世界日報
- 世界日報副刊の合本
- 京漢鉄道管理局重要広告
- 弁護士高穣の告知
1926年10月20日付の北京『世界日報』紙面には、ここで読む3件が載った。合訂本の広告は、北京大学の劉半農博士が主編する副刊の一か月分を1冊120ページにまとめた合訂本を宣伝し、古新聞を綴じただけの粗悪品とは違う印刷と装丁を強調して、青年に一人一冊を勧めた。京漢鉄道管理局は1926年9月11日付の第246号広告で、北京・石家荘間の第7・第8特別急行の運転を止め、貨車を連結した第21・第22普通客車に切り替えると告げた。管理局は理由として車両の調整と輸送の便を挙げた。弁護士高穣の告知という見出しの欄には、判読できる範囲で顔用化粧品の広告の断片が載っていた。この読み取りは紙面の小さな活字の表や広告の大半を含まない。
この読み取りは1926年10月20日付紙面のうち3件を扱い、乱れたOCRではなく画像から文字を起こしている。[?] は判読できない文字を示し、推測で補っていない。弁護士高穣の告知という見出しの欄は、判読できる部分の大半が顔用化粧品の広告の断片で、告知本文は特定できない。このため、この読み取りは北京の証券取引所の債権回収について何も明らかにしていない。鉄道広告の冒頭の断片は隣の広告の一部である。小さな活字の表、書籍目録、薬の広告、四部叢刊の内容見本は一部しか読めず、この読み取りに含まれない。
翻訳
世界日報副刊の合本
世界日報 丙寅 [?] 第一 [?] 第二 [?] 第三 [?]
世界日報副刊合訂本
世界日報副刊は北大 [?] の劉半農博士が主編を務め、[?] を担当する者も多くは当代の学識ある人士である [?]。[?] 合訂本は一か月分の掲載を集めて [?] 一冊としたもので、印刷も装丁もともに極めて [?]、ありふれた古新聞を綴じただけの [?] 粗悪なものとはまったく異なる。毎 [?] 120ページ、作品は一 [?] 十種以上に及び、内容は豊富で、[?] と趣味をともに重んじている。青年は授業の合間に [?]、一人一冊を手にすべきである。毎冊 実価 郵送料加算 旧暦八 [?]
京漢鉄道管理局重要広告
…まったく異なる……は一部の住所で、廊房二条西口、電話南局3321
京漢鉄道管理局重要広告 第246号
謹んで告げる。本路は車両を調整し輸送の便を図るため、本日より北京・石家荘間を往復する第7・第8特別急行の運転を停止し、別に第21・第22普通客車を編成して貨車を連結し、毎日北京・石家荘間を往復させて旅客と貨物を運ぶこととする。ここに急ぎ布告し、広く周知させる。以上布告する。
中華民国15年9月11日
弁護士高穣の告知
……丸、伝来百余……炎症の瘡、血の筋、魚肉のような疹、かび、光 [?] 陥没、眼科の重症のある者……元……送らず、黒 [?] [?] 色、酒さ、にきび [?] [?] [?] [?] しわ、傷、ひび割れ [?] 風霜、一切の顔面の [?] [?] [?] 容貌を換えることができ [?] 顔は艶やか [?] 無 [?] [?] [?] [?] [?] [?] 取り除くことができ、無 [?] 為 [?] 安 [?] [?] [?] 施 [?] [?] [?] 誇張 [?] 君よ試しに擦り込めば、この言葉に偽りのないことがわかる。試用、一組ごとに増量、中号4角、大瓶1元(、号 ▼ 海五 [?] 商 [?]
解説
京漢鉄道が北京・石家荘間の急行を止めた事情
京漢鉄道管理局は第246号広告で、急行停止の理由として車両の調整と輸送の便だけを挙げた。管理局は北京・石家荘間の第7・第8特別急行をやめ、貨車を連結した毎日運行の第21・第22普通客車に切り替えた。京漢鉄道は1905年11月14日に全長1,214キロ、125駅の路線として開業し、ベルギー系の建設会社から買い戻されて1909年1月1日に中国側の管理下に入った幹線である。1920年代には軍閥がこの路線に力を及ぼし、1923年には呉佩孚が憲兵を送って鉄道労働者の連合会の結成式を妨害した。1926年には沿線で戦争が続いていた。米国公使は同年3月、呉佩孚が京漢・隴海両線の分岐点である鄭州を占領したと本国に報告し、天津・北京間の列車は1日2往復が動いているものの遅れがちで、近く止まるおそれがあると伝えた。同じ1926年には張作霖と呉佩孚が北京で連合政府を組織し、外国の公使団はこの政府を承認しなかった。7月には広州の国民政府が北伐を始めた。これらの記録は、広告が出た時期に鉄道の沿線と周辺で戦争が続いていたことを示している。ただし、どの記録も第7・第8列車に使われていた車両の行き先を記していない。軍による車両徴用との結び付きは推測として成り立つが、広告もこれらの記録もそれを証明していない。
劉半農の副刊と学術への傾き
合訂本の広告は劉半農の名前を掲げ、執筆者を当代の学識ある人士と呼び、判読できない一語と趣味を同じく重んじると書いた。文学研究者の袁一丹の論文によると、劉半農は1926年に帰国して間もなく旧友の成舍我に招かれ、『世界日報副刊』の編集を引き受けた。世界日報の副刊創刊予告は、『新青年』の旧同人と『語絲』の新同人が原稿を続けて送ると約束したと伝えた。合訂本の広告が執筆者の学識を強調した背景には、この予告がある。銭玄同は予告を見て抗議の手紙を送り、自分の文章を『明珠』や『春明外史』と並べたくないと伝えた。劉半農は返信で、この副刊は張恨水が編集する『世界日報・明珠』とは関係がないと説明した。袁一丹は、劉半農が副刊を楽しみながら学ぶ場と位置づけたものの、講学と趣味のうちでは講学に重きを置いたと論じている。袁一丹はまた、この編集の仕事が半年余りしか続かなかったと記している。研究者の見方では、この副刊の特徴は均衡よりも学術への傾きにあった。
広告が劉半農を博士と呼んだ理由
広告の北京大学の劉半農博士という呼び方には、劉半農自身の経歴が関わっている。周作人の回想によると、劉半農は北京大学予科で国文と文法概論を教えていたが、学歴がなかったために胡適らに見下され、強い刺激を受けて五四運動の後に欧州留学を願い出た。劉半農はフランスに数年住んで中国語の音声学を専攻し、フランス国家博士の学位を得て帰国した。周作人は、それがアメリカの博士たちに見せるためだったと書き、友人たちがその後劉半農を劉博士とからかって呼んだと記した。周作人のこの回想は後年のもので、引用した論文の注は、この文章が胡適思想批判運動の後に書かれたことに注意を促している。この事情から、周作人が描いた胡適らの態度には時代の影響が入っている可能性がある。それでも回想は、1926年の新聞が劉半農の名に博士の肩書を付けた理由を説明している。広告は、苦労して得た新しい学位を副刊の信用の裏づけとして使ったと考えられる。
世界日報を創刊した成舍我
世界日報副刊の母体である『世界日報』は、新聞人の成舍我が創刊した新聞である。成舍我は1915年に上海へ出て売文公司を設立し、1917年に北京へ移った。成舍我は北京大学で中国文学を専攻して1921年に卒業し、その後『世界晩報』『世界日報』『世界画報』を創刊した。1926年に劉半農を副刊の編集に招いたのも成舍我である。成舍我は北京大学の卒業生であり、劉半農は北京大学で教えた人物である。合訂本の広告も、北京大学の名と劉半農の博士の肩書を前に出して若い読者に呼びかけた。
原文
世界日報副刊合訂本
世界日報丙寅 [?] 第一 [?] 第二 [?] 第三 [?] 世界日報副刊合訂本世界日報副刊, 爲北大 [?] 劉半農博士主編, 担任 [?] 者, 亦多一時績學之士 [?] 訂本乃彙集一月所載, [?] 一冊, 印刷裝潢, 均極 [?], 與尋常以舊報裝訂, [?] 粗劣者, 完全不同, 每 [?] 一百二十頁, 作品在一 [?] 十種以上, 內容豐富, [?] 與趣味并重, 青年課餘 [?] 當人手一編也。 每本實加郵費陰歷八 [?]
京漢鐵路管理局緊要廣告
全不同 … … 是一部份的地址廊房二條西口電南三三二一京漢鐵路管理局緊要廣告第二百四十六號啓者本路現因調濟車輛便利運輸起見自即日起將往來北京石家庄之第七八兩次特別快車停止開行另組第二十一及二十二兩次尋常客車附挂貨車逐日往來北京石家庄間載運客貨合亟佈告俾衆週知此佈中華民國十五年九月十一日
律師高穰啟事
丸世傳一百餘炎瘡血絲魚肉疹黴光 [?] 陷內有眼科大症者元者不寄黑 [?] [?] 色酒刺粉刺 [?] [?] [?] [?] 紋疵裂路 [?] 風霜一切面部 [?] [?] [?] 能換容 [?] 面嬌 [?] 無 [?] [?] [?] [?] [?] [?] 能去無 [?] 爲 [?] 安 [?] [?] [?] 施 [?] [?] [?] 誇口 [?] 君試擦方知言之不欺也試每雙加料中號四毛大瓶一元 (、 號 ▼ 海五 [?] 商 [?]