Crítica
- ファシストの暴徒、ムッソリーニを襲った青年に残虐な仕打ち
- 襲撃の後もムッソリーニはまったく動じず
- 十四の刺し傷!
1926年11月1日付のクリティカ紙は、一面にムッソリーニ暗殺未遂事件とその後の出来事を伝える記事を並べた。トップ記事は、ファシストたちが一分半のうちに形をなさない塊を高く持ち上げ、その塊が襲撃者とされた少年だったと生々しく伝えた。別の短い記事は、ムッソリーニが事件後もまったく動じず、フォルリでファシストの歓迎を受けて当局者や家族と落ち着いて話したと報じた。紙面下段の論説は「十四の刺し傷!」と題し、新聞が記録すべきなのはムッソリーニへの襲撃よりも、その背後にあって自由な諸国民を悲しませるもう一つの襲撃だと論じた。
翻訳
ファシストの暴徒、ムッソリーニを襲った青年に残虐な仕打ち
一分半のうちに、ファシストたちは形をなさない塊を高々と持ち上げた。それは、あの少年だった
襲撃の後もムッソリーニはまったく動じず
フォルリに到着すると、「ファシズム」は彼に共感を示す示威行動を行い、独裁者は当局者や家族と落ち着いて言葉を交わした
十四の刺し傷!
新聞が書き留めるべきなのは、ムッソリーニへの襲撃ではない。もう一つの、その背後にある襲撃、自由な諸国民を深い悲嘆で満たす襲撃のほうである
解説
ボローニャでリンチを受けた15歳のアンテオ・ザンボーニ
トップ記事が伝えた少年はアンテオ・ザンボーニである。1926年10月31日、ボローニャをオープンカーで通るムッソリーニに向けて銃弾が撃たれ、その結果として15歳のザンボーニが群衆にリンチされて殺された。この号は事件の翌日に発行された。クリティカ紙の見出しは少年がムッソリーニを襲ったことを前提とし、記事の冒頭は少年を捕らえたファシストの群衆の素早さと凶暴さを描いている。後の研究者は少年の罪をはるかに疑わしいとみている。テロリズム研究者のJ・ボウヤー・ベルは、少年はおそらく無実であり、事件は仕組まれた芝居かファシスト同士の陰謀だったと書いた。紙面はリンチの残虐さを同時代の目で記録しているが、実際にだれが撃ったのかという問題は今も決着していない。
ムッソリーニ襲撃事件と1925–26年の諸法
ザンボーニ事件は、約1年のうちにムッソリーニを狙った4件目の襲撃だった。政権はこうした襲撃の連続を、強大な権限を手にする理由として利用した。元社会党代議士のティート・ザニボーニは1925年11月4日にムッソリーニ暗殺を企てた容疑で逮捕され、同年末に制定された法律によって政府はあらゆる反対派の政治組織を弾圧できるようになった。1926年4月7日にはヴァイオレット・ギブソンが拳銃を撃ち、弾はムッソリーニの鼻をかすめた。同年9月11日には無政府主義者の大理石職人ジーノ・ルチェッティがローマのポルタ・ピアでムッソリーニの車に爆弾を投げ、ほかの4人が負傷した。ボローニャの事件の後、政権はムッソリーニの秘密警察を設ける法律を成立させた。1925年から1926年にかけての「レッジ・ファシスティッシメ」は、ファシスト党を唯一の合法政党とし、秘密警察OVRAと国家の安全のための特別裁判所を設けた。クリティカ紙の論説は、記録すべきなのは自由な諸国民を悲しませるもう一つの襲撃だと主張した。この主張は、本当に重大な襲撃はイタリアの自由に向けられたものだという同紙自身の告発として読める。
クリティカ紙とブエノスアイレスのイタリア系移民
クリティカ紙はナタリオ・ボタナが創刊し、1913年から1962年まで発行された新聞で、1920年代にはラテンアメリカで最も多く読まれた新聞だった。同紙の読者が暮らすアルゼンチンは、イタリアからの移民によって大きく形づくられた国である。1880年から1930年までに、約200万人のイタリア人が祖国を離れてアルゼンチンに定住した。ジャン・ルーカ・クローチェは1923年から1943年までのこの移民社会を研究し、移民たちが祖国による統制を拒み、ファシズムの計画に強く反発したと論じている。クローチェによれば、アルゼンチンのイタリア系社会では反ファシズムが力を失うことはなく、アルゼンチンは権威主義と闘う世界的な拠点の一つになった。紙面の「ファシストの暴徒」という言葉や「自由な諸国民」への呼びかけは、こうした空気とよく合っている。クローチェの研究は移民社会全体を扱っており、クリティカ紙の立場は紙面の見出しと語調から読み取れるだけである。
ブエノスアイレスのAP通信
アメリカの通信社AP通信は、1926年の時点でアルゼンチンの首都に拠点を置いて10年近くたっていた。AP通信は1917年にブエノスアイレスに支局を開き、同市の日刊紙ラ・ナシオンは1919年にその配信の契約を結んだ。AP通信がスペイン語での報道を始めたのは1941年10月1日である。このため、1926年にブエノスアイレスの新聞に届いたAP通信の記事はほかの言語で届き、各紙の編集部がスペイン語に書き直していた。編集部によるこの書き直しは、クリティカ紙の紙面の語調を理解する手がかりになる。同紙はボローニャとフォルリからの報道を「ファシストの暴徒、青年に残虐な仕打ち」といった見出しの下に置き、自社の判断で事実の受け止め方を方向づけた。
原文
TURBAS FASCISTAS SE ENSANARON CON EL JOVEN QUE AGREDIO A MUSSOLINI
En un minuto y medio, los fascistas levantaron en alto una masa informe. Era el jovencito
Después del Atentado Mussolini Démostró Gran Despreocupación
A su arribo a Forli, el " fascismo " lo hizo objeto de una demostración de simpatía, y el dictador conversó tra [?] quilamente con las autoridades y miembros de su familia
¡CATORCE PUÑALADAS!
Lo que deberían consignar los diarios no es el atentado contra Mussolini, sino el otro, que hay detrás, el que llena de congoja a los pueblos libres
紙面の出典:Source: Internet Archive / Biblioteca Nacional de la República Argentina