L’Écho d’Alger
- シュトレーゼマン氏、仏独協調について大演説
- ブリアン氏、昨日ケ・ドルセーでオースティン・チェンバレン氏と会見
- エリオ氏とポアンカレ内閣
1926年10月3日付のレコー・ダルジェ紙は、一面の主要記事で仏独間の新しい外交を伝えた。ドイツのシュトレーゼマン外相は、仏独協調こそ欧州平和化の「中心点」だと述べた。自分は永遠の楽観主義者、人を信じやすい夢想家と呼ばれるだろうと予期しつつ、ドイツの再起は平和の上にしか築けないと訴えた。パリからは、ブリアン仏外相とチェンバレン英外相の会見に関する外務省の公式声明を載せた。声明によれば、両外相はロカルノとトワリーで枠組みが示された仏独関係を検討し、平和に奉仕する両者の協調がかつてないほど緊密かつ友好的だと確認した。紙面には、ポアンカレの「財政防衛政府」への入閣を擁護するエリオ氏のインタビューも並んだ。エリオ氏は祖国を第一とするジャコバンの伝統を理由に挙げ、首相時代で最も心地よかったのはジュネーヴでの演説だったと振り返った。
翻訳
シュトレーゼマン氏、仏独協調について大演説
[?] フランスとドイツの協調について、シュトレーゼマン氏はさらに次のように述べた。「私は、ここにもフランスにも存在するあらゆる障害、あらゆる心理的な困難を承知している。しかし、仏独協調があらゆる欧州平和化の中心点であり、今後もそうあり続けることに異論を唱えられる者はいないと思う。これは戦術の問題ではなく、将来の発展にかかわる本質的な問題であり、今日、誰も言うことはできない [?] 諸国民がその政治家たちの願いと意志を持っていると。
「私はフランス外相の誠実な協調の意志を信じている。すでに私は、永遠の楽観主義者、人を信じやすい夢想家と呼ばれている自分の姿が目に浮かぶ。積極的な理由を単に信頼するのは愚かなことだが、政治は不信のみによって決められなければならないと考えるのも、まったくの誤りである。
「『誰も信用するな、そして皆を欺け』という古い政策は、結局のところ過去にさほど実りをもたらさなかった。私にとって確かなことは、新しいドイツとその再起は平和の上にしか築けないということだ。それこそ、われわれが力を取り戻すことのできる唯一の基盤である。
「だが、仏独協調が先行し、それに基づいていないとしたら、この平和はどうして可能だろうか」[?]
ブリアン氏、昨日ケ・ドルセーでオースティン・チェンバレン氏と会見
[?] パリ、10月2日発――ブリアン氏とチェンバレン氏の会見終了後、外務省は次の声明を発表した。ブリアン、チェンバレン両氏は本日午後に会い、ケ・ドルセーで会見した。その席で両氏は、現在提起されている国際問題の解決に向けた見解と行動の一致を確認し、明確にした。
チェンバレン氏は、ジュネーヴで、フランスの同僚がドイツ外相と会談する意向であることを知らされていたが、トワリー会談の前にスイスを離れなければならず、地中海での15日間の船旅で休養していた。ロンドンに戻って外務省との連絡を再開する前に、同氏はフランス外相と会談するため、あえてパリに立ち寄った。
両政治家は対外情勢、とりわけ仏独関係を検討した。この関係の枠組みは、ロカルノ協定とトワリー会談によって明確にされている。会談は個人的な関係がもたらす好ましい雰囲気の中で続けられ、両外相は、平和に奉仕する両者の協調が依然としてかつてないほど緊密かつ友好的であることを確認できた。
ブリアン氏の新聞向け談話
パリ、10月2日発―― [?]
エリオ氏とポアンカレ内閣
[?] ――「あなたがポアンカレ内閣に入ったことを激しく非難する人々がいる今、あなたがどのような考えに従って同内閣に協力したのか、お聞かせ願えますか」。これが、パリ・ミディ紙のジョゼフ・ベネクス氏がエリオ氏に投げかけた質問である。
ポアンカレ内閣への私の協力
――私は、危機の時には自らを超えるよう努め、至高の法である祖国の救済に全身全霊を捧げるという、古いジャコバンの伝統に従ったにすぎない。ある状況で私が相対さなければならなかった人々すべてに、常に見いだせたわけではないその精神を、ポアンカレ氏から協力を求められたとき、私は自らのものにしようと努めた。私は、あれこれの色合いの内閣に入るために自分の考えを変えたのではない。国の生命線を立て直そうとしている財政防衛政府に協力するために、自分の考えを保ったのである。必要とあれば党内で最も目立たない地位に戻る覚悟であり、私は党に固く忠実であり続ける。しかしその忠誠は、祖国をすべての上に置くことを私に禁じるものではなく、むしろそれを命じるのである。何よりもまず、私はフランス人だ。
――あなたは2度、首相を務めました。首相在任中、最もつらかった時と、最も心地よかった時はいつでしたか。
――最も悲しい思い出は(エリオ氏は間を置く)、今日は言わないでおこう。出来事がまだあまりに最近のことだ。後でまた尋ねに来てほしい。最も心地よかったのは、ジュネーヴでの私の演説の時だ。フランスの代表として、私はわが国の真の姿と平和への意志に、52か国の代表たちの喝采を浴びせたのである。[?]
解説
シュトレーゼマンが国内の嘲笑を予期した理由
シュトレーゼマンは、自分が「永遠の楽観主義者」「人を信じやすい夢想家」と呼ばれることを予期していた。それには理由があった。彼が結成し率いたドイツ人民党は、旧国民自由党の右派と進歩党の一部を集めた政党である。1920年代半ばには、保守派の野党が、共和国を支持し西側列強の要求を履行したとして彼を攻撃した。自党内でさえ、保守的な党員の一部は彼を本当には信頼していなかった。この一節が信頼をこれほど強く擁護しているのはそのためである。彼は不信が常に誤りだと主張したのではない。不信だけに基づく政治、つまり「誰も信用するな、皆を欺け」という古い原則は実を結ばなかったと言ったのである。さらに彼は、フランスとの協調をドイツ自身の力を取り戻すための前提として示し、信頼の議論を国家の再起に結びつけた。
ドイツが仏独接近に期待したもの
演説の中で平和は、ドイツが「力を取り戻す」ための基盤とされている。シュトレーゼマン外交についての記述は、その背後にある目標をより現実的に説明している。シュトレーゼマンは決して親仏派ではなかった。彼の主な狙いは、フランスへの賠償支払いという負担からドイツを解放することであり、占領下のラインラントからのすべての外国軍の撤退も望んでいた。歴史家ハンス・モムゼンは、シュトレーゼマン自身の評価として、ロカルノは「欧州の条約網を通じたドイツ主権の漸進的回復」への第一歩にすぎなかったとまとめている。この演説の時点で、その手法は成果を上げつつあった。前月の1926年9月、ドイツは国際連盟への加盟を認められ、理事会の常任理事国となっていた。ロカルノでのシュトレーゼマンとブリアンの功績は、両者が共同受賞した1926年のノーベル平和賞によっても認められた。1930年には最後の占領軍がラインラントを去った。ヴェルサイユ条約の定めより5年早かった。つまり、演説における信頼の言葉とドイツの力への関心は、同じ戦略の一部だったのである。
ロカルノ後の仏独外交における英国の位置
フランス側の声明は、チェンバレンがジュネーヴで、ブリアンがシュトレーゼマンと会談する意向であることを知らされていたと強調し、平和に奉仕する両外相の協調が依然として「かつてないほど緊密かつ友好的」であると述べた。英国に情報を伝え続ける必要があったのには理由がある。ロカルノの主条約で、英国は仏独国境と独・ベルギー国境の不可侵を保証する国の一つだった。国際連盟が違反を認定すれば、ほかの署名国は侵害を受けた国を支援することになっていた。チェンバレンにも仏独会談を歓迎する独自の理由があった。仏独関係が改善すれば、フランスは防疫線、すなわちポーランド、チェコスロヴァキア、ルーマニア、ユーゴスラヴィアとの同盟でドイツを東から囲む体制を徐々に放棄するだろうと彼は期待していた。ブリアンは1925年にケ・ドルセーに戻り、1932年まで外相を務めることになる。したがって、声明がロカルノとトワリーに触れたのは、二国間の会談を英国が保証した条約と同じ枠組みの一部として示し、それを迂回するものではないと示すためだった。
エリオのポアンカレ内閣入りが激しく批判された理由
聞き手が触れた非難は、エリオの最近の経歴を知れば理解できる。エリオは第1次左翼カルテルを率いた。この左派連合は1924年の総選挙でポアンカレ政権を破った。ある評価によれば、ポアンカレがこの選挙に敗れたのは、外交的孤立よりもむしろフランの暴落とそれに続く増税のためだった。1926年7月、エリオ自身の第2次内閣はわずか数日、19日から23日までしか続かなかった。その後ポアンカレが1926年から1929年まで続く3度目の首相職に就き、エリオを文相として迎えた。エリオはその職を1928年まで務めた。エリオは1919年から急進党の総裁を務めており、経歴一覧ではその最初の任期は1926年までとされている。こうした経緯は、党内の「最も目立たない地位」に戻る覚悟を語りつつ党への忠誠を強調する彼の言葉に重みを与えている。彼の弁明は二つの柱に立っていた。一つは財政危機における愛国的義務であり、もう一つはかつての政敵とともに働きながらも自分の考えは保ったという主張である。
原文
M. Stresemann prononce un grand discours sur l'entente franco-allemande
[?] Parlant de l'entente entre la France et l'Allemagne, M. Stresemann poursuit: «Je connais tous les obstacles, toutes les difficultés psychologiques qui existent, ici et en France, mais je ne crois pas qu'on puisse contester que l'entente franco-allemande est et reste le point central de toute pacification européenne. Il ne s'agit pas, ici, d'une question de tactique, mais d'un problème essentiel d'évolution future, sans que personne puisse dire, aujourd'hui [?] les peuples ont le désir et la volonté de leurs hommes d'Etat. «Je crois en la loyale volonté d'entente du ministre français des Affaires Etrangères; Je me vois déjà traité d'éternel optimiste et d'utopiste confiant. C'est une folie que d'avoir simplement confiance dans des raisons positives, mais c'est une complète erreur aussi de croire que la politique ne doit être déterminée que par la méfiance. «L'ancienne politique: «N'aie confiance en personne et trompe tout le monde» n'a pas finalement été si féconde dans le passé. Pour moi, la chose est certaine, la nouvelle Allemagne et son relèvement ne peuvent être basés que sur la paix. C'est la seule base sur laquelle nous pouvons rétablir notre force. «Mais comment cette paix est-elle possible si elle n'était pas précédée et basée sur l'entente franco-allemande?» [?]
M. Briand a eu hier, au Quai d’Orsay, une entrevue avec M. Austen Chamberlain
[?] Paris, 2 octobre. - A l'issue de l'entrevue de M. Briand avec M. Chamberlain, le ministère des affaires étrangères a communiqué la note suivante: MM. Briand et Chamberlain se sont rencontrés cet après-midi, et ont eu une entrevue au Quai d'Orsay au cours de laquelle ils ont constaté et précisé leur communauté de vues et d'action pour la solution des problèmes internationaux actuellement posés. M. Chamberlain qui, à Genève, avait été mis au courant des intentions de son collègue français de s'entretenir avec le Ministre des affaires étrangères allemand, avait dû quitter la Suisse avant l'entrevue de Thoiry et s'était reposé au cours d'une croisière de 15 jours dans la Méditerranée. Avant de rentrer à Londres et reprendre contact avec le Foreign Office il a tenu à s'arrêter à Paris pour s'entretenir avec le Ministre des Affaires étrangères français. Les deux hommes d'Etat ont examiné la situation extérieure, en particulier les relations franco-allemandes, dont les accords de Locarno et les conversations de Thoiry ont précisé l'organisation. La conversation s'est poursuivie dans l'atmosphère favorable qu'assurent des relations personnelles et les deux ministres ont pu constater que leur entente au service de la paix reste plus étroite et plus cordiale que jamais. Déclarations de M. Briand à la Presse Paris, 2 octobre. - [?]
M. Herriot et le Cabinet Poincaré
[?] - «A l'heure où certains vous reprochent si âprement d'être entré dans le cabinet Poincaré, voulez-vous me dire à quelle pensée vous avez obéi en lui accordant votre collaboration?» telle est la question que M. Joseph Beineix, de Paris-Midi, a posée à M. Herriot. Ma collaboration au Cabinet Poincaré - Je n'ai fait que suivre la vieille tradition jacobine qui veut qu'aux heures de péril, on tâche de s'élever au-dessus de soi-même et de se dévouer tout entier au salut de la patrie, loi suprême. L'esprit que je n'ai pas toujours trouvé chez tous ceux auxquels j'eus à m'adresser en certaines circonstances, j'ai essayé de m'en pénétrer quand M. Poincaré m'a demandé mon concours. Je n'ai pas changé mes idées pour entrer dans un ministère de telle ou telle nuance. J'ai gardé mes idées pour collaborer à un gouvernement de défense financière qui essaye de restaurer les œuvres vives du pays. Prêt à reprendre, s'il le faut, le rang le plus modeste dans mon parti, je lui reste étroitement fidèle. Mais cette fidélité ne m'interdit pas, elle me commande au contraire de mettre au-dessus de tout mon pays. Avant tout, je suis Français. - Vous avez été deux fois président du Conseil. Quelle fut l'heure la plus cruelle, quelle fut l'heure la plus douce de vos présidences? - Mon souvenir le plus triste (M. Herriot marque un temps), je ne vous le dirai pas aujourd'hui. Les événements sont encore trop récents. Venez m'interroger plus tard. L'heure la plus douce, ce fut celle de mon discours à Genève où, représentant de la France, je fis applaudir le vrai visage de mon pays et sa volonté de paix par les délégués de cinquante-deux nations. [?]