Politika
- 鉄鋼協定
1926年10月24日付のポリティカは、「鉄鋼協定」と題する論説を載せた。この論説は、大陸の鉄鋼業者が国際カルテルを結んでから約ひと月後に掲載された。論説は、鉄と鋼の生産と輸出をめぐる競争を世界大戦の主な原因と呼ぶのは言い過ぎだと述べた。そのうえで論説は、この競争が前世紀末から深まった英独対立の根底にあったと論じた。論説はさらに、その世紀の終わり近くまでイギリスが銑鉄と鋼の生産で首位にあったと指摘した。この翻訳は論説の冒頭部分だけを扱い、同じ紙面にあるコロシェツとラディッチの風刺漫画の台詞は含まない。
この号のOCR文字は大きく崩れているため、本文はページ画像から書き写した。ここで翻訳するのは「ЧЕЛИЧНИ ПАКТ」の冒頭部分だけである。風刺漫画「ИСКУСТВО」はコロシェツとラディッチの対話を描いているが、その台詞は話し手の名前以外は薄くて読めない。いくつかの段は画像の境目で端が切れている。この解説は、協定がユーゴスラビアでどう受け止められたかも、漫画の背景にあるコロシェツとラディッチの対立も扱わない。
翻訳
鉄鋼協定
鉄と鋼の生産と輸出をめぐる競争が世界大戦の主な原因だったと言えば、言い過ぎになるだろう。しかし、この競争が、前世紀の末からドイツとイギリスの間で深まってきたあの大きな対立の根底にあったことは否定できない。前世紀の終わり近くまで、銑鉄と鋼の生産で首位を占めていたのはイギリスであった。
解説
1926年の鉄鋼カルテルによる生産割当の仕組み
見出しの「鉄鋼協定」は、1926年9月20日に発足した国際鉄鋼協定を指す。この協定が発足したのは、ポリティカのこの号が出る約1か月前である。協定を運営したのは、ドイツ、フランス、ベルギー、ルクセンブルクの業界代表で構成する理事会である。カルテルは四半期ごとに生産割当を決め、加盟企業の総生産量をもとに各国の割当を計算した。各国の業者団体は自国が割当を守る責任を負い、割当を超えた生産1トンごとに4ドルをカルテルに支払う義務を負った。この仕組みには発足直後から無理が生じた。ドイツは1926年9月から12月まで割当を9〜25%上回り、270万ドルの違約金を支払った。ポリティカがこの論説を載せた時点で、協定は生産者どうしの新しい取り決めにすぎず、割当制度が守られるかどうかはまだ分からなかった。
1926年の鉄鋼協定の外にいたイギリス
論説は冒頭で英独の対立と、イギリスがかつて銑鉄と鋼の生産で首位だったことを取り上げている。この対立を大戦の原因と結びつける見方は、新聞自身の主張である。一方、論説が扱ったカルテルは大陸諸国の取り決めだった。発足時の理事会にはドイツ、フランス、ベルギー、ルクセンブルクが加わり、イギリス企業が加わったのは1929年である。この年に協定は、アメリカ、イギリス、カナダの企業との合意を通じて世界規模に広がった。イギリスの鉄鋼業者は以前から国境を越えた取り決めに関わっていた。ドイツ、フランス、ベルギー、イギリスの企業は、早くも1884年にレールの国際カルテルを結成している。大陸の内部では生産の差が大きかった。20世紀初めの時点で、ドイツの鋼生産はフランスの4倍に達していた。1926年の協定は主に独仏の均衡を扱う取り決めであり、論説がドイツの競争相手として挙げたイギリスは、当面その外にとどまっていた。
ルイ・ルシュールと平和策としての鉄鋼カルテル
論説は鉄鋼の競争を大戦の背景にあった対立と結びつけている。1926年の協定を支持した人々はこの議論を逆の方向から使い、カルテルを和解への道だと主張した。ノール県選出の下院議員で、何度も大臣を務めたルイ・ルシュールは、フランスとドイツの鉄鋼業者を結びつける欧州鉄鋼カルテルの結成を訴えた。ルシュールは、カルテルこそがフランスとドイツを和解させ、アメリカ経済と競争できる唯一の手段だと考えた。ルシュールは国際連盟でも盛んに活動し、カルテルをヨーロッパ合衆国への道を開く手段とみなした。こうした考えを持ったのはルシュールだけではない。戦間期のヨーロッパでは、カルテルを危機の時代に経済を安定させる新しい仕組みとみなし、さらには平和のための手段とみなす人々が現れた。この流れに照らすと、論説が1914年以前の鉄鋼競争を強調したことから、協定の支持者が協定に何を期待していたかが分かる。
原文
ЧЕЛИЧНИ ПАКТ
Претерано би било рећи, да је утакмица око производње и извоза гвожђа и челика, била главни повод за светски рат. Али је неоспорно да је она била у основи оне велике супротности, која се је од краја прошлога века развијала између Немачке и Енглеске. Све до пред крај тога века заузимала је Енглеска прво место у производњи сировога гвожђа и челика.