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· ベオグラード(現セルビア) · sr-Cyrl

Politika

ポリティカ紙は、ベオグラードを訪れたチェコスロバキアの議員団を迎え、彼らの議会を紹介する解説記事を載せた。抜粋部分は、議長と握手した後にこれ見よがしに手を拭いたドイツ系女性議員の逸話から始まっていた。続いて記事は、長く憲法に異を唱えながら最近は態度を和らげつつあるスロバキア人に触れた。筆者は、民族統一と新たな民主的基盤づくりという似た課題を負った自国民こそ、この客人を最もよく理解できると論じた。さらに1920年2月29日制定の憲法の骨格として、定数300と150の二院制、被選挙年齢30歳・45歳、兼職禁止、女性参政権と8人の女性議員を紹介した。

この版は、チェコスロバキア議員団の訪問を扱った記事から選んだ抜粋一つを対象とする。抜粋は文の途中から始まり、判読が不確かな箇所([?])で終わる。記事の冒頭と残りの部分、風刺漫画の台詞、紙面のほかの記事は含まない。記事にある女性議員8人という数字は独自に確認していない。

翻訳

チェコスロバキアの議員団、ベオグラードに

……直近の選挙資格審査の際には、あるドイツ系の女性議員が、議長と握手したあと、これ見よがしにハンカチを取り出して手を拭いた。その厄介事に加えて、スロバキア人の問題がある。彼らは長らく憲法に異議を唱えてきたが、ごく最近になってようやく前向きな方向へと立場を変えつつある。このような客人を誰よりもよく理解できるのは、世界広しといえども我々をおいてほかにあるだろうか。そして、あの議会が抱えるその他の問題も、ほかならぬ我々こそが最もよく理解するだろう。あの議会もまた、民族の統一と、国民生活の新たな民主的基盤の構築という、我々と似た課題を負ってきたからである。

チェコスロバキア共和国の憲法は我々の憲法よりも早く、1920年2月29日に制定された。それによれば、議会は二院制をとり、代議院と元老院から成る。代議院の定数は300、元老院は150である。代議院には30歳を超える市民が、元老院には45歳を超える市民が選ばれる。同一人物が代議院議員と元老院議員を兼ねることはできない。チェコスロバキアでは女性にも選挙権があり、そのため議会には8人の女性議員がいる。[?]

解説

1920年憲法についての記事の説明はどこまで正確だったか

記事が挙げた憲法上の事実は、チェコスロバキア憲法の内容とよく一致する。同憲法は確かに1920年2月29日に採択された。これはセルブ・クロアート・スロヴェーン王国が1921年6月28日にヴィドヴダン憲法を承認するより約1年4か月早く、「我々の憲法より早い」という記述は正しい。国民議会は二院制で、代議院は任期6年の300人、元老院は任期8年の150人から成った。ポリティカ紙が挙げた30歳と45歳は被選挙年齢であって、選挙権年齢ではない。選挙権は代議院が21歳以上、元老院が26歳以上の男女すべての市民に与えられた。したがって「30歳を超える市民が選ばれる」という記事の表現は正確だが、読者がこれを選挙権年齢と取り違えるおそれはあった。

なぜ同紙は、スロバキア問題を「我々こそ最もよく理解できる」と考えたのか

記事が「長らく憲法に異議を唱えてきた」と書いたスロバキア人とは、主にアンドレイ・フリンカ率いるスロバキア人民党の支持者を指す。同党は中央集権と、スロバキア人をチェコ人と別個の民族とは見なさない「チェコスロバキア主義」に反対し、その憲法上の綱領は、チェコスロバキア内でのスロバキアの自治を約束したピッツバーグ協定に基づいていた。1920年憲法と同じ日に採択された憲法的法律は、チェコ語とスロバキア語を一つの「チェコスロバキア語」の二つの公用方言と位置づけた。これにはベオグラード側にも対応するものがあった。ヴィドヴダン憲法は王国の言語を「セルビア・クロアチア・スロヴェニア語」と定め、複数の部族から成る単一民族という理論に立って単一国家の制度を敷いていたのである。フリンカの党はスロバキアで最大の政党となり、1925年の選挙では約34%の票を得ていた。スロバキア人が「ごく最近になって」立場を変えつつあるという記事の見方は、数か月後に裏づけられた。1927年1月15日、同党はチェコスロバキアの連立政権に加わったのである。抜粋では明示されていないが、この比較には国内の対応例もあった。スチェパン・ラディッチのクロアチア農民党はヴィドヴダン憲法の正統性を認めていなかったが、1925年の選挙後、ニコラ・パシッチから入閣を持ちかけられ、憲法を承認した。ベオグラードの読者は、これと似た和解を少し前に自国で目にしていたわけである。

女性議員への言及は、ユーゴスラビアの読者にとって何を意味したか

チェコスロバキアでは女性が投票し、議会に議席を持っているという記事末尾の指摘は、ベオグラードでは際立った対比として読まれたはずだ。1920年のチェコスロバキア憲法は男女両性の市民に選挙権を認めていた。これに対しヴィドヴダン憲法は、女性に選挙権を与えなかった。女性参政権の問題は将来の立法で扱うと定めたものの、その法律は王国が続いたあいだ制定されなかった。抜粋部分で記事は事実を伝えるだけで、自国での改革を主張してはいない。それでも、女性が投票できない王国の読者にとって、この対比は見逃しようがなかった。

分裂したチェコスロバキア議会は、実際にはどのように統治していたか

記事が挙げた民族問題のほかにも、訪問団の出身議会は、比例代表制が生んだ極端な政党の分立を抱えていた。第一共和国の代議院には通常10を大きく超える会派が並び、単独で過半数に迫る政党はなかった。その実際的な解決策が「ピェトカ(五人組)」である。これは1920年9月に作られた、主要連立与党の党首による非公式で議会外の協議機関だった。そのメンバーは「合意することに合意した」という原則で動き、大きな対立を人目に触れない場で処理した。厳しい党規律のおかげで、彼らは自党の議員を統制し、それを通じて内閣をも動かすことができた。ピェトカは違憲で非民主的だとの批判を受けたが、第一共和国の安定は少なくとも部分的にはその働きによるものとされる。ただし1920年代が進んで共和国が安定するにつれ、初期のピェトカの重要性は薄れ、その役割は内閣に吸収されていった。

原文

ЧЕХОСЛОВАЧКИ ПАРЛАМЕНТАРЦИ У БЕОГРАДУ

следњој верификацији избора једна немачка жена-посланик, давши руку председнику парламента демонстратив но извадила марамицу и руку обрисала. Сем те невоље ту су Словаци, који су дуго оспоравали устав, и тек у најновије доба мењају своје становиште у позитивном духу. Ко други у свету, него ми можемо такве госте баш и најбоље да разумемо. А разумећемо баш ми и најбоље остале проблеме тога парламента јер је имао сличне задатке око унификације на рода и изградње нових демократских основа народноме животу. Устав Чехословачке Републике датира раније него наш, од 29 фебруара 1920 г. Према њему парламенат је изграђен по систему два дома: скуп штина и сенат. Скупштина броји 300 сенат 150 чланова. У скупштину се бирају грађани изнад 30 година, а у сенат изнад 45 година. Исти посланик не може да буде и посланик и сенатор. Право бирачко имају у Чехословачкој и жене, те има у парламенту 8 посланика жена. [?]

紙面の出典:Source: Narodna biblioteka Srbije / Digitalna NBS

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