Prager Tagblatt
- 国際連盟エピローグ
- 信頼と和解のために
- イタリアにおける死刑
1926年10月3日付のプラーガー・ターグブラットは、閉幕したばかりのジュネーブの国際連盟総会を振り返る論説を載せた。論説は英外相チェンバレンを、ブリアンやポーランド代表を信じすぎる誠実だが非凡ではない人物と評した。また同紙は、チェコスロバキアは一人当たりの軍事費が欧州有数の多さだとしながらも、ベネシュが軍縮委員会の議長を務めたことを指摘し、連盟の新たな方向がフランスの庇護への依存から小国を解放すると論じた。ドイツの演説を伝える記事は、ドーズ案と二月覚書からロカルノ、ジュネーブ、トワリーへと続く協調政策を、ラインラント主権回復を目標とする一連の歩みとして描いた。ローマ発の電報は、王族と政府首班への襲撃に死刑を科す法案をイタリア閣議が承認したと報じた。
翻訳
国際連盟エピローグ
[?] ある種の素朴さ、狡猾なブリアンと抜け目のないポーランド人に対する紛れもないお人よしぶりは、彼が時折の軽率さによって失いうるものよりも、結局は多くの共感を彼にもたらす性格上の特質である。英国と大陸にいる彼の手厳しい批判者たちが、時として地球の半分の審判役を担うことになる英国外相のような地位には、きわめてまれな才能と鉄のような性格を備えた人物が必要だと言うのは、おそらく正しいのだろう。チェンバレンはそのような人物ではない。だが英国保守党にこれ以上の人材がいない以上、彼で我慢するほかなく、その人柄がやはり英国の良き平均を上回っているらしいことを喜ぶべきだろう。彼がジュネーブを去って以来、決して軽んじられない人物であるセシル子爵がこちらに残ったとはいえ、英国代表団はその重みを大いに失った。
国際連盟において奇妙な例外的地位を占めているのが、小国チェコスロバキアである。ベネシュ博士は最後まで軍縮委員会の議長を務め、ヴェヴェルカ公使は軍縮委員会B小委員会の委員長を務めた。これはまったくベネシュ博士の人物に対する評価である。というのも、チェコスロバキア共和国が軍縮において特に目立った働きをしたとは、どれほど好意的に見ても言えないからだ。それどころか、人口一人当たりでチェコスロバキアほど軍備に多くを費やしてきた国は、ヨーロッパにはほとんどない。聞くところでは、今後数年のうちにわが国でも過大な平時兵力の削減が本格的に進められるという。政府多数派の中核をなすとされる二つの農業政党は、幹部要員と兵役期間の双方の削減に非常に熱心である。
小国と中規模国家の立場から見れば、国際連盟の現在の方向性は大きな幸運である。フランス人が軍事同盟国を必要としなくなる時代が到来しそうなことに、大いに心を痛めるチェコの権力政治家も少なくないだろう。しかし国家全体としてのチェコスロバキアにとっては、もはや一つの大国の庇護に頼り続けるのではなく、かつての敵対国が自発的に引き受けた義務によってその領有を保障されるならば、それは永続的な利益である。
信頼と和解のために
[?] 過去にばかり目を向け、歴史から何も学べない、あるいは学ぼうとしない者たち。協調政策は、ミキュム協定と専門家報告を経て、ロンドン会議とドーズ報告へと至った。この取り決めはあれほど激しく反対され、あれほど重荷でありながら、ドイツ経済とドイツ通貨の維持をその体系の中心に据えている点で、かつてわれわれに対してとられていた賠償政策とは際立って異なっている。この政策はロンドン会議を経て、あれほど批判された二月覚書へと至った。私は今日もなお誇りをもってこの覚書を自らのものとして認める。そしてこの政策は、この覚書とその発意からロカルノへ、ロカルノからジュネーブへ、ジュネーブからトワリーへと至ったのである。この政策の道筋の上に、ルール地方からの撤兵があり、ラインラント第一地帯からの撤兵がある。その最後の道程には、ドイツのラインラントに対するドイツの主権を闘い取ることがある。この政策の枠組みの中に、ドイツの国際連盟加盟がある。ドイツ外交にとって、この国際連盟への所属は二重の観点から立ち現れる――
イタリアにおける死刑
[?] あらゆる党派心を退けて、今日のドイツの側に立つこと。
イタリアにおける死刑。
王族と首相への襲撃に対して。
ローマ、10月2日。本日の閣議は、法務大臣の提案に基づき、国王、王妃、摂政、王太子および政府首班の身体に対する襲撃を死刑をもって罰する法案を承認した。こうした犯罪を裁く権限は最高裁判所の特別部に委ねられ、同部が最高裁判所として機能する。この法案は議会の審議再開時に提出される。
リンテレンのグラーツ帰還。
グラーツ、10月2日。キリスト教――のクラブは――
解説
ドーズ案からラインラントへ――演説が描く協定の連鎖
「信頼と和解のために」の話し手は、「二月覚書」を自らのものとして認め、賠償問題から主権回復までを一本の道として描いている。これはグスタフ・シュトレーゼマンを指していると考えられる。彼は1925年1月と2月に英国とフランスへ秘密覚書を送ってライン安全保障条約を提案し、この発意がロカルノ条約へと発展した。話し手が挙げるそれ以前の段階は、史実として確かめられる。1924年のドーズ案はドイツの賠償総額を引き下げ、ライヒスバンクを再編し、ルール占領を終わらせた。この取り決めがドイツ経済と通貨を中心に据えたという演説の主張とも合致する。ロカルノ後、延期されていた英軍のケルン地域からの撤退、つまり演説にいう「ラインラント第一地帯」からの撤兵は1926年1月に実現した。ドイツは1926年9月10日に常任理事国として連盟に加盟した。ラインラント主権へ向かう「最後の道程」という表現は、ハンス・モムゼンがまとめたシュトレーゼマン自身の見方とも一致する。それによれば、ロカルノは「ドイツ主権の漸進的回復」へ向かう第一歩にすぎなかった。この目標が達成されたのは1930年で、最後の占領軍がヴェルサイユ条約の定めより5年早くラインラントを去った。演説はジュネーブの次に、最新の段階としてトワリーを置いている。
チェンバレン――素朴な審判役か、東方修正の戦略家か
このプラハの論説は、オースティン・チェンバレンを誠実だが器の小さい外相として描いている。「狡猾なブリアンと抜け目のないポーランド人」に対してお人よしで、保守党にほかに人材がいないから我慢するしかない人物だという。だが歴史家によるロカルノ外交の記述からは、もっと意図的な構想が見えてくる。チェンバレンは、仏独関係が改善すればフランスが東欧同盟網(防疫線)を徐々に手放すと期待していた。ある解釈によれば、ズデーテン地方などドイツが領有を主張する地域が引き渡されれば、欧州の恒久平和の見込みは高まると考えていたともいう。ベルリンから見ても、彼は素朴には映らなかった。シュトレーゼマンは後に、チェンバレンは「決してわれわれの友人ではなかった」と書き、彼の最初の一手は三国同盟によって旧協商を復活させる試みだったと記している。フランスがまもなく「軍事同盟国を必要としなくなる」という論説の期待は、チェンバレンの戦略が目指した結果そのものを語っている。ただしプラハの筆者は、それを危険ではなくチェコスロバキアにとっての利益として捉えている。
ロカルノはチェコスロバキアに何を約束したのか
論説は、チェコスロバキアの領有が「かつての敵対国が自発的に引き受けた義務」によって保障されると期待している。ベネシュ自身もチェコスロバキア外相としてロカルノ諸条約に署名しており、その中には独チェコスロバキア仲裁条約も含まれていた。しかしポーランド、チェコスロバキアとの仲裁条約には拘束力がなかった。ドイツは紛争の平和的解決には同意したものの、西方のライン協定とは異なり、東部国境の保障はなかった。これと並んで、国際連盟規約第16条に基づく相互援助を約束するフランス・チェコスロバキア条約が別に結ばれた。これこそ、論説がこの国に脱してほしいと願った一大国への依存そのものだった。チェコスロバキアの一人当たり軍事費や、幹部要員と兵役期間の削減を求める農業政党の動きについての記述は、1926年秋の国内政治に関する同紙自身の主張である。
10月2日の法案から1926年11月25日の法律へ
ローマ発の電報は、ムッソリーニに対する直近の暗殺未遂から3週間後に届いた。1926年9月11日、アナキストのジーノ・ルチェッティが統領(ドゥーチェ)の車に爆弾を投げつけていたのである。この法案は大きな転換だった。死刑は1889年の刑法典によって全国で廃止されており、1900年に国王ウンベルト1世を暗殺したガエターノ・ブレッシでさえ死刑を宣告されなかったからである。1926年10月31日にボローニャでムッソリーニへの新たな襲撃が起きた後、こうした襲撃に対する死刑は、いわゆる「超ファシスト法」の一つである1926年11月25日の法律第2008号に盛り込まれた。こうして1926年、体制は国王、王妃、王位継承者、首相への襲撃に対する死刑を復活させた。ただし管轄については、制定された法律は電報の内容と異なっていた。最高裁判所の特別部ではなく、同じ法律によって軍の将校で構成される国家防衛特別法廷が設置されたのである。特別法廷は1927年2月1日に初めて開かれ、1943年までに42件の死刑判決を下し、うち31件が執行された。
原文
Völkerbund-Epilog.
[?] Eine gewisse Naivität, eine unverkennbare Gutgläubigkeit gegenüber dem gerissenen Briand und dem schlauen Polen sind Charaktereigenschaften, die ihm an Sympathien schließlich mehr einbringen, als er durch gelegentliche Unvorsichtigkeiten verlieren kann. Seine scharfen Kritiker in England und auf dem Kontinent haben wahrscheinlich darin recht, daß für eine Stellung wie die des englischen Außenministers, dem von Zeit zu Zeit die Rolle des Schiedsrichters der einen Hälfte des Erdballs zufällt, eine Persönlichkeit von ganz seltenen Gaben und von eisernem Charakter notwendig ist. Eine solche Individualität ist Chamberlain nicht, aber da die englische konservative Partei keinen Besseren aufzuweisen hat, so muß man eben mit ihm vorlieb nehmen und sich darüber freuen, daß sein Charakter doch wohl noch über dem guten englischen Durchschnitt steht. Seit er von Genf abgereist ist, hat die englische Delegation, obzwar der keineswegs unbedeutende Viscount Cecil hiergeblieben ist, doch sehr an Bedeutung eingebüßt. Eine merkwürdige Ausnahmestellung nimmt auf dem Völkerbund die kleine Tschechoslowakei ein. Dr. Beneš funktionierte bis zum Schluß als Präsident der Abrüstungskommission, der Gesandte Veverka als Vorsitzender der Unterkommission B der Abrüstungskommission. Es ist das durchaus eine Anerkennung der Persönlichkeit des Dr. Beneš, denn man kann beim besten Willen nicht behaupten, daß die tschechoslowakische Republik sich bei der Abrüstung besonders hervorgetan hat. Im Gegenteil, es gibt wenige Staaten in Europa, die auf den Kopf der Bevölkerung so viel für Rüstungen aufgewendet haben wie die Tschechoslowakei. Wie man hört, wird in den nächsten Jahren auch bei uns mit der Reduktion der übergroßen Friedensstände Ernst gemacht werden. Die beiden agrarischen Parteien, die den Kern der Regierungsmehrheit bilden sollen, sind sehr energisch für eine Reduktion sowohl der Kaders als auch der Dienstzeit. Vom Standpunkte der Kleinstaaten und Mittelstaaten ist die gegenwärtige Richtung des Völkerbundes ein großes Glück. Manchem tschechischen Machtpolitiker mag es großen Kummer bereiten, daß eine Zeit anzubrechen droht, in der die Franzosen für militärische Alliierte keine Verwendung haben werden. Für die Tschechoslowakei als Gesamtstaat ist es ein dauernder Gewinn, wenn sie nicht mehr auf die Protektion einer einzigen Macht angewiesen bleibt, sondern in ihrem Besitztum durch freiwillig übernommene Verpflichtungen ihrer früheren Gegner gesichert ist.
Für Vertrauen und Versöhnung
[?] die den Blick nur in die Vergangenheit lenken und die aus der Geschichte nichts lernen können oder wollen. Die Verständigungspolitik führte über die Micumverträge und das Sachverständigengutachten zur Londoner Konferenz und dem Dawes-Gutachten, jenem Abkommen, so viel bekämpft, so drückend, aber doch so stark sich abhebend von der früher uns gegenüber beliebten Reparationspolitik, daß es die Erhaltung der deutschen Wirtschaft und der deutschen Währung in den Mittelpunkt seines Systems stellt. Diese Politik führte über die Londoner Konferenz zu dem viel bekämpften FebruarMemorandum, zu dem ich mich auch heute mit Stolz bekenne und führte von diesem Memorandum und seiner Initiative nach Locarno, von Locarno nach Genf und von Genf nach Thoiry. Auf dem Wege dieser Politik liegt die Räumung des Ruhrgebietes, liegt die Räumung der ersten Rheinlandzone. Auf ihrem Schlußweg liegt die Erkämpfung der deutschen Souveränität über das deutsche Rheinland. Im Rahmen dieser Politik liegt Deutschlands Eintritt in den Völkerbund. Für die deutsche Außenpolitik stellt sich diese Zugehörigkeit zum Völkerbund unter einem doppelten Gesichts -
Die Todesstrafe in Italien.
[?] drängung jeglichen Parteigeistes zum heutigen Deutschland zu stehen. Die Todesstrafe in Italien. Bei Anschlägen auf die Königsfamilie und den Ministerpräsidenten. Rom, 2. Oktober. Der heutige Ministerrat hat auf Vorschlag des Justizministers den Gesetzentwurf gebilligt, der mit Todesstrafe die Attentate gegen die Person des Königs, der Königin, des Regenten, des Kronprinzen und des Regierungschefs ahndet. Die Kompetenz, über solche Verbrechen zu urteilen, wird einer besonderen Abteilung des Obersten Gerichtshofes, die als Oberster Gerichtshof fungieren wird, übertragen. Dieser Gesetzentwurf wird dem Parlament bei der Wiederaufnahme der Arbeiten. vorgelegt werden. Rintelens Rückkehr nach Graz. Graz, 2. Oktober. Der Klub der christlich -