Neue Freie Presse
- 独裁か民主主義か!
- ボローニャでムッソリーニを拳銃で狙撃
- 野党系新聞の発行禁止
この号の一面は、社会民主党の党大会を論じたウィーンの論説とイタリアからの電報を並べた。論説「独裁か民主主義か!」は、党大会がカムフラージュに終始し、演説者が暴力や隷属についての発言を控えたと非難した。論説はさらに、オットー・バウアーの思想では民主主義は階級支配の手段にすぎず暴力の道にもなりうるというマックス・アードラーの発言を取り上げた。ボローニャ発の記事は、駅へ向かうムッソリーニに身元不明の男が拳銃を撃ち、弾が制服の上着を裂いたと伝えた。記事によれば、ムッソリーニは無傷で、群衆が犯人をリンチした。短い記事は、イタリア政府が追って通知があるまで野党系新聞の発行を禁じたと報じた。
翻訳
独裁か民主主義か!
カムフラージュが合言葉である。内輪の事情をあまり外に漏らしてはならない、暴力と隷属という概念をひっきりなしにもてあそぶのは役に立つどころではない、という感覚が明らかに支配的だった。それでも、すべての演説者が党公認の弱音器をつけて語ったわけではない。最も傑出した理論家の一人であるマックス・アードラーは、誠実な人なら誰もが感謝せずにはいられない率直さで、こう宣言した。「オットー・バウアーが自らの柱とした思想は次のようなものであった。民主主義は階級支配のための手段にすぎず、民主主義もまた暴力の道となりうる。」
ボローニャでムッソリーニを拳銃で狙撃
ムッソリーニ首相が今晩、科学振興会議の開会を終えて自動車で駅へ向かっていたところ、身元不明の男が首相に向けて拳銃を一発撃った。弾丸は、ファシスト民兵の最高司令官の制服を着ていたムッソリーニの上着を裂き、胸の高さにあったマウリティウス勲章大十字章の綬と上着の一部を引きちぎったうえ、ムッソリーニに同行していたボローニャ市長の上着の袖も貫いた。ムッソリーニは無傷で、一瞬たりとも平静を失わなかった。暗殺未遂の直後に起きた大混乱のなかで、暗殺者は激高した群衆にリンチされた。ムッソリーニは車で…
野党系新聞の発行禁止
政府は治安上の理由から、追って通知があるまで、野党系新聞の発行を全般的に禁止した。
解説
ボローニャの銃撃とリンチされた少年
ここに訳した抜粋は犯人の名を挙げず、「身元不明の男」「暗殺者」とだけ呼び、その男が激高した群衆にリンチされたと伝えている。後の歴史記述によると、1926年10月31日にボローニャを無蓋車で通るムッソリーニに銃弾が放たれ、その後15歳の少年アンテオ・ザンボーニがリンチで殺された。テロリズム研究者のJ・ボウヤー・ベルは、この少年はおそらく無実であり、事件は仕組まれた芝居かファシスト同士の陰謀だったと書いている。リンチされた人物を狙撃犯と断定する紙面の記述はボローニャからの第一報を反映しており、後の研究はこの断定に強い疑いを向けている。ボローニャの銃撃は、この年に続いた暗殺未遂の一つでもある。1926年4月にはヴァイオレット・ギブソンがムッソリーニに拳銃を撃ち、弾は鼻をかすめた。同年9月には無政府主義者の大理石職人ジーノ・ルチェッティがローマのポルタ・ピアでムッソリーニの車に爆弾を投げ、ほかの4人が負傷した。
暗殺未遂から野党系新聞の禁止と例外法へ
ボローニャの記事の隣にある短い記事は、イタリア政府が暗殺未遂の直後に「治安上の理由」で野党系新聞を止めたことを示している。この措置は、すでに始まっていた流れに沿うものだった。1925年11月のザニボーニ事件の後、同年末に制定された法律によって、政権はあらゆる反対派の政治組織を弾圧できるようになった。1925年から1926年にかけて制定されたレッジ・ファシスティッシメと呼ばれる一連の法律は、国家が認めた責任者を持たない新聞を廃刊させ、すべての新聞を統制下に置いた。同じ一連の法律は、反ファシストを警察による流刑に処す制度を定め、秘密警察OVRAと国家防衛のための特別法廷を設けた。歴史記述は、ボローニャの暗殺未遂をムッソリーニの秘密警察を生んだ法律に直接結びつけている。紙面はこの禁止を「追って通知があるまで」の措置として伝えた。しかしその後に続いた法律は、イタリアのすべての新聞を国家の統制下に置いた。
リンツ党大会と「独裁」の一文
この論説は1926年11月2日に掲載され、そのとき社会民主労働者党はまだ党大会を開いていた。党は11月3日にリンツで新しい綱領を採択したので、新聞は最終採択の前に党大会の議論を論評したことになる。綱領はオットー・バウアー、マックス・アードラー、カール・レンナーの3人が起草した。綱領で最も有名な一節は、ブルジョワジーが経済活動の計画的な妨害、暴力的な反乱、外国の反革命勢力との共謀によって抵抗するなら、労働者階級は独裁によってその抵抗を打ち砕かざるをえないと述べた。党は実際の行動では改良主義を保ち、選挙と議会の多数という民主的な手段で要求を実現すると主張した。オーストリア歴史館の解説は、この一文が防衛の形で書かれていたにもかかわらず、第一共和国の国内政治の空気を悪化させたと述べている。論説の題「独裁か民主主義か!」はまさにこの論争を取り上げている。論説は「カムフラージュ」という非難によって、党の防衛的な言い回しを暴力による支配という狙いを隠すものとして描いた。
マックス・アードラーの政治的民主主義と社会的民主主義
論説は、「弱音器」をつけて語る党大会のなかで、アードラーの発言をまれに見る正直な告白として示している。アードラー自身は綱領の起草者の一人であり、オーストロマルクス主義を代表する理論家だった。アードラーはハンス・ケルゼンやヘルマン・ヘラーとの論争のなかで、ブルジョワジーの支配の表れとしての政治的民主主義と、社会的な差異とともに抑圧がなくなる社会的民主主義とを区別した。アードラーは党大会と同じ1926年に、ベルリンで『政治的民主主義と社会的民主主義』という本を出版している。この経歴に照らすと、民主主義は階級支配の手段にすぎないという紙面が引用した発言は、資本主義のもとでの議会制民主主義の限界についてアードラーが長く唱えてきた主張と一致する。ただし、この抜粋が伝えるのは新聞がまとめたアードラーの言葉だけである。新聞はそのまとめを使って、オットー・バウアーを含む党指導部が民主主義を単なる道具とみなしていると論じた。
ノイエ・フライエ・プレッセとウィーンの市民層
ノイエ・フライエ・プレッセは、1864年にアドルフ・ヴェルトナーがジャーナリストのマックス・フリートレンダー、ミヒャエル・エティエンヌとともに創刊したウィーンの日刊紙である。この新聞に文芸欄の記事を書いていたシュテファン・ツヴァイクは、ウィーンの市民層全体にとって重要な作品とはこの新聞が称賛した作品だったと回想している。リンツ綱領の独裁条項は、労働者階級がその抵抗を打ち砕くべき「ブルジョワジー」として、まさにこの読者層を名指ししていた。このことが論説の強調点を説明する。新聞はアードラーの率直さに感謝し、党大会のほかの部分をカムフラージュと呼ぶことで、社会民主党の民主主義への忠誠は戦術にすぎないと市民層の読者に伝えた。この見方は、議論がまだ続いているあいだに新聞自身が下した党大会の解釈である。この一文がオーストリアの政治の空気を悪化させたという後の評価は、新聞ではなく歴史家によるものである。
原文
Diktatur oder Demokratie!
Camouflage ist die Losung. Die Empfindung war offenbar vorherrschend, daß man nicht zu viel aus der Schule schwätzen dürfe; daß das ununterbrochene Spiel mit den Begriffen Gewalt und Unterjochung alles eher denn nützlich ist. Trotzdem, nicht alle Redner haben mit der parteiamtlichen Sordine gesprochen und einer der hervorragendsten Theoretiker, Max Adler, verkündete mit einer Aufrichtigkeit, für die ihm jeder Ehrliche danken muß: Die Ideen, die Otto Bauer zu seinen tragenden gemacht hat, sind folgende gewesen: Die Demokratie ist nur ein Mittel für die Klassenherrschaft und auch Demokratie kann ein Weg der Gewalt sein.
Revolverattentat auf Mussolini in Bologna.
Während Ministerpräsident Mussolini heute abend nach Eröffnung des Kongresses für die Förderung der Wissenschaften im Automobil zum Bahnhof fuhr, hat ein Unbekannter einen Revolverschuß gegen ihn abgefeuert. Die Kugel hat den Rock Mussolinis, der die Uniform des Oberkommandierenden der fascistischen Miliz trug, das Band des Großkreuzes des Mauritius-Ordens in der Höhe der Brust und auch ein Stück des Rockes selbst zerrissen sowie auch den Aermel des Rockes des Bürgermeisters von Bologna, der Mussolini begleitete, durchbohrt. Mussolini, der unverletzt blieb, hatte keinen Augenblick die Fassung verloren. In dem großen Tumult, der sofort nach dem Attentat entstand, wurde der Mörder von der aufgebrachten Menge gelyncht. Mussolini fuhr
Verbot der Oppositionspresse.
Die Regierung hat aus Gründen der Sicherheit das Erscheinen der Oppositionspresse im allgemeinen bis auf weiteres untersagt.