Vossische Zeitung
- 軍人たちはこうして軍縮をしたがる
- ボールドウィン、帝国会議を開会
- ヨーロッパ政策
1926年10月20日のフォス新聞は、ジュネーブの軍縮委員会の軍事委員会で、フランスと小協商、ポーランド、フィンランドの軍人が、条約違反の毒ガス攻撃に対して全締約国が化学兵器で一斉に反撃する制裁を提案したと伝えた。同紙はこの案をあざけり、ドイツ代表団がこうした制裁は毒ガス戦を正当化すると警告したことも報じた。ロンドン発の記事は帝国会議の開会を伝え、ボールドウィンが外交政策の協議や防衛負担、帝国内の通商、アメリカ映画への対抗を議題に挙げたことと、ヘルツォークが南アフリカの対等な地位を求めたことを報じた。マックス・コーエン=ロイスは署名入りの論説で、大陸ヨーロッパ構想を唱えたのはクーデンホーフ=カレルギーのパン・ヨーロッパより「社会主義月報」の方が先だったと主張した。コーエン=ロイスは、パン・ヨーロッパという名称と、その名称が引き起こした英国の加盟をめぐる論争も批判した。
翻訳
軍人たちはこうして軍縮をしたがる
毒ガスによる国際連盟戦争! 軍人たちはこうして軍縮をしたがる
フォス新聞通信 jb ジュネーブ、10月19日
軍縮委員会の軍事委員会ではいまなお審議が続いており、6か月を経て11月前半に終わる見込みだが、その審議の中で、国際連盟の名において毒ガス戦を行うという奇妙な考えが浮上した。フランスの軍人たちは、ロシアからの戦争の脅威の圧力にさらされている、あるいはさらされていると主張する「小協商」諸国、ポーランド、フィンランドの軍人たちとともに、次のような提案を行った。条約に違反して毒ガスによる攻撃が行われた場合、その制裁として、他のすべての締約国が自国の化学工業のあらゆる手段をもってこの犯罪国家に襲いかかり、罪ある国を罰するというのである。軍人に軍縮問題を審議させると、このような愚にもつかぬ結論に行き着くことになる。フォン・ベッティヒャー中佐の率いるドイツ代表団はこれに対し、ドイツは毒ガス戦禁止に関するいかなる協定にも無条件で応じる用意があると改めて表明し、毒ガス戦を禁止するどころか、むしろ正当化してしまうような、こうした「制裁」の危うさに注意を促した。
ボールドウィン、帝国会議を開会
ボールドウィン、帝国会議を開会
自治領の権利拡大
フォス新聞通信 whe ロンドン、10月19日
世界大戦で100万人の英国人が戦死したことを記した記念銘板がウェストミンスター寺院で除幕されたのち、各自治領の首相たちは帝国会議の開会のためダウニング街へ向かった。群衆は自治領の代表たちに強い関心を寄せた。白髪の南アフリカのヘルツォーク、まだ若々しく小太りで、たいてい愛想よく微笑んでいるカナダのキング、ひげのない鋭い顔立ちで法律家然としたオーストラリアのブルース、そしてインドの代表であるバードワンのマハラジャである。マハラジャだけが、モーニングコートとシルクハットの黒一色に色彩を添えていた。帝国会議の本日の第1回会合は約2時間続き、議事規則、事務局の設置、そして審議日程の討議を扱った。事務局には、本国の官吏と並んで植民地の代表も対等の立場で任用された。審議日程は、ボールドウィンが開会演説で詳しく説明した。最も重要な項目は、本国の外交政策に対する自治領の影響力、防衛負担の引き受け、本国と植民地のあいだの通商の促進、移住問題、そして英語圏におけるアメリカ映画の優位への対抗である。ボールドウィンは演説の中で、これまでの帝国会議では実際的な成果が何も上がらなかったという見方に反論した。彼は、本国と植民地の関係を「理論的に考え出された憲法」によって文書で固定することに警告を発した。帝国会議の任務が英国の外交政策を事後に承認することにとどまってはならず、帝国の外交政策について常に合意を形成しなければならない、と彼は述べた。会議は、外交政策における自治領の協議参加を強めるのにふさわしい提案であれば、どれも先入観なく検討するという。続いてボールドウィンは、本国と植民地の通商をいっそう緊密にする必要に触れた。帝国全体の防衛政策は、とりわけ負担の再配分という方向で見直さなければならない、と彼は述べた。各首相の応答は、協力への基本的な意思を示すものだった。ヘルツォークは、英帝国が、いかなる憲法にもまったく縛られず、しかも可能な限り共同の協議を通じて共に行動し共通の利益を増進しようと決意した、自由で独立した諸国民の共同体である限り、南アフリカはあらゆる党派感情や人種的本能とは無関係に英帝国にとどまると強調した。南アフリカは帝国が当面の将来を越えて存続すべき共同体であると確信しているからこそ、その基礎を点検し、全構成員の善意ある協力を確保する必要がある、と彼は述べた。南アフリカは、とりわけ外国との関係において、帝国の他のすべての構成員と同等の地位を認めるよう求めた。インドの代表であるバードワンのマハラジャは演説で、南アフリカにおけるインド人の権利について満足のいく解決を求めた。チェンバレンが英国にかかわる外交問題について報告したのち、帝国会議は明日、自治領の拡大された共同決定権についての討議を始める。英国側が職業外交官たちのこぞっての抵抗にもかかわらず決断した最小限の譲歩は、ロンドン駐在の自治領の弁務官に大使の格を与えることである。大使の格を得れば、自治領の常駐代表は内閣で直接自らの立場を述べることができるようになる。
ヨーロッパ政策
ヨーロッパ政策
パン・ヨーロッパ会議へのもう一つの後記
マックス・コーエン=ロイス
一つの偉大な理念のために示威しようと何千もの人々が集まった第1回パン・ヨーロッパ会議は、さまざまな政治陣営からまったく異なる評価を受けた。一方の人々は、それを上から見下ろして、遊びごと、ある国際的な伯爵の個人的な気まぐれとして片づけようとした。他方の人々は、ヴァルミーでのよく知られたゲーテの言葉の意味で、それを世界の転換点と呼んだ。どちらの評価も誤っている。この会議の意義は、ヨーロッパの協調という理念が生まれてきた全体の脈絡の中で見るときにはじめて、正しく評価できる。
世界大戦中、苦境に立たされたドイツが出口を探していたとき、「社会主義月報」が繰り返し主張してきた世界の経済帝国的な形成という理念こそが、まさにドイツにとって未来を指し示すものであり、同時に諸民族の大衝突に歴史的な意味を与えるものであることが明らかになった。この理念は、世界史的な発展が五つの大きな経済圏の形成に向かうという見方に基づいていた。すなわち、東アジア(日本と中国)、ロシア、汎アメリカ、大英、そして大陸ヨーロッパの経済帝国である。同時にこの理念は、その支持者たちに特定の戦争目的政策、すなわち東方志向の政策を追求し、その基盤から出発してヨーロッパの大陸的な統合を実現する可能性をも与えた。政治と経済の発展についてのこの見方は、もちろん折にふれて口にされた思いつきではなく、経済、政治、精神のあらゆる領域に適用できる建設的な政策の基礎だった。それは同時に前述の雑誌の本来の綱領でもあり、同誌は戦争中だけでなく戦後の最も困難な時期にもこれを主張し続けた。ルール闘争のときのように、それが極度の不人気を招いた場合でもそうだった。この中心から、大陸ヨーロッパの統合という理念はさまざまな経路を通って政治、経済、精神の各界に浸透し、とりわけ「フォス新聞」によってもすでに10年来、きわめて一貫して擁護されてきた。
約3年前、知的にきわめて活発なクーデンホーフ=カレルギー伯爵博士がこの理念を取り上げた。彼はそれ以来その最も精力的な擁護者の一人であり、ヨーロッパ運動は彼によって知的活力の大いに望ましい増強を得た。クーデンホーフの著作やその他の声明を見ると、彼が建設的な面に関する限り大陸ヨーロッパの協調という理念を見事に把握しており、「社会主義月報」のグループとまったく同じように五つの経済帝国への発展を見ていることがわかる。もっとも、その第五の帝国である大陸ヨーロッパは、これからつくり出さなければならない。クーデンホーフの精力的な宣伝は外面的には大きな成功を収め、この大義の推進がすべてであったわれわれも、それを心から歓迎した。
残念ながら、二つの方向で不利な点も現れた。クーデンホーフ=カレルギーはやや異なる用語を用いている。彼は大陸について語るが、われわれは経済圏あるいは経済帝国について語る。言葉の意味からすれば、これは別のものである。さらにクーデンホーフは、残念なことに(正しくは大陸ヨーロッパと言うべきところを)パン・ヨーロッパと言う。これはわれわれには誤った概念に思えるだけでなく、英国の「加盟」か「非加盟」かをめぐるいささか滑稽な論争をも招いた。こうした相違にもかかわらず、クーデンホーフの大衆的な宣伝には大いに賛同できるし、ヨーロッパの協調を支持する者は誰でも第1回パン・ヨーロッパ会議の開催を歓迎した。両派がこの問題に異なる側から取り組んでいるとしても、すなわちわれわれは有機的に形づくる方向で、クーデンホーフは主として組織的・技術的な方向で取り組んでいるとしても、こうした相違は緊密な協力をまったく妨げない。われわれが世界経済の発展の内的な傾向をたどり、創造的な建設作業によってその発展が本来の意味に至るよう助けようとしているのに対し、クーデンホーフはヨーロッパ連盟(組織)を結成することで目標に近づけると考えている。われわれはそれにまったく異論はない。ヨーロッパ的な意味で人々の精神に働きかけることは一つの行為であり、必要なことだからである。もっとも、われわれは鉄協定、ドイツの石炭とフランスの鉱石との共同作業体、カリ、化学その他の生産分野での協力のうちに、もっとも重要な――
解説
ジュネーブの軍事委員会と長引いた審議
記事が軍縮委員会の軍事委員会と呼んだ機関は、国際連盟理事会が1926年3月に整えた軍縮準備の組織に属していた。理事会は、軍縮会議準備委員会を1926年5月18日に、陸海空問題常設諮問委員会を5月19日に、それぞれジュネーブで開くと決めた。ベルン駐在の米国代理公使ウィンズローは、この作業の目的と期間に限って、諮問委員会が実質的に準備委員会の技術小委員会になると本国に報告した。理事会は工業と運輸を扱う混合委員会も拡大し、新しい委員にドイツ国民を加えた。この措置によって、ドイツも技術面の準備作業に加わった。3月の時点で関係者は、技術委員会が代表団長の退席後さらに10日から2週間ほど開かれるだけだと見込んでいた。審議がすでに6か月続き、11月まで終わらないというフォス新聞の報道が正しければ、審議は当初の見込みを大きく超えて長引いたことになる。フランスと小協商、ポーランド、フィンランドによる毒ガス報復の提案と、フォン・ベッティヒャー中佐の率いる代表団の声明の詳細は、この記事による。提案を「愚にもつかぬ」と評したのは新聞自身の論評であり、議論を中立に記録したものとは言えない。
10月19日に開会した帝国会議が最終的に決めたこと
この記事でボールドウィンが開会した帝国会議は、1926年10月19日から11月23日までロンドンで開かれた。この会議は、自治領が互いに対等な地位にあるという原則を定めたバルフォア宣言で知られている。ボールドウィンは「理論的に考え出された憲法」に警告したが、会議の結論もこの警告に沿うものになった。帝国間関係委員会は成文の憲法をつくる案を退け、会議全体は11月15日に委員会の勧告を全会一致で採択した。フォス新聞は、英国側の最小限の譲歩として、ロンドン駐在の自治領弁務官に大使の格を与え、内閣で直接意見を述べられるようにする案を伝えた。南アフリカ歴史オンラインによる最終宣言のまとめでは、自治領が英国に高等弁務官を置き、英国も各自治領に高等弁務官を置く仕組みが示されている。したがって、大使の格に関する記事は開会当日の見通しを伝えたものであり、最終的な取り決めを記したものではない。
ヘルツォークの対等要求はどこまで通ったか
記事によると、ヘルツォークは開会演説で、南アフリカの忠誠を、いかなる憲法にも縛られない自由な諸国民の帝国であることに結びつけ、外交関係における対等な地位を求めた。会議でのヘルツォークの行動も、この主張に沿っていた。ヘルツォークはカナダ、アイルランド、インドの支持を得て、自治領の地位を明確にする委員会の設置を進め、委員会に出された提案の中で、自治領が英国に従属しないことを求めた。会議の結果は、ヘルツォークの要求を一部だけ満たした。委員会はヘルツォークが唱えた帝国の終わりまでは認めなかったが、宣言は自治領が対等な地位にあると明記した。ヘルツォークはこの宣言を、南アフリカの憲法上の独立を認めたものと受け止めたが、宣言は法律ではなく一つの文書にとどまった。同じ記事は、バードワンのマハラジャが南アフリカのインド人の権利を求めたことも伝えている。この要求は、自治領同士が対等になっても、帝国内のインド人の地位という問題が残っていたことを示している。
コーエン=ロイスのパン・ヨーロッパ批判と「社会主義月報」の人々
コーエン=ロイスは、ヨーゼフ・ブロッホを中心とする人々の一員として書いていた。ブロッホは1897年から1933年まで「社会主義月報」を一人で編集し、この雑誌をドイツ社会民主党内の修正主義の中心的な機関誌に育てた。1920年代のコーエン=ロイスは、この雑誌の最も著名な常連寄稿者の一人だった。論説が挙げた五つの経済帝国は、アメリカ、英帝国、東アジア、ロシア、大陸ヨーロッパの五つの帝国が均衡して平和を保つというブロッホの理想と一致している。ブロッホの伝記の筆者はこの理想が1918年以降しだいに強まったとしているが、論説はこれを大戦中からの綱領として描いている。ブロッホは大戦中、ドイツの勝利が大陸ヨーロッパの統一を進めると信じて城内平和を支持した。この事実は、戦争目的に東方志向があったという論説の記述と合っている。ブロッホは大陸ヨーロッパの協力を望む一方で、英国をはっきり拒んでいた。そのため、コーエン=ロイスはパン・ヨーロッパではなく大陸ヨーロッパという言葉を使うよう求め、英国の加盟をめぐる論争を滑稽だと退けたのである。クーデンホーフ=カレルギーの考えについての記述は、コーエン=ロイス自身の見方である。
原文
Wie Militärs abrüsten wollen
Völkerbundskrieg mit Giftgasen! Wie Militärs abrüsten wollen Nachrichtendienst der " Vossischen Zeitung " jb Genf, 19. Oktober In den immer noch andauernden Beratungen des Militärkomitees der Abrüstungskommission, die in der ersten Hälfte November nach sechs Monaten Dauer zu Ende gehen dürften, ist der sonderbare Gedanke eines Giftgaskrieges im Namen des Völkerbundes aufgetaucht. Die französischen Militärs haben zusammen mit denen der " Kleinen Entente ", Polens und Finnlands, die unter dem Druck einer Kriegsdrohung von Rußland her stehen oder zu stehen behaupten, den Vorschlag gemacht, als Sanktion für einen etwa vertragswidrig unternommenen Angriff mit Giftgasen den schuldigen Staat dadurch zu bestrafen, daß alle übrigen Vertragsstaaten mit allen Mitteln ihrer chemischen Industrie den Verbrecherstaat überfallen sollen. Zu solchen Absurditäten können Militärs kommen, wenn man sie über Abrüstungsfragen beraten läßt. Die deutsche Delegation unter Führung des Oberstleutnants von Bötticher hat dazu erneut die Erklärung abgegeben, daß Deutschland zu jedem Abkommen über ein Verbot des Giftgaskrieges vorbehaltlos bereit sei, und sie hat auf das Bedenkliche einer solchen " Sanktion " aufmerksam gemacht, die den Giftgaskrieg geradezu legitimieren würde, anstatt ihn zu verbieten.
Baldwin eröffnet die Reichskonferenz
Baldwin eröffnet die Reichskonferenz Erweiterte Rechte der Dominions Nachrichtendienst der " Vossischen Zeitung " whe London, 19. Oktober Nach der Einweihung einer Erinnerungstafel in der WestminsterAbtei, auf der verzeichnet steht, daß eine Million Briten im Weltkriege gefallen sind, begaben sich die Premierminister der Dominien nach der Downingstreet zur Eröffnung der Reichskonferenz. Lebhaftes Interesse brachte das Publikum den Dominienvertretern entgegen: dem weißhaarigen Südafrikaner Hertzog, dem noch jugendlichen, rundlichen, meist freundlich lächelnden Kanadier King, dem bartlosen scharfgeschnittenen Juristentyp des Australiers Bruce und dem Vertreter Indiens, dem Maharadscha von Bordwan, dem einzigen, der in das Schwarz von Cutaway und Zylinder eine Note von Farbe trug. Die heutige erste Sitzung der Reichskonferenz dauerte etwa zwei Stunden und beschäftigte sich mit der Geschäftsordnung, Einrichtung des Sekretariats, in dem gleichberechtigt auch Vertreter der Kolonien neben Beamten des Mutterlandes eingestellt wurden, und der Erörterung des Beratungsprogramms, das Baldwin in seiner Eröffnungsrede ausführlich schildert. Die wichtigsten Kapitel sind Einwirkung der Dominien auf die Außenpolitik des Mutterlandes, Uebernahme von Verteidigungslasten, Förderung des Handels zwischen dem Mutterland und den Kolonien, Siedlungsfragen und die Bekämpfung der Vormachtstellung des amerikanischen Films in den englischsprechenden Gebieten. Baldwin polemisiert in seiner Rede gegen die Auffassung, daß auf den bisherigen Reichskonferenzen keine praktische Arbeit geleistet worden sei. Er warnt vor einer schriftlichen Festlegung der Beziehungen zwischen dem Mutterland und den Kolonien in einer " theoretisch ausgedachten Verfassung ". Es könne nicht länger die Aufgabe der Reichskonferenz bleiben, nachträglich die Außenpolitik Englands zu billigen, sondern es müßte ständig Uebereinstimmung über die Außenpolitik des Empire erzielt werden. Die Konferenz wolle unvoreingenommen jeden Vorschlag prüfen, der geeignet sei, die beratende Mitwirkung der Dominions in der Außenpolitik zu verstärken. Dann streifte Baldwin die Notwendigkeit, den Handel zwischen dem Mutterland und den Kolonien intensiver zu gestalten. Die gesamte Verteidigungspolitik des Weltreiches sei vor allem in der Richtung auf eine Neuverteilung der Lasten einer Revision zu unterziehen. Die Antworten der Premierminister brachten die grundsätzliche Bereitwilligkeit zur Mitarbeit zum Ausdruck. Hertzog betonte, daß Südafrika am britischen Weltreich festhalten werde, und zwar unabhängig von allen Parteigefühlen und Rasseinstinkten, solange das englische Weltreich eine Gemeinschaft freier und unabhängiger Nationen sei, die in keiner Weise durch eine Verfassung eingeengt würden, aber die zugleich entschlossen seien, durch gemeinsame Beratung, wo es nur irgend möglich sei, gemeinsam zu handeln und das gemeinsame Wohl zu fördern. Weil Südafrika überzeugt sei, daß das Empire eine Gemeinschaft sei, bestimmt, die nächste Zukunft zu überdauern, sei es notwendig, die Fundamente zu überprüfen und die gutwillige Mitarbeit aller Glieder zu sichern. Südafrika verlange vor allem in den Beziehungen zum Ausland die Anerkennung seiner Gleichwertigkeit mit allen anderen Gliedern des Weltreichs. Der Vertreter Indiens, der Maharadscha von Burdwan, verlangte in seiner Rede eine befriedigende Regelung der Rechte der Inder in Südafrika. Nach einem Referat von Chamberlain über die England interessierenden außenpolitischen Fragen beginnt morgen in der Reichskonferenz die Aussprache über das erweiterte Mitbestimmungsrecht der Dominions. Die Mindestkonzession, zu der man sich auf englischer Seite trotz des Sträubens aller Zunftdiplomaten entschlossen hat, ist die Gewährung des Botschafterranges für die in London niedergelassenen Kommissare der Dominions. Der Botschafterrang würde es den ständigen Vertretern der Dominions ermöglichen, unmittelbar im Kabinett ihren Standpunkt vorzutragen.
Europäische Politik
Europäische Politik Auch ein Nachwort zum Paneuropa-Kongreß Von Max Cohen-Reuß Der erste paneuropäische Kongreß, bei dem viele Tausende zusammengeströmt waren, um für eine große Idee zu demonstrieren, hat in den verschiedenen politischen Lagern die verschiedenste Beurteilung erfahren. Während die einen ihn von oben herab als eine Spielerei, als eine persönliche Marotte eines internationalen Grafen abzutun versuchten, ist er von anderen im Sinne des bekannten Goethe-Wortes von Valmy als Weltenwende bezeichnet worden. Beide Beurteilungen sind falsch. Die Bedeutung des Kongresses kann nur dann richtig gewürdigt werden, wenn man ihn in dem ganzen Zusammenhang, aus dem die Idee der europäischen Verständigung geboren ist, betrachtet. Als während des Weltkrieges Deutschland in seiner bedrängten Lage nach einem Ausweg suchte, erwies sich, daß die Idee von der wirtschaftsimperialen Gestaltung der Welt, wie sie in den " Sozialistischen Monatsheften " immer wieder vertreten wurde, gerade für Deutschlands zukunftsweisend war und dem großen Zusammenstoß der Völker zugleich einen historischen Sinn gab. Diese Idee basierte auf der Auffassung, daß eine welthistorische Entwicklung zur Bildung von fünf großen Wirtschaftskomplexen führe: zum ostasiatischen (Japan und China), zum russischen, zum panamerikanischen, zum großbritischen und zum kontinentaleuropäischen Wirtschaftsimperium. Zugleich gab diese Idee ihren Vertretern die Möglichkeit, auch eine bestimmte Kriegszielpolitik: die der östlichen Orientierung, zu verfolgen, um von diesem Fundament aus die kontinentale Zusammenfassung Europas zu bewirken. Diese Auffassung über die politische und wirtschaftliche Entwicklung war natürlich nicht ein gelegentlich geäußerter Gedanke, sondern vielmehr die Grundlage einer konstruktiven Politik, die sich auf alle Gebiete der Wirtschaft, der Politik und des Geistes anwenden ließ; sie war zugleich das eigentliche Programm des genannten Organs, das nicht nur während des Krieges selber, sondern auch in den schwierigsten Zeiten der Nachkriegszeit vertreten wurde, auch wenn es, wie im Ruhrkrieg, zu größter Unpopularität führte. Von diesem Zentrum aus ist die Idee der kontinentaleuropäischen Zusammenfassung durch mannigfache Kanäle in politische, wirtschaftliche und geistige Kreise eingedrungen und namentlich auch von der " Vossischen Zeitung " bereits seit einem Jahrzehnt mit größter Folgerichtigkeit verfochten worden. Vor etwa drei Jahren hat der geistig überaus regsame Dr. Graf Coudenhove-Kalergi diese Idee aufgenommen, er gehört seit dieser Zeit zu ihren energischsten Verfechtern, und die europäische Bewegung hat durch ihn einen sehr erwünschten Zuwachs an geistiger Aktivität erhalten. Die Schriften und sonstigen Kundgebungen Coudenhoves zeigen, daß er, soweit das Konstruktive in Betracht kommt, die Idee der kontinentaleuropäischen Verständigung ausgezeichnet erfaßt hat und genau wie die Gruppe der " Sozialistischen Monatshefte " die Entwicklung zu fünf Wirtschaftsimperien sieht, von denen das fünfte, das kontinentale Europa, freilich noch herzustellen ist. Die energische Propaganda Coudenhoves hat großen äußeren Erfolg gehabt und ist von uns, denen die Förderung dieser Sache alles war, lebhaft begrüßt worden. Leider haben sich nach zwei Richtungen hin auch Nachteile herausgestellt. Coudenhove-Kalergi vertritt eine etwas andere Terminologie: er spricht von Kontinenten, während wir von Wirtschaftskomplexen oder Wirtschaftsimperien sprechen. Das ist im Wortsinn etwas anderes. Sodann spricht Coudenhove leider (statt richtig von Kontinentaleuropa) von Paneuropa, was uns nicht nur ein falscher Begriff zu sein scheint, sondern auch zu den etwas komischen Debatten über die " Aufnahme " oder die " Nichtaufnahme " von Großbritannien geführt hat. Trotz dieser Verschiedenheiten kann man mit der populären Propaganda Coudenhoves recht einverstanden sein, und jeder Anhänger der europäischen Verständigung hat das Zustandekommen des ersten paneuropäischen Kongresses begrüßt. Wenn auch beide Richtungen die Frage von verschiedenen Seiten her anpacken: wir organisch gestaltend, Coudenhove in der Hauptsache organisatorisch-technisch, so stehen diese Verschiedenheiten einer engen Zusammenarbeit durchaus nicht im Wege. Während wir den inneren Tendenzen der weltwirtschaftlichen Entwicklung nachzuspüren versuchen und ihr durch schaffende Aufbauarbeit zu ihrem eigentlichen Sinn verhelfen wollen, glaubt Coudenhove dem Ziel durch Bildung einer europäischen Liga (Organisation) näher zu kommen. Wir wenden gar nichts dagegen ein, denn die Bearbeitung der Geister im europäischen Sinn ist eine Tat und notwendig, obwohl wir im Eisenpakt, in Arbeitsgemeinschaften zwischen deutscher Kohle und französischen Erzen, in der Zusammenarbeit auf dem Gebiete des Kalis, der Chemie und auf anderen Produktionsgebieten die wich -