Vossische Zeitung
- フェーメ殺人裁判、公開で
- 無責任な者たちの扇動
- トロツキー、ジノヴィエフ、カーメネフ処分
1926年10月25日のフォス新聞は、ヴァルテ河畔ランツベルクの陪審裁判所で最初のフェーメ殺人裁判が始まったことを伝えた。同紙によれば、自動車運転手、薬種商、商人がリヒャルト・ヤーンケの毒殺を図った容疑で起訴され、商人は脅迫によって薬種商に毒を調達させたとされた。別の記事はある新聞の論評を引き、大使会議が軍事管理を再び議論したことや、国境の両側の無責任な記者が条件を言い合ったことを理由に、ロカルノ、ジュネーヴ、トワリーの政策が終わったとみなすのは笑止千万だと紹介した。モスクワ発の記事は、ソ連共産党の中央委員会と中央統制委員会の合同総会が反対派の幹部らに警告を与え、ジノヴィエフのコミンテルンでの活動を禁じ、トロツキーを政治局から外し、カーメネフを政治局員候補の名簿から削除したと報じた。
翻訳
フェーメ殺人裁判、公開で
ヴァルテ河畔ランツベルクの地方裁判所に置かれた陪審裁判所が今会期に審理するフェーメ殺人裁判のうち、最初の裁判が本日、地方裁判所部長判事D・ヴェスリング――1910年から1920年までベルリン・シェーネベルクの区裁判所判事――を裁判長として始まった。被告は自動車運転手ラインホルト・トム、薬種商アルフレート・ラートマン、商人ハンス・ブーフホルツである。トムは[?] a. R.のリヒャルト・ヤーンケを毒によって殺害しようとした罪に問われ、ラートマンはその毒を調達したとされ、ブーフホルツは脅迫によってラートマンにそうさせたとされる。……
無責任な者たちの扇動
同紙の論じるところによれば、大使会議は事実を確認するための機関にすぎず、何らかの決定を下す権限は一切持たないが、その権限の範囲内で改めて軍事管理の問題を取り上げている。また、何人かの無責任なフランス人記者が、独仏交渉再開の前提条件を書き換える資格が自分たちにあると思い込み、国境の向こう側の同じく無責任な記者たちがその条件を受け入れられないと宣言している。こうしたことを理由に、ロカルノ、ジュネーヴ、トワリーの政策は最終的に破綻したと早くも結論づけてよいと考える人々がいる。それはまったく笑止千万だ、と同紙は述べる。
トロツキー、ジノヴィエフ、カーメネフ処分
昨日、共産党の中央統制委員会と中央委員会の合同総会が反対派に対する判定を下した。トロツキー、ジノヴィエフ、カーメネフ、ピャタコフ、エフドキーモフ、ソコリニコフ、スミルガ、ニコラーエワ夫人は、いずれも中央委員会の委員であり、「警告」を受けた。ジノヴィエフが「コミンテルン」(共産主義インターナショナル)で今後活動することは許されないと宣告された。トロツキーは共産党の指導権を握る政治局から除名され、カーメネフは政治局員候補の名簿から削除された。
解説
フェーメ裁判の背後にある黒い国防軍とキュストリンの労働部隊
フォス新聞のランツベルク報道は、被告3人の職業と毒殺未遂の容疑だけを伝えている。フェーメ殺人という言葉は、1926年には特定の意味を持っていた。この言葉は、主に極右団体が、裏切ったとみなした人物、しばしば自分たちの仲間を裁判によらずに殺害した事件を指していた。こうした殺害が起きた組織の一つが黒い国防軍である。黒い国防軍は、ヴェルサイユ条約に違反して国防軍に追加の予備兵力を供給するために使われた準軍事組織だった。指導者の一人であるパウル・シュルツ中尉は、国防省との私的な契約によって黒い国防軍の一員として復帰し、キュストリンに労働部隊を設ける任務を与えられた。シュルツは黒い国防軍の内部で特別部隊を指揮し、この部隊は軍事機密を漏らして国を裏切ったとみなされた者を殺害した。国防省の契約から殺害部隊までがこのようにつながっていたため、フェーメ裁判は毎回、正規の国防軍がどこまでこうした部隊を支えていたのかという政治問題を提起した。記事そのものは、被告や標的とされたリヒャルト・ヤーンケがどの組織に属していたかを記していない。
捜査の遅れ、判決、1930年の恩赦
見出しが強調した公開審理は、それまでのフェーメ殺人の扱われ方と比べると大きな意味を持っていた。警察と司法によるフェーメ犯罪の捜査は遅く、犯人が特定されても軽い刑や無罪で終わることが多かった。国会は社会民主党の要請を受けて1926年1月に調査委員会を設置しており、ランツベルクの裁判は国会が同じ問題を調べている最中に始まった。シュルツ自身の事件の判決は、この記事の数か月後に出た。1927年3月26日、パウル・シュルツは黒い国防軍のヴァルター・ヴィルムス軍曹の殺害を教唆した罪で死刑を宣告された。ヒンデンブルク大統領は1928年2月、この判決と関連する2件の死刑判決を終身刑に減刑した。1930年にはフェーメ殺人に対する恩赦が宣言され、有罪となって服役していたシュルツのような将校もその対象となった。
1926年にソ連共産党指導部が合同反対派を処分した経緯
モスクワ発の記事は、長く続いた党内闘争の一つの段階を伝えている。トロツキーの左翼反対派とジノヴィエフ、カーメネフの一派は、1926年7月の中央委員会と中央統制委員会の合同総会で、合同反対派として初めて公然と姿を現した。1926年10月にはスターリン派がトロツキーを政治局から外す票決を行い、同じ月までにカーメネフとジノヴィエフも政治局から外された。ジノヴィエフはこのときコミンテルン議長の地位も失った。フォス新聞が伝えた警告対象者の一覧、ジノヴィエフのコミンテルンでの活動禁止、トロツキーとカーメネフの政治局からの排除は、こうした変化とよく一致している。党指導部はその後も反対派への圧力を強めた。1927年12月の第15回党大会は反対派の見解を党員資格と両立しないと宣言し、反対派を除名した。ジノヴィエフとカーメネフは1936年の見せしめ裁判の末に死刑を宣告され、処刑された。
トワリー会談、軍事管理、大使会議
この見出しの下に引用された論評は、1926年秋の独仏接近がすでに終わったという見方に反論していた。ドイツは1926年9月10日に国際連盟に加盟しており、記事の挙げたジュネーヴはこの加盟を思い起こさせる。トワリーでブリアンは、ザール地方を早期にドイツへ返還し、ラインラントの軍事管理と占領を早く終わらせることに同意した。しかし、トワリーでの合意の範囲は、まもなく独仏両政府の異論によって縮小された。記事が触れた軍事管理は、争点の一つだった。シュトレーゼマンは軍事管理委員会の撤収を求め、フランス側はドイツで準軍事組織が増えていることを懸念した。シュトレーゼマンは日記に、大使会議がドイツにおけるロカルノ政策の終わりを意味する決定を記録してはならないと書いた。歴史家ゲルハルト・レンペルによれば、シュトレーゼマンは最終的にこの問題で主張を通し、ラインラントからの最終撤兵は期限より5年早い1930年に実現した。
原文
Der Fememord-Prozeß öffentlich
Der erste der Fememord-Prozesse, den das Schwurgericht beim Landgericht in Landsberg a. d. Warthe in dieser Session zu verhandeln hat, hat heute unter Vorsitz des Landgerichtsdirektors D. Weßling - von 1910 bis 1920 Amtsgerichtsrat in BerlinSchöneberg - begonnen. Angeklagt sind der Kraftwagenführer Reinhold Thom, der Drogist Alfred Rathmann und der Kaufmann Hans Buchholtz. Thom wird angeschuldigt, den [?] a. R. Richard Jahnke durch Gift zu töten versucht zu haben, Rathmann soll das Gift beschafft haben und Buchholtz soll diesen durch Bedrohung dazu genötigt haben. Im
Die Hetze der Unverantwortlichen
Weil die Botschafterkonferenz, führt das Blatt aus, die lediglich ein Organ zur Feststellung von Tatsachen ist, aber keinerlei Befugnisse zu irgendwelchen Entscheidungen hat, sich ihrer Kompetenz gemäß erneut mit der Frage der Militärkontrolle beschäftigt und weil einige unverantwortliche französische Journalisten berechtigt zu sein glauben, die Vorbedingungen für die Wiederaufnahme der deutsch-französischen Verhandlungen zu umschreiben, die von ebenso unverantwortlichen Journalisten von jenseits der Grenze für unannehmbar erklärt werden, glaubt man bereits ableiten zu dürfen, daß die Politik von Locarno, Genf und Thoiry endgültig in die Brüche gegangen sei. Das sei einfach lächerlich.
Trotzki, Sinowjew, Kamenew gemaßregelt
Gestern hat das vereinigte Plenum der Zentralkontrollkommission und des Zentralkomitees der Kommunistischen Partei das Urteil über die Opposition gefällt. Trotzki, Sinowjew, Kamenew, Pjatakow, Jewdokimow, Sokolnikow, Smilga und Frau Nikolajewa, alle Mitglieder des Zentralkomitees, erhielten eine " Verwarnung ". Die weitere Arbeit Sinowjews in der " Komintern " (kommunistischen Internationale) wird für unzulässig erklärt. Trotzki, wird aus dem Politischen Büro, in dessen Händen die Führung der Kommunistischen Partei liegt, ausgeschlossen, Kamenew von der Liste der Kandidaten für das Politische Büro gestrichen.