則の論理的統一を損なうことなく、またコムーネと県との間に時代錯誤な不均衡を生むことなく、現行の制度を維持することはできなかった。両者の目的は、特定の経済活動や社会活動に関する範囲と権限では異なるものの、実質的には同じ目標を持っている。このため、県の制度をすでに実施されているコムーネの制度と調和させる必要が生じた。そこで各県では、県の運営に関する権限の全体を、政府が任命する委員会に委ねることが定められた。この委員会を補佐する諮問会議では、法的に承認された組合団体の代表が主要な部分を占めることになっていた。

経済・行政の単一諮問会議

しかし、県の諮問会議における協同体的代表を通じて、[?]

人民党大会でのシュトレーゼマン演説

ベルリン発、2日――「人民党」の大会が本日ケルンで、党首シュトレーゼマンの演説によって開会した。演説は主に外交政策を扱った。代議員で埋め尽くされた会場は黒・白・赤の旗、すなわち帝政ドイツの旧国旗で飾られていた。共和国の標章は一つも見当たらなかった。シュトレーゼマン自身も、党の他の有力者たちも、共和国の色を襟のボタン穴に付けるのは適切でないと考えた。しかし君主制の色も付けたくはなかったため、上着の襟には何も付けていなかった。シュトレーゼマンは痛烈な皮肉で国家主義者たちを攻撃した。「ドイツの救いを、実力行使が成功するという極めて仮定的な見込みに委ねる、あの愚かな国家主義者たち」。シュトレーゼマンは、最終的にロカルノ、ジュネーヴ、そしてチュワリーへと至ったドイツの政策の全体を振り返った。これらの段階の成果は、ルール地方とラインラント第一地帯からの撤兵であり、ライヒが他の列強と対等な立場で国際連盟に加盟したことであった。シュトレーゼマンは国際連盟に信頼を寄せているが、それは連盟が自らの……を実際に実行に移せるからというよりは

解説

県改革が手本としたポデスタ制度

この県改革法案は、その前に行われた市町村制度の全面改革を踏まえなければ理解できない。記事はそれを1926年2月と6月の法律として挙げている。1926年2月、政権は選挙で選ばれる市町村議会と市町村長を廃止した。そしてローマを除くすべてのコムーネを、上から任命されるポデスタの管轄下に置いた。ポデスタは行政権と立法権をあわせ持つ権威主義的な首長で、任期は5年、更新も即時の罷免も可能だった。大規模なコムーネには諮問機関の市町村諮問会議も置かれたが、その委員は選挙ではなく、県知事、大都市では内務省が指名した。記事は、協同体の代表からなる諮問会議が政党の「見せかけの利益」に代わって勤労階級の「現実の利益」を据えたと述べるが、これは政府自身の正当化の論理を伝えたものだった。一方、記事が描く新しい県の機関も構造は同じで、政府任命の委員会と、国家が公認した組合団体から選ばれる諮問委員で構成されていた。任命制の執行部という仕組みを、行政の一段上にそのまま広げるものだった。ポデスタ制度は1945年まで続き、民主制の回復とともに廃止された。

1926年までにロカルノとジュネーヴがドイツにもたらしたもの

報道によれば、シュトレーゼマンはケルンの演説で、ロカルノ、ジュネーヴ、チュワリーを一連の段階として示した。その成果として挙げたのが、ルール地方とラインラント第一地帯からの撤兵と、ドイツの国際連盟への対等な加盟だった。ルールと連盟に関する主張は、実際の経過と一致している。シュトレーゼマンは1923年から外相を務めており、外相としての最初の顕著な成果は1924年のドーズ案だった。これによってドイツの賠償負担の総額が減らされ、ルール占領が終わった。1926年9月には、ロカルノ交渉で予定されていたとおり、ドイツが連盟理事会の常任理事国として国際連盟に加盟した。記事のいう「他の列強と対等な立場」はこのことを指す。仏独間のこの外交は国際的にも評価され、シュトレーゼマンとアリスティード・ブリアンは、ロカルノでの功績により、のちに1926年のノーベル平和賞を共同受賞することになる。同じ紙面のイタリアの社説がチュワリーに触れながら反応していたのは、まさにこのベルリンとパリの協調だった。

会場の帝政旗と、何も付けない党首の襟

特派員が黒・白・赤の旗とシュトレーゼマンの何も付けない上着に注目したのは、党内に実際にあった緊張を反映している。ドイツ人民党(DVP)は国民自由党の後継政党で、立憲君主制に共感し、帝政期の黒・白・赤を党の色としていた。シュトレーゼマン自身も当初は共和国を拒んでいた。1920年代半ばには「理性の共和主義者」と見なされていた。共和国を最もましな選択肢として受け入れながら、心の中では君主制に忠実であり続けた人物という意味である。共和国の色も君主制の色も付けない彼の襟は、この評価によく合っている。党内の保守的な党員たちは彼を本当には信頼せず、彼が共和国を支持する姿勢を強めるにつれて、その傾向はさらに強まった。「愚かな国家主義者」への皮肉は、彼が1923年10月、首相としてすでに示していた愛国心の考え方と響き合う。彼はそのとき、泥にはまった荷車を引き出すのに手を貸す者こそ「国民的」と呼ぶ、と述べていた。大会の開催地にも党とのつながりがあった。ケルンの『ケルン新聞』は、DVPを支持した数少ない新聞の一つだった。

イギリス、イタリアとロカルノ諸国

社説が英伊の「見解の一致」を歓迎したのは、ロカルノ体制の中でイタリアが占める位置を反映している。オースティン・チェンバレンは1924年から1929年までイギリス外相を務め、スタンリー・ボールドウィン首相からほぼ自由に任されていた。1925年10月のロカルノでは、チェンバレン、ブリアン、シュトレーゼマンが、ベルギーとイタリアの代表とともに、紛争を戦争ではなく仲裁で解決するという相互協定に署名した。つまりイタリアはロカルノ諸国の一員だった。しかしその中核にある仏独の協調は、ローマ抜きで進んでおり、チュワリーの会談はその最新の表れだった。チェンバレンはムッソリーニを「取引のできる男」と評したとも記録されている。この姿勢は、英伊の政策が「同じ次元」に立つという社説の主張に一定の裏付けを与える。社説はこの英伊の一致を、植民地委任統治などをめぐるイタリアの条約上の権利の強調と組み合わせた。そうすることで、仏独の協調がさらに進むことへの対抗軸として描いた。

原文

Su le vie della nuova storia

Quest'ultimo avvenimento, pur non essendo, come a taluni è parso, una risposta, nè diretta nè indiretta, al convegno franco-germanico di Thoiry, è infatti in rapporto, oltre che con la politica generale europea dopo Locarno e Ginevra, col problema del Mediterraneo, in cui Italia e Inghilterra sono direttamente e ampiamente interessate. In ogni caso, esso è uno dei punti fermi nella politica italiana, che riafferma e riconferma, per ogni ulteriore sviluppo dell'intesa tra Berlino e Parigi, la corrispondenza dei suoi più vitali interessi e dei diritti che le derivano dai trattati e che sono, nei riguardi di talune questioni - come, ad esempio, quella dei mandati coloniali - di natura preminente. E non è senza compiacimento che l'Italia abbia riscontrato nell'Inghilterra identità di vedute e che la politica dell'Impero Britannico si trovi sul medesimo piano della politica di Roma. Trascorsa oramai e conclusa la paziente, [?]

La riforma dei Consigli provinciali

La riforma dei Consigli provinciali Il ministro dell'interno ha illustrato il contenuto del disegno di legge da lui predisposto di concerto con il ministro dell'Economia Nazionale per la riforma dell'ordinamento provinciale-comunale. E ' noto che con le leggi 4 febbraio 1926, N. 237 e 25 giugno 1926 N. 1262, tutti i Comuni del Regno sono stati affidati a organi che ripetono la loro origine dai podestà dello Stato, con a fianco una Consulta, composta di rappresentanti delle organizzazioni corporative, sostituendosi così agli interessi fittizi dei partiti, e peggio, delle fazioni, quelli reali delle classi lavoratrici e di tutte le attività sociali in dette organizzazioni raccolte. I criteri cui si informano le leggi institutive della magistratura podestarile per i Comuni, dovevano logicamente essere seguiti anche nei riguardi della Provincia, la quale, pur dovendo permanere come ente autarchico, le cui attribuzioni funzionali, rispondenti a una realtà di interessi concreti esorbitanti la sfera della vita comunale, sono capaci in se stessi di ulteriori sviluppi, non avrebbe potuto conservare l'ordinamento vigente, senza che fosse ferita l'unità logica dei principii tradotti in precetti legislativi per le amministrazioni comunali, e senza creare un'anacronistica disparità fra l'Ente Comune e l'Ente Provincia, le cui finalità, pur differenti nei limiti e nelle attribuzioni circa determinate attività economiche e sociali, hanno sostanzialmente lo stesso obiettivo. In conseguenza si è reso necessario armonizzare l'ordinamento delle Province con quello già attuato dei Comuni, stabilendosi che per ogni Provincia la somma dei poteri per la gestione della Provincia sia affidata a una Commissione nominata dal Governo e assistita da una Consulta, nella quale dovessero aver parte prevalente le rappresentanze delle Associazioni sindacali, legalmente riconosciute. Consulta economica-amministrativa unica Ma attraverso la rappresentanza corporativa nella Consulta provinciale, [?]

Un discorso di Stresemann al congresso del Volkspartei

Un discorso di Stresemann al congresso del Volkspartei BERLINO, 2 Il Congresso del «Volksparti» è stato oggi aperto a Colonia, da un discorso del suo leader Stresemann. Esso si è principalmente occupato della politica estera. La sala, gremita di congressisti, era adorna di bandiere nero, bianco, rosse, cioè della vecchia bandiera della Germania imperiale. Non si vedeva nemmeno un emblema della Repubblica. Lo stesso Stresemann, e con lui altre personalità del partito, non hanno ritenuto opportuno mettersi all'occhiello i colori della Repubblica, ma, non volendo neppure quelli della monarchia, hanno lasciata disadorna la propria giacca. Stresemann ha attaccato i nazionalisti con tagliente ironia: «Quelli stolti nazionalisti che fanno risiedere la salute della Germania nella molto ipotetica riuscita di atti di forza». Stresemann ha riepilogato tutta la politica della Germania, che condusse, infine, a Locarno, a Ginevra e a Thoiry. I risultati di queste tappe furono lo sgombero della Ruhr e della prima zona renana, e l'entrata del Reich nella Lega delle Nazioni a piede pari con le altre grandi potenze. Stresemann nutre fiducia nella Lega delle Nazioni, non tanto per la sua possibilità di pratica attuazione dei suoi

紙面の出典:Source: Internet Archive

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