世界日報
- 世界日報副刊の合本
- 四部叢刊(しぶそうかん)
- 耳の奥の病と難聴
この日の世界日報の紙面には、ニュース記事がなく、広告と告知だけが並んだ。最も大きく読める広告は、副刊を月ごとにまとめた合訂本を宣伝した。広告は、副刊の主編が北京大学教授の劉半農博士だと伝えた。広告は、一冊が約百二十ページで作品百五十点以上を収め、印刷と装丁が美しいと述べ、青年に授業の後に読むよう勧めた。商務印書館は、創業三十年を記念して四部叢刊の第二次予約を募り、七年前の予約価格を据え置くと告げた。耳の病と難聴を根治すると約束する薬の広告も載った。
この紙面は広告と告知だけでできている。縦書きの段組みが乱れ、文字の読み誤りも多いため、小さな活字の書籍一覧、電話料金の告知、薬の広告の大半、四部叢刊の序文は一部しか読めない。この版は、はっきり読める三つの部分を訳し、合訂本の広告で読めない文字の位置に[?]の記号を残している。売薬広告の規制について述べた資料は見つからず、この版はその問題を扱っていない。
翻訳
世界日報副刊合訂本
世界日報副刊は、北京大学教授の劉半農博士が主編を務め、執筆を担う者もまた多くは当代の学識ある人士である。合訂本は一か月分の掲載を集めて一[?]に装丁したもので、印刷も装丁もきわめて美しく、古新聞を綴じただけの粗末な体裁の普通のものとはまったく異なる。毎[?]約百二十ページ、作品は百五十種以上で、内容は豊かであり、学問と趣味をともに重んじている。青年は授業の余暇に、一人一冊を手にすべきである。
四部叢刊
本館は創業三十年を記念して第二次予約を発行し、七年前の予約価格のまま、一文も上乗せしない。
耳の奥の病と難聴
完治を保証、根から除き、二度と再発しない。
解説
帰国したばかりの北京大学教授、劉半農
広告は副刊の主編を「北大教授劉半農博士」と紹介しており、博士の肩書きは得たばかりのものだった。劉半農は五四期に名を上げた人物である。劉半農の作品は1916年に、新文化運動で最も影響力のあった雑誌『新青年』に初めて載った。劉半農は北京大学で教職に就いたのち留学し、1925年にパリ大学ソルボンヌの音声学研究所で博士号を取った。劉半農は同じ1925年に帰国して大学で教え始め、北京の諸大学で音韻学を、北京大学で白話文学を講じた。劉半農は1926年に詩集『瓦釜集』と『揚鞭集』を出した。世界日報は、帰国から一年ほどで著作も相次いでいた学者の博士号と教授職を広告の冒頭に掲げ、副刊を売り込む材料にしたのである。劉半農が世界日報副刊を編集したことは、この広告自身の記述による。
成舎我の世界日報と北京大学のつながり
世界日報は、新聞人の成舎我が創刊した新聞である。成舎我は北京大学で中国文学を専攻し、1921年に卒業した。成舎我は卒業後、世界晩報、世界日報、世界画報という「世界」の名を冠した新聞を相次いで創刊した。北京大学の文学系を出た経営者である成舎我には、北京大学の教授を副刊の主編に迎え、合訂本を学生に売り込む十分な理由があったと考えられる。広告は学問と娯楽を合わせた内容を授業の後に読むよう勧めており、この勧め方は首都の教育を受けた若い読者を狙う新聞の姿勢に合っている。
創業三十年の商務印書館と四部叢刊
四部叢刊の広告を出した商務印書館は、1897年に夏瑞芳と三人の友人が上海で創業した出版社である。商務印書館は1926年に創業三十年目にあたり、広告はこの節目を記念として掲げた。編集者の張元済は、1903年から商務印書館の教科書と翻訳の叢書を作り上げた。張元済は四部叢刊の輯者としても記録されている。四部叢刊は、古代中国の著作を写真製版で複製した叢書である。広告は第二次予約を告げ、七年前の予約価格を据え置くと約束した。この予約の条件と七年前という時期は広告自身の記述による。
東方図書館と1932年の焼失
この広告が出たころ、商務印書館は1925年に東方図書館を創設したばかりだった。日本陸軍は1932年の第一次上海事変の際に商務印書館を爆撃した。この爆撃によって、商務印書館に付属する東方図書館と、数万冊の善本を含む50万冊以上の蔵書が失われた。1926年に創業三十年を祝い古典の複製を売り出した出版社は、その6年後に図書館と善本を失ったのである。
原文
世界日報副刊合訂本
世界日報副刊, 爲北大教授劉半農博士主編, 担任撰述者, 亦多一時積學之士, 合訂本乃彙集一月所載, 裝爲一 [?], 印刷裝潢, 均極精美, 與尋常以舊報裝訂, 形式粗劣者, 完全不同, 每 [?] 約一百二十頁, 作品在一百五十種以上, 內容豐富, 講學與趣味并重, 青年課餘, 所當人手一編也。
四部叢刊
本館爲創業三十年紀念起見發行第二次預約仍照七年前預約價不加分文
耳底耳聾
保好除根永不再犯