Politika
- フラノ・ペトリノヴィッチ氏との対話
- セルビア軍のために
1926年11月2日付の『ポリティカ』一面は、海運業者フラノ・ペトリノヴィッチ氏へのインタビューを載せた。ペトリノヴィッチ氏は、政界で地位に就くという噂や政治活動を始めるという噂をきっぱりと否定した。同氏は仕事の事情と自分の気質を理由に挙げ、国の政治が個人的な争いと陥れ合いに変わり、人物が国家より重んじられるようになったと批判した。『セルビア軍のために』と題する論説は、1915年に一人の人物が文書を携えてセルビア軍最高司令部を訪れた場面を回想した。その文書は、ブリンディジにおけるイギリスなど連合国の手配と、軍のための百五十万トンの食糧や物資に触れていた。この読み取りは論説を断片としてしか伝えない。
この版は、紙面の一部を読み取った結果から二つの抜粋を訳している。ペトリノヴィッチ氏のインタビュー本文は名前を「Петриловић」と印刷しているが、訳文は見出しに合わせてペトリノヴィッチと表記している。論説『セルビア軍のために』は欄の端が切れているため断片しか残っておらず、訳文は読めない箇所をすべて[?]で示している。風刺画『現代のブルータス』の説明文とほかの欄は訳していない。
翻訳
フラノ・ペトリノヴィッチ氏との対話
ペトリノヴィッチ氏が政界で何らかの地位に就くとか、そもそも政治の分野で何らかの形で活動するとかいう噂が広まっているが、同氏はこれをきわめて断固として否定した。「それはありえません」と同氏は言った。「私はほかの分野での仕事があるのでそれはできませんし、私の気質もそれを許さないでしょう。今日、わが国の政治は個人的な争いの方向へ、互いに出し抜き合い、陥れ合う方向へと進んでしまいました。人物が国家よりもはるかに重要になってしまったのです。そのような政治に私の居場所はありえません。」
セルビア軍のために
[?] 1915年、[?] が最高司令部にやって来た。[?] 自ら手に一通の文書を持っていた。彼は主計官である故 [?] に [?]、イギリスと [?] がブリンディジに [?] わが軍の [?]、そしてその [?] に百五十万トンの食糧と [?] 必需品が [?] と。
解説
フラノ・ペトリノヴィッチとスプリトの海運会社
『ポリティカ』紙がインタビューしたペトリノヴィッチ氏は、政党の人物ではなく海運業の人物である。旗の歴史を扱う資料によると、通称ユーゴアメリカンスカと呼ばれるユーゴスラヴェンスコ・アメリカンスカ・プロヴィドバ社は、B・バナツ、P・バブリツァ、ミハノヴィッチ兄弟、F・ペトリノヴィッチの手で1924年に設立された。同社は1928年に、同じくスプリトの会社であるアトランツカ・プロヴィドバ社と合併し、ユーゴスラヴェンスキ・ロイド社となった。この経歴を知ると、ペトリノヴィッチ氏が政治に関われない理由として「ほかの分野での仕事」を挙げた意味が具体的に分かる。人物が国家より重要になったという批判は、紙面が伝えた同氏自身の評価であり、1926年の政治を外から確かめた結論とは区別して読む必要がある。
1926年の南米航路をめぐる争い
ペトリノヴィッチ氏が語った時期に、ユーゴスラヴィアの海運業者たちは補助金付き南米航路の運航権をめぐって争っていた。1926年、イギリスのユーゴスラヴ・エクスプレス・エージェンシー社は運輸省に対し、南米への旅客・貨物定期航路を運航する国内会社の設立を提案し、その背後には実際にはキュナード・ライン社がいた。一部の国内船主は、その会社が本当の国内会社にはならないと見抜き、自らも同じ航路を開く計画を持っていたため、この提案に強く反対した。政府はエージェンシー社の申請を最終的に認めず、1930年に国はユーゴスラヴェンスキ・ロイド社と10年間の航路維持契約を結んだ。この会社は、ペトリノヴィッチ氏らのユーゴアメリカンスカ社とアトランツカ・プロヴィドバ社の合併で生まれた会社である。選ばれた記事の一節はこの争いに触れていないが、政界入りの噂が立ったスプリトの船主がどのような商売上の利害を抱えていたかを、この経緯は示している。
外国資本とアドリア鉄道
人物が国家より重んじられているというペトリノヴィッチ氏の批判は、王国の大規模な社会基盤計画が外国の貸し手と外国の政治に左右されていた時期に出たものである。1922年、セルブ・クロアート・スロヴェーン王国はニューヨークの銀行ブレア社と借款交渉を行い、当時ベオグラードと外交上対立していたイタリアがこの交渉を妨げた。この交渉を扱った研究によると、イタリアは、アメリカの借款で建設資金をまかなう予定だった、ユーゴスラヴィア内陸部とアドリア海を結ぶ鉄道の建設を遅らせようとしていた。1925年9月には、ベオグラード駐在のアメリカ公使が、ブレア社はアドリア鉄道契約の選択権をもうしばらく保つためにユーゴスラヴィア国庫証券の更新を望んでいると本国に報告した。これらの記録から、ペトリノヴィッチ氏が語る直前の数年間、沿岸へ向かう鉄道が外国の借款やイタリアとの対立と結びついたままだったことが分かる。ただし選ばれた一節は、この鉄道にも、同氏がそれに何らかの役割を果たしたかどうかにも触れていない。
1915年のセルビア軍の退却と連合国の補給
損傷した論説『セルビア軍のために』は、1915年末の危機を振り返っている。この時、セルビア政府と最高司令部はモンテネグロとアルバニアの山岳地帯を越えて退却することを決めた。退却の目的はアドリア海沿岸にたどり着き、連合国の援助を受けて軍を再編し、装備を整え直すことにあった。最高司令部は1915年11月25日の退却命令で、沿岸に着けば連合国が送る食糧、武器、弾薬、衣服などの必需品が軍に支給されると約束した。実際に沿岸に着いたのは兵士12万人と民間人6万人だけであり、連合国の船が彼らをコルフ島へ運んだ。最高司令部に届いた文書がブリンディジでのイギリスなどの手配と150万トンの食糧に触れていたという論説の場面は、こうした連合国による補給の約束の歴史に属している。残った断片からは、文書を持ってきた人物も物資が届いたかどうかも分からず、150万トンという数字は検証済みの総量ではなく紙面の主張として扱うべきである。
原文
Разговор са г. Франом Петриновићем
Гласове који се шире да би он имао да заузме неки положај у политичком животу или уопште да било како делује на политичком пољу, г. Петриловић је најодлучније демантовао. " То је искључено - рекао је - ја то нити могу због мојих послова на другим пољима, а нити би ми мој менталитет то дозволио. Данас је наша политика пошла правцем персоналних борба наизменичног изигравања и подметања. Личност је постала много важнијом него држава. У таквој политици мени не може да буде места.
ЗА СРПСКУ ВОЈСКУ
[?] 1915 године дошао је [?] Врховну Команду, сам [?] у руци један акт. Он [?] интенданту, покојном [?], да су енглеска и [?] у Бриндизи [?] наше војске, и да у тој [?] милион и по тона хране и [?] потреба.