Politika
- 金融機関の監督
- 1903年5月29日を前に
1926年10月23日付のポリティカ紙は、性格の大きく異なる2つの記事を載せた。M・ネデリコヴィッチ博士は金融機関の監督を論じた署名コラムで、よく運営された銀行ではある比率が3対1、最大でも3½対1を超えてはならないと主張した。博士は、この比率を超えるとごくわずかな損失でも銀行自身の資本が尽き、損害が預金者と債権者に及ぶと警告した。もう一つの記事は1903年5月29日の国王殺害に至る時期を振り返る回想記であり、セルビアの国民を平穏で、不満があっても黙っていた人々として描いた。この回想記は、1900年の国王アレクサンダルとドラガ・マシンの結婚を国民の大多数が私的な出来事と受け止めたと述べ、その理由を無関心とおそらくは生来の無気力に求めた。
この版は、ページ画像から書き起こした2つの抜粋を訳している。提供されたOCRは破損がひどく、書き起こしには使えなかった。訳した抜粋は、M・ネデリコヴィッチ博士による金融機関の監督についてのコラムの一節と、回想記「1903年5月29日を前に」の一節である。どちらの記事も抜粋より先に続いている。回想記の抜粋には筆者名がなく、文の途中で途切れている。短い記事「Шта се говори?」は2つのタイルにまたがり、各行の左半分が欠けている。回想記の一部は文字がかすれていて確実には読めず、タイルの端にある行も途中で切れている。この版は、これらの部分を訳していない。
翻訳
金融機関の監督
しかし実際には、よく運営されている機関では、この比率は3対1を超えてはならず、最大でも3½対1までであることが示されている。そうでなければ、事業でごくわずかな割合の損失が出ただけで銀行の資本では損害を埋めきれず、その損害が預金者と債権者にも及ばざるをえなくなるという危険が、債権者と預金者に生じる。
1903年5月29日を前に
そしてこの内閣が辞職した後も、国民は引き続き平穏で、自らの内心の気分をいかなる目に見える形でも示さなかった。そのため国民の不満でさえも――もしそれがあったとしても――黙したままだった。1900年の国王とドラガ・マシンとの結婚という出来事そのものでさえ、国民の大多数にとっては主として私的な性格の行為だったように思われる。この現象は、国民の無関心、そしておそらくは生まれつきの無気力によって最もよく説明できる
解説
1903年5月29日の夜に起きた事件
回想記の題名にある日付は、当時セルビアで使われていた旧暦で1903年5月28日から29日にかけての夜を指し、グレゴリオ暦では6月10日から11日にかけての夜にあたる。この夜、陸軍将校の陰謀団はベオグラードの旧王宮で国王アレクサンダル1世と王妃ドラガを殺害した。陰謀団は首相ディミトリエ・ツィンツァル=マルコヴィッチ、陸軍大臣ミロヴァン・パヴロヴィッチ、将軍副官ラザル・ペトロヴィッチも殺害した。この事件によって、19世紀半ばからセルビアを治めてきたオブレノヴィッチ朝は断絶した。事件の後、王位はカラジョルジェヴィッチ家のペータル1世に移った。ポリティカ紙の回想記は、23年後の時点から、この夜に至るまでの国内の空気を振り返っている。
国王とドラガ・マシンの結婚に対する反応
回想記は、1900年の国王とドラガ・マシンの結婚を国民の大多数が主として私的な出来事と受け止めたと判断し、その理由を国民の無関心や無気力に求めている。国家の上層部では、この結婚は公然の対立を引き起こした。ヴラダン・ジョルジェヴィッチ内閣は抗議のために総辞職し、内務大臣ジョルジェ・ゲンチッチは婚約を公然と非難したために7年の禁錮刑を受けた。結婚式はそれでも1900年7月23日に挙行された。後世の記述は、国王がドラガと結婚した後に国王の人気がさらに下がったと記している。ドラガは国王の母ナタリヤ王妃の元女官だった。回想記の見方は一般の民衆を描いたものであり、宮廷と政界はこの結婚をめぐって公然と争ったのである。
クーデター直前の数か月のセルビア情勢
回想記は平穏で沈黙した国民の姿を描いているが、アレクサンダル治世の最後の数か月には流血の出来事も起きた。国王は1902年11月6日、ディミトリエ・ツィンツァル=マルコヴィッチ将軍を首班とする政府を発足させた。ディミトリエ・トゥツォヴィッチは1903年3月23日、不満を抱く労働者と学生の集会を組織した。この集会は警察および軍との公然の衝突に発展し、6人が死亡した。国王は新たな選挙に勝てないと知り、1時間のうちに2度のクーデターを行った。抜粋は辞職した内閣の名を挙げていないため、回想記の描く平穏がこの時期のどの部分を指すのかは、この抜粋だけからは特定できない。
コラムが取り上げた銀行界の状況
M・ネデリコヴィッチ博士のコラムは、よく運営された銀行では問題の比率が3対1、最大でも3½対1を超えてはならないと論じている。博士は、比率がこれを超えると小さな損失でも銀行自身の資本が尽き、損害が預金者と債権者に及ぶと警告している。博士がこのコラムを書いたのは、銀行の状況が落ち着きつつあった時期だった。セルビア国立銀行の沿革によれば、1923年に始まったディナールの強化と1925年5月以降の安定によって、銀行の状況は正常化した。同じ沿革によれば、1930年末にはユーゴスラビア王国で642の銀行が営業し、その元本は合計30億ディナールだった。この数字から計算すると、1行あたりの元本は平均500万ディナールに満たない。銀行自身の資本が預金者への債務をどこまで支えているかというコラムの問いは、1930年末には642行を数えることになる銀行界に向けられていた。
1931年の危機で預金者に起きたこと
5年後、銀行危機によって、ユーゴスラビアの預金者が抱えるリスクが現実の問題となった。第一次世界大戦後、第一クロアチア貯蓄銀行はザグレブ市内の全預金の40パーセントを管理していた。1931年のヨーロッパ銀行危機の際、この銀行は同年秋に大量の預金引き出しに直面した。この銀行は自らの要請により、1932年4月21日の政令でモラトリアムの下に置かれた。同じ措置は後に、経営難に陥った他の金融機関にも適用された。これらの出来事は記事より後に起きたもので、ネデリコヴィッチの示した比率そのものを検証するものではない。しかし、ザグレブの預金の40パーセントを管理していた銀行がモラトリアムの下に置かれたことは、銀行の経営難がユーゴスラビアの預金者にまで及びうることを示している。
原文
Контрола новчаних завода
У пракси се међутим показало, да код добро вођених завода ова сразмера не сме да пређе 3: 1, а највише 3½: 1; иначе настаје опасност за повериоце и улагаче, да при најмањем проценту губитака на својим пословима, банчин капитал неће моћи покрити штету, него ће она морати пасти и на улагаче и повериоце.
Пред 29 мај 1903
А и после оставке овога кабинета, народ је и даље био миран и никаквим видљивим начином није показивало своје унутрашње расположење, па је чак и само његово незадовољство, - уколико га је било, остајало немо. Још сам догађај Краљеве женидбе са Драгом Машин 1900 г., изгледа, да је за огромни део народа био један акт поглавито приватне природе, каква се појава најбоље може објаснити његовом индиферентношћу а можда и урођеном апатијом