Politika
- ある文書
- 1903年5月29日を前にして
- 世間では何が語られているか
この読み取りでは、1926年10月25日付ポリティカ紙に載った3つの記事を取り上げた。M. P. M.の署名がある論説は、セルブ・クロアート・スロヴェーン王国が国際連盟理事会の議席を得られなかった理由を論じ、大国が持つ常任議席と、その他の国が総会の選挙で得る非常任議席という規約上の区別を説明した。1903年の政変で殺されたツィンツァル=マルコヴィチ首相の未亡人が署名した回想は、同首相の政府がクルップ社に急ぎ発注した大砲の支払いのため、首相府の金庫に7,000,000ディナールを保管していたと述べた。うわさ話の欄は、病気になったある次官補の体から見つかった糖がチュカリツァの製糖工場のものだという陰口を伝えた。
この読み取りは1926年10月25日付ポリティカ紙の紙面から3つの箇所を扱い、文字は紙面の画像から直接読み取っている。提供されたOCRの文字列は乱れが大きいため、読み取りには使っていない。画像の区切り目では語が切れており、1903年の記事の段と段の間で特に切れが多い。クルップに関する箇所の末尾にある不確かな年号は省いている。紙面のその他の記事は訳していない。
翻訳
ある文書
理事会における我が国の議席の問題は、国際連盟の最も重要な機関、したがって最も重要な国際機関である理事会において、規約第4条第1項の規定により我々が権利を持つはずの地位を確保できなかったという、我々の失敗の問題である。この規定によれば、理事会の議席は二種類ある。「常任」と「非常任」である。常任と非常任の違いは技術的には次の点にある。前者は大国の議席であり、連盟への加盟そのものが続く限り続く。後者はその他の国々の議席であり、それらの国が連盟の年次総会で行われる選挙を通じて得る任期の間だけ続く。したがって我が国は「その他の」国の一つとして、理事会の非常任議席に対する完全な権利を持っている。しかしその権利を手にするためには、総会によって理事国に選出されなければならない。
1903年5月29日を前にして
最後に、弾薬全般が不足していたことは周知のとおりであり、とりわけ速射砲が多数必要であったことから、ツィンツァル=マルコヴィチ将軍の政府は首相府の金庫に7,000,000ディナールの金額を保管していた。この金は、当時クルップ工場に急ぎ発注していた大砲その他の軍需品の支払いに充てるためのものであった。
世間では何が語られているか
ある次官補が病気になり、療養のためある療養所に入った。診察の結果、蛋白のほかに糖まで出ていることがわかった。すると意地の悪い陰口屋たちは、さっそくその糖はチュカリツァ産だと言いふらす理由を見つけた。
解説
1926年の国際連盟理事会の議席配分
M. P. M.の論説は規約第4条を根拠にしており、連盟の実際の仕組みもこの説明と一致する。理事会は当初、イギリス、フランス、イタリア、日本の4つの常任理事国と、総会が3年の任期で選ぶ4つの非常任理事国で発足した。総会は選挙機関として非常任理事国を選ぶ権限を持っていた。1926年には非常任理事国の数が9に増え、同じ年の1926年9月8日の総会決議によってドイツが常任理事国になった。論説の筆者が不満を述べたのは、理事会が組み替えられ、選挙で得られる議席がそれまでで最も多くなった直後のことである。同紙によれば、それでもセルブ・クロアート・スロヴェーン王国は議席を得られず、同紙はこれを国の失敗と呼んでいる。
モムチロ・ニンチッチとジュネーヴにおける王国の地位
王国は連盟の中で、論説が取り上げた理事会の問題とは別の地位も得ていた。モムチロ・ニンチッチは1899年にパリで博士号を取った法律家であり、人民急進党の一員として1912年から政府の閣僚職を何度も務めた。ニンチッチは1926年から1927年にかけて国際連盟総会の議長を務めた。つまりポリティカ紙が理事会の問題を失敗と呼んだ時期に、王国の有力な政治家が連盟総会の議長を務めていたことになる。この対比から、王国がジュネーヴで目に見える役割を持っていたことがわかる。同紙によれば、それでも王国は実際の執行力を持つ理事会の選挙議席には届かなかった。
ツィンツァル=マルコヴィチ将軍と1903年5月29日の政変
ディミトリエ・ツィンツァル=マルコヴィチは将軍であり、ミラン王の側近としてセルビア王国軍の改革と拡充に大きく貢献した。アレクサンダル・オブレノヴィチ王は1902年11月6日、ツィンツァル=マルコヴィチを首班とする政府を発足させた。陸軍将校の一団は1903年6月10日から11日にかけての夜、旧暦では5月28日から29日にかけての夜に、ベオグラードの旧宮殿でアレクサンダル王とドラガ王妃を殺害した。共謀者たちはこのとき首相のツィンツァル=マルコヴィチも殺した。見出しにある5月29日はこの政変の日付にあたる。この寄稿には未亡人マリヤの署名がある。政府が首相府の金庫に7,000,000ディナールを置き、クルップへの急ぎの発注に備えていたという話は、事件の23年後に未亡人自身が書いた証言である。未亡人はこの証言によって、夫の内閣が倒された時点で国の軍備を急いでいたと描いている。
チュカリツァの製糖工場と次官補をめぐる陰口
ベオグラードのチュカリツァにある製糖工場は1901年に建てられ、セルビアで最初の製糖工場だった。第一次世界大戦後、この工場は1925年まで司法省の管理下にあった。工場は1925年に国が過半を所有する企業となり、国立チュカリツァ製糖工場と名づけられた。したがって1926年秋の時点で、チュカリツァの砂糖は国営企業の製品だった。うわさ欄に出てくる陰口屋たちは、省の高官の診察で見つかった糖が、国の砂糖を不正に手に入れた結果だとほのめかしていた。同紙は誰の名前も挙げず、この結びつきを意地の悪い陰口として扱っている。この記事は、当時のベオグラードで役人に向けられていた疑いの空気を伝えている。
原文
Један докуменат
Питање нашега чланства у Савету питање је нашег неуспеха да у том најважнијем органу Лиге Народа, па стога и најважнијем међународном органу, осигурамо себи место на које бисмо по одредби чл. 4. ал. 1. Пакта имали право. По овој одредби чланство у Савету двојако је. Оно је " стално " и " нестално " с тим да разлика између сталног и несталног чланства технички лежи у томе што је прво чланство Великих Сила и траје док траје и само чланство у Лиги, а друго чланство осталих Сила које траје док траје мандат до којег те Силе долазе путем избора обављеним на годишњим Лигиним Скупштинама. Наша земља, као једна од " осталих " Сила, има стога пуно право на нестално чланство у Савету, али да би до тог права дошла потребно је да у чланство од стране Скупштине буде изабрана.
Пред 29 мај 1903
Најзад, с обзиром на познату оскудицу у муницији уопште, као и нарочита потреба у већем броју брзометних топова, влада генерала Цинцар-Марковића, држала је у каси Председништва Министарства Суму од 7. 000. 000 дан., будући одређена за исплату у том времену хитно наручиваног топовског и другог ратног материјала у Круповој фабрици.
Шта се говори?
Један министарски помоћник разболео се и отишао на лечење у један санаториум. При прегледу нађено је да сем беланчевине има још и шећера. А зли и пакосни језици нашли су одмах разлога да разгласе како је тај шећер са Чукарице.