Leidsch Dagblad
- ダリウス・ミヨー
- 教育会議
- カトウェイクの惨事
1926年11月1日のライツ・ダッハブラット紙1面は、H・W・Hの署名入り音楽評論でダリウス・ミヨーを紹介し、ドビュッシー以後の音楽上の安らぎを乱すパリの若い作曲家の一人として描いた。評者はオネゲルの『パシフィック』がライデンで演奏されかけて取りやめになったことを惜しんだ。教育会議の記事は、R・カシミール教授が締めくくりの講演で、過去四半世紀のさまざまな学校改革には共通の理論的基礎があると論じたことを伝えた。本紙経営陣の告知は、カトウェイクのロガー漁船KW 148の遭難記事を読むよう読者に求め、本紙の振替口座かアムステルダム銀行への義援金を呼びかけた。
翻訳
ダリウス・ミヨー
現代の私たちは速く生きている。ドビュッシーの新しい響きがようやく鳴りやんだかと思うと、もうダリウス・ミヨー(1893年生まれ)とほか数人(その中にはオネゲルもいる。彼の『パシフィック213』はあやうくここで演奏されるところだった。それが立ち消えになったのは残念だ!)が現れて、私たちの音楽上の安らぎをかき乱す。ミヨーの作品はすでにかなりの量に達している。彼はとても楽々と書くのである。パリでは彼にはかなりの支持者がおり、その交友の輪はわが国にまで及んでいる。
教育会議
最後の登壇者としてR・カシミール教授が、理論面からの締めくくりの考察をいくつか述べた。教授はまず、過去二十五年間に教育では多くの改革が試みられてきたと切り出した。それらの改革は確かに互いに異なっているが、アダム・バラードとキルパトリックが認めているように、その根底には共通の理論的基礎があるように思われる、と教授は述べた。
カトウェイクの惨事
ロガー漁船KW 148の遭難にまつわる痛ましい詳報をぜひお読みいただき、そのうえで義援金を本紙の振替口座57055番あて、またはアムステルダム銀行ライデン支店あてに、「KW logger 152」と明記してお送りください。
解説
ミヨー、オネゲルと六人組
H・W・Hの評論は、ミヨーをドビュッシーの後に現れた新人たちの筆頭として扱い、オネゲルもその数人の一人に数えた。ミヨーとオネゲルは、ともにパリの6人の作曲家からなるグループ「六人組」の一員だった。ミヨーはパリ音楽院で学んでいたときに、オネゲルやジェルメーヌ・タイユフェールと知り合った。ミヨーは20世紀で最も多作な作曲家の一人とされており、作品がすでにかなりの量に達し、楽々と書くという評論の指摘はこの評価と一致する。評論はミヨーの生年を1893年と書いたが、現在の伝記記述はミヨーの生年月日を1892年9月4日としている。
ミヨーがブラジルから持ち帰った音楽
評論はミヨーを、ドビュッシーの「新しい響き」の後に現れて安らぎを乱す作曲家として描いたが、ミヨーの音楽はブラジル音楽の影響を強く受けていた。ミヨーは1917年から1919年まで、当時駐ブラジル・フランス大使だった詩人で劇作家のポール・クローデルの秘書を務めた。ミヨーは帰国後の1920年に、ピアノのための12の舞曲からなる組曲『サウダージス・ド・ブラジル』を書いた。各曲は2拍子のタンゴやサンバのリズムに基づき、リオデジャネイロの地名や地区名を題にしている。ミヨーは1921年にこの組曲を管弦楽用に編曲した。この作品は、複数の調を同時に鳴らす多調の使用でよく知られている。ライデンの評者がミヨーたちを音楽上の安らぎを乱す作曲家として紹介した背景には、こうした新しい和声の響きがあったと考えられる。
教育学者R・カシミール教授の経歴
会議の締めくくりの講演を行ったロンメルト・カシミールは、1877年に生まれ1957年に没した教育学者である。カシミールは1918年から1947年までライデン国立大学で教育学の特別教授を務め、ライデン大学はカシミールをオランダで最初の教育学教授と紹介している。カシミールは学校の運営にも直接関わった。カシミールはヤン・リフトハルトの後押しも受けてハーグで新しい種類の学校の設立を準備し、この学校は1909年にネーデルラント・リセウムとして開校した。カシミールはこのオランダ初のリセウムの校長を1930年まで務めたので、1926年の会議の時点でも校長職にあった。カシミールは哲学の師ヘラルト・ヘイマンスに強い印象を受け、経験が知識の基礎であるというヘイマンスの考えを受け継いだ。ライデン大学もカシミールを、経験的な証拠を見つけることの大切さを理解した行動科学者として紹介している。こうした経歴は、過去25年間のさまざまな改革に共通の理論的基礎を見いだそうとした会議での主張とつながっている。
1920年代オランダで教育学が大学の学問になった経緯
カシミールの教授職そのものが、1926年の時点ではまだ新しかった。ライデン国立大学は1918年に、オランダの大学として初めて教育学の教授を任命した。この特別講座は、マーツハッパイ・トット・ヌット・ファン・ト・アルヘメーンという公益団体の資金で設けられた。フィリップ・コーンスタムは1919年にアムステルダム大学で同様の職に就いた。中等教育の現場では、教育に科学的に取り組むことを求める声が高まっていた。政府は1921年の大学規程で教育学を副専攻科目として認め、ほかの大学も教育学の教授を置く必要が生じた。25年分の学校改革を教授が理論面から総括して終わったこの会議は、オランダの教育者が多くの改革運動に学問的な裏付けを与えようとしていた時期の様子を示している。
原文
DARIUS MILHAUD
We leven snel tegenwoordig. Het nieuwe geluid van Debussy heeft nauwelijks uitgeklonken of daar komen Darius Milhaud (geb. 1893) en een stuk of wat anderen (onder wie Honnegger, wiens Pacific 213 hier bijna zou zijn uitgevoerd - jammer dat dit overging!) onze muzikale rust verstoren. Milhauds oeuvre heeft reeds een respectabelen omvang; hij schrijft zeer gemakkelijk. In Parijs heeft hij vrij wat aanhang en zijn vriendenkring strekt zich uit tot in ons land.
ONDERWIJS-CONFERENTIE
Prof. R. Casimir gaf als laatste spreker eenige theoretische slotbeschouwingen. In de laatste vijfentwintig jaren zijn vele veranderingen beproefd in het onderwijs, aldus ving hij aan. Wel zijn zij onderling verschillend, maar er schijnt een gemeenschappelijke theoretische grondslag voor aanwezig. zooals door Adam Ballard en Killpatrick erkend wordt.
DE RAMP TE KATWIJK.
Leest vooral de tragische bijzonderheden in verband met het vergaan van de logger KW 148 en zendt daarna uwe giften aan ons Blad, onder gironummer 57055 of aan de Amsterdamsche Bank, bijkantoor Leiden onder vermelding " KW logger 152 ".
紙面の出典:Source: Erfgoed Leiden en Omstreken (leiden.courant.nu)