新聞を読み込んでいます… / Loading the edition…

· ジュネーヴ(スイス) · フランス語

Journal de Genève

1926年10月20日の「ジュルナル・ド・ジュネーヴ」紙は、ロンドンで帝国会議が開幕した日の日付を持つW. M.の署名コラムを載せた。筆者は、自治領の代表が英国に対して自国民の権利を断固として守ると見込み、自治領が対外関係を自ら運営する流れを国際連盟が早めたと論じた。筆者はその例として、カナダが米国と結んだ漁業条約や、オーストラリアの郵便条約が英国を介さずにジュネーヴで登録されたことを挙げた。同じ面でJ. M.は、1919年の大幅な引き上げから1923年の削減、大評議会委員会による削減の緩和までジュネーヴ州公務員の給与の経緯をたどった。J. M.は、1927年度予算案が6百万の赤字を見込むなかで、900,000フランを生む削減の延長は厳しいが必要だと主張した。商業の自由を扱う記事については、この読み取りは見出ししか含まない。

翻訳

帝国会議

1926年10月19日 […]帝国[…]は、フランス系のケベック州に支えられている。これらの国々を代表する人々は、英国に対して自国民の権利を断固として守るものと期待してよい。そもそもこの3年間で、自治領が自らの対外関係を自分で運営する方向への変化は加速しており、そこには国際連盟が一定の役割を果たしたと言わねばならない。1923年3月2日、カナダは独自の権限で米国と漁業条約に調印し、1925年2月2日には英国を介さずにそれをジュネーヴで登録させた。オーストラリアも各種の郵便条約について同じことをした。アイルランドは7月11日、[?] [?] [?] [?] [?] [?] [?] [?] [?]を登録させた。

900,000フランの節約

900,000フランの節約 — 1919年、公務員の給与は大幅に引き上げられていた。1923年、前任の国務評議会は、生活費が大きく下がり、財政状況が深刻であることを認めて、次のような趣旨の法案を提出した。給与のうち一定部分(2500フラン)には手を付けない。それを超える部分については、教育職を除くすべての公務員に10%の削減を行う。教育職からは15%を差し引く。教育職は1919年の引き上げ幅がより大きく、また他の職員のように1日1時間の追加勤務を求められていないからである。教育以外に収入のある職業を持つ教員については、2500フランの削減対象外の最低額を廃止する¹。これにより、1926年まで(同年を含む)、年におよそ100万フランと見積もられる節約が生じるはずだった。大評議会の委員会の多数派は、政府案を緩めた。削減対象外の最低額を2500フランではなく3500フランとし、子ども1人につき500フランを同じく対象外として上乗せし、教育職員にも他の公務員と同じく10%を適用するとした。少数派(報告者ジャン・セヴェ氏)は、ほぼ全面的に—

商業の自由

……われわれの財政。1927年度予算案は600万の赤字を見込んでいる。この600万は、ほかで埋め合わせなければならない。給与削減延長法案は、第1案と第2案のどちらを採用するにせよ、それ自体として900,000フランの節約をもたらすはずである。厳しいが、残念ながら必要なことである。J. M. 商業の自由

解説

国際連盟総会に続けて日程を組んだ帝国会議

W. M.のコラムは1926年10月19日の日付を持ち、この日にロンドンで第5回帝国会議が開幕した。会議は11月23日まで続いた。主催者は、自治領代表の移動を減らすため、ジュネーヴで開かれた1926年の国際連盟総会の直後に会議の日程を置いた。コラムは、自治領が対外関係を自ら運営する流れに連盟が一定の役割を果たしたと書いており、この主張は戦後処理の実際の仕組みに沿っている。1919年、自治領は英帝国代表団の一部としてヴェルサイユ条約に署名したが、国際連盟には個別の加盟国として加わった。その結果、自治領はジュネーヴで独自の国際的な立場を得た。

カナダが英国抜きで結んだ漁業条約

コラムが挙げたカナダの漁業条約は、ハリバット条約として知られる米国とカナダの漁業協定である。カナダの歴史教材は、この条約でカナダが初めて英国を関与させずに自国の条約を交渉し調印したと説明している。1923年の帝国会議は、マッケンジー・キング首相が英国抜きでこの条約に調印した行動を承認した。調印を1923年3月2日、ジュネーヴでの登録を1925年2月2日とする日付はコラム自身の記述であり、オーストラリアの郵便条約やアイルランドの登録に関する記述も同じくコラムによるものである。W. M.は、連盟の条約登録を根拠に、自治領が1926年の会議より前から独立した国際的当事者として行動していたことを示そうとした。

会議が出した結論としてのバルフォア宣言

コラムは自治領の指導者が英国に対して自国民の権利を主張すると予想し、会議の結論はその主張に正式な形を与えた。地位に関する声明を最初に提案したのは、南アフリカのJ. B. M.ヘルツォーク首相とカナダのマッケンジー・キング首相である。アーサー・バルフォアが委員長を務めた帝国間関係委員会が文書を作成し、各国首相は1926年11月15日にそれを全会一致で承認した。宣言は、英国と自治領を、英帝国内の自治的な共同体であり、地位において対等で、互いにいかなる点でも従属しないものと定めた。1930年の会議はこの結論を再確認し、1931年12月のウェストミンスター憲章がそれを法律に組み込んだ。こうして、W. M.が1926年に描いた変化は憲法上の取り決めになった。

同じ時期に出た銀行家たちの欧州貿易自由化の訴え

「商業の自由」という見出しは、まさにこの主題を扱う訴えが広く報じられたのとほぼ同じ時期に紙面に出た。米誌タイムは1926年11月1日号で、前の週のある朝、ロンドンで代理人たちが通信社に連名の文書を手渡したと報じた。この文書には100人を超える有力な金融家が署名し、欧州諸国に国際貿易を妨げる関税障壁の撤廃を求めていた。文書の題名は「欧州貿易に対する制限の撤廃を求める訴え」だった。配布した側は起草者を明かさなかった。モルガン商会のトーマス・W・ラモントは、この声明が以前から国際的な金融家の間で回覧されていたと述べた。ヒャルマル・シャハトは、声明が英国で最近開かれた独英の産業家会議と結びついていると語った。この読み取りはジュネーヴの記事の見出ししか含まないため、紙面がこの声明を論じたかどうかは確かめられない。これとは別に、ルイ・ルシュールが1925年に提案した国際連盟の世界経済会議が、1927年5月4日から23日までジュネーヴで46の加盟国を集めて開かれた。タイムの記事は、この声明をその会議と結びつけていない。

原文

La Conférence impériale

19 octobre 1926 - ence impériale s'appuie sur la province française de Québec. On peut compter sur les hommes qui représentent ces Etats pour défendre fermement, en face de la Grande-Bretagne, les droits de leurs peuples. D'ailleurs, depuis trois ans, l'évolution qui porte les dominions à conduire eux-mêmes leurs affaires extérieures s'est précipitée, et il faut dire que la Société des nations y a joué un certain rôle. Le 2 mars 1923, le Canada a, de sa propre autorité, signé avec les Etats-Unis un traité de pêche et l'a fait enregistrer à Genève, le 2 février 1925, sans passer par l'intermédiaire de la Grande-Bretagne. L'Australie a fait de même pour diverses conventions postales. L'Irlande a fait enregistrer, le 11 juillet [?] [?] [?] [?] [?] [?] [?] [?] [?]

900.000 fr. d'économies

900. 000 fr. d'économies - En 1919, les traitements des fonctionnaires avaient été augmentés dans des proportions considérables; en 1923, l'ancien Conseil d'Etat, constatant que le coût de la vie avait beaucoup diminué et que la situation financière était grave, présenta un projet de loi dont la substance était la suivante: une tranche des traitements (2500 fr.) restait intangible; sur le surplus, une réduction de 10% était opérée pour tous les fonctionnaires sauf ceux de l'enseignement, auxquels on enlevait 15% en raison du fait que l'augmentation avait été pour eux plus forte en 1919 et qu'on ne leur demandait pas, comme aux autres, un supplément quotidien de travail d'une heure; le minimum intangible de 2500 fr. était supprimé pour les professeurs ayant une profession lucrative en dehors de leur enseignement¹. Le résultat devait être une économie évaluée grosso modo à un million de francs par an jusqu'en 1926 y compris. La majorité de la commission du Grand Conseil édulcora les propositions du gouvernement: minimum intangible 3500 au lieu de 2500; 500 fr. de plus par enfant également intangibles; 10% pour les membres du corps enseignant aussi bien que pour les autres fonctionnaires. La minorité (rapporteur M. Jean Cevey) approuvait à peu près intégra -

La liberté du commerce

nos finances. Le projet de budget de 1927 prévoit 6 millions de déficit. Ces 6 millions, il faut les retrouver par ailleurs. Pour sa part - que l'on adopte le système nº 1 ou le système nº 2 - le projet de prorogation de la réduction des traitements doit procurer 900. 000 fr. d'économies. C'est dur, mais c'est malheureusement nécessaire. J. M. La liberté du commerce

紙面の出典:Source: Le Temps archives / Journal de Geneve

万国一面について →

本日の新聞一覧

街を巡る ↑
100%
原紙を拡大して読む

つまんで拡大 · 指で紙を動かす