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· サンティアゴ(チリ) · スペイン語

Diario La Nación

ラ・ナシオン紙のスポーツ面は、南米選手権のチリ対アルゼンチン戦がニュニョアのカンポス・デ・スポーツで引き分けに終わったことを伝えた。記事は試合前の熱気から書き起こし、ファンが選手を一人ずつ比べ、チリに有利な形で終わる連係プレーを思い描いた様子を描いた。チリの主将アレジャノは、後半のほぼ全部を10人で戦った末の結果に大きな満足を示した。アルゼンチンの主将バッカロはチリの活力と決断力をたたえたうえで、体当たりの多さと技術不足を指摘し、自軍フォワードの決定機逸とコパ・アメリカでの不運を嘆いた。短い別記事は、10人になったチリが選手を守備に下げ、攻撃陣を組み直した経緯を報じた。

この版は、チリ対アルゼンチン戦を扱った紙面記事から3本の抜粋を訳出する。OCRの文字が大きく乱れていたため、抜粋は紙面画像から書き起こしてある。ある段の下部にはインクのにじみと染みがあり、別の箇所には破れと折り目があって一部の語が失われている。画像の端と色見本の帯が、一部の段の余白を隠している。抜粋はチリが10人になった理由を記しておらず、得点者の名前も挙げていない。

翻訳

チリとアルゼンチン、昨日の大一番で引き分け

今回の大陸選手権で最も重要な試合の一つが、昨日の午後、ニュニョアのカンポス・デ・スポーツで行われた。どの人の輪でも、話題は目前に迫ったアルゼンチンとチリ両チームの対戦でもちきりだった。こちらでは各チームの力量が論じられ、相対する選手同士が一人ずつ比べられた。あちらでは結果が予想され、冗談が飛び交い、あるいは計画中だという途方もない連係プレーが語られたが、その連係はほとんどいつも自国チームに有利な形で締めくくられていた。

両主将の見解

チリ・チームの主将アレジャノ氏は試合後、選手全員が強豪アルゼンチンを相手に目覚ましい働きができると確信してピッチに入ったと我々に語った。試合の結果は我々にとって大いに満足すべきものであるはずだ、後半のほぼ全部を10人で戦ったのだから。

アルゼンチン・チームの主将バッカロは、我々に次のように語った。「チリのチームは今日素晴らしい試合をしたが、私の見るところ、体を使いすぎた。これはこのチームの欠点だと思う。選手たちは相手にぶつかろうとして、しばしば好機を失っているからだ。チリのチームは活力にあふれ、どんな試練にも揺るがない決断力を持った男たちの集団だ。ただし、本物の選手になるのに必要な技術が欠けている。私のチームのフォワードは、コルテスが守るゴールの前で思い切りのよさを見せなかった。チリが後半のほぼ全部を10人で戦わなければならなかったのは確かだが、フォワードがほとんど決まったも同然の得点を2、3点逃したこともまた事実である。南米選手権での我々の役目は終わったが、コパ・アメリカの戦いにおける我々のいつもの不運を嘆かずにはいられない。それでも、我々は高いスポーツマン精神をもって試合の結果を受け入れる」

チリ・チームの布陣変更

我が代表は10人だけになる見通しとなったため、守備を弱めないよう各ラインを組み替えなければならなかった。こうしてポワリエが右フルバックに、F・ゴンサレスが左フルバックに、スビアブレが左ハーフに回った。攻撃はそれによってH・ムニョス、ラミレス、アレジャノ、オルギンに託された。

解説

ニュニョアのカンポス・デ・スポーツとサンティアゴ初の大競技場

第1の記事が試合会場として挙げたニュニョアのカンポス・デ・スポーツは、1918年に建設された競技場である。チリ国立図書館のメモリア・チレナによると、篤志家ホセ・ドミンゴ・カニャスが遺言で用途を指定したニュニョアの土地に、この競技場が造られた。メモリア・チレナはこの競技場をサンティアゴで最初の大規模な総合競技施設とし、当時の最も重要なサッカーの試合がここで行われたと記している。1920年と1927年の南米陸上競技選手権と1926年の南米サッカー選手権も、この競技場で開かれた。英語版ウィキペディアの大会記事は会場をエスタディオ・スポルト・デ・ニュニョアと呼び、全試合がここで行われたと記して、収容人数を2万人としている。ウィキペディアのチリ代表戦績表は、10月31日のアルゼンチン戦の観客数を8000人と記録している。二つの数字がともに正しければ、新聞が試合前の熱気を詳しく描いた試合でも、観客は会場の半分に届かなかったことになる。旧競技場はのちに取り壊され、同じ土地に国立競技場が建てられた。

1対1の引き分けと1926年大会の順位

この記事が伝えた試合は、各チームが他の全チームと1回ずつ対戦する総当たり方式の大会の一戦であり、バッカロはアルゼンチンの日程が終わった時点で語っている。ウィキペディアの大会記事によると、チリとアルゼンチンは10月31日に1対1で引き分け、翌11月1日にウルグアイがパラグアイを破って優勝を決めた。同記事の試合記録は、チリの得点を25分のギジェルモ・サアベドラ、アルゼンチンの同点弾を87分のタラスコーニとしている。この時間の記録は、10人のチリを相手に自軍フォワードが決定機を逃したというバッカロの不満と合致する。ウィキペディアは最終順位として、ウルグアイを優勝、アルゼンチンを2位、チリを3位と記している。バッカロが嘆いたコパ・アメリカでの「いつもの不運」は主将自身の見方であり、アルゼンチンは1925年大会を制した前回王者としてサンティアゴに来ていた。チリ代表の戦績表は、1920年の南米選手権でチリがビニャ・デル・マールでアルゼンチンと1対1で引き分けた記録も載せており、チリはこの試合で同じ結果を繰り返したことになる。

交代のない時代のサッカーと10人のチリ

チリが交代選手を入れずに布陣を組み替えたのは、当時のサッカーが一般に選手交代を認めていなかったためである。英語版ウィキペディアによると、選手交代がサッカーの競技規則に加えられたのは1958年である。それ以前の公式戦では交代できる人数はゼロであり、負傷した選手が続けられなければチームはそのまま人数を減らした。ワールドカップも、1970年大会まで交代を認めなかった。抜粋はチリが一人を欠いた理由を記しておらず、競技規則の一般的な歴史も1926年南米選手権の個別の規定までは明らかにしない。こうした条件の中で、第3の記事はチリが布陣をどう組み替えたかを伝えている。ポワリエが右フルバックに、F・ゴンサレスが左フルバックに、スビアブレが左ハーフに回り、攻撃はH・ムニョス、ラミレス、アレジャノ、オルギンの4人に任された。両主将はともに、試合結果を評価する際にこの人数の不利に触れた。

大会得点王デビッド・アレジャノ

1926年大会で最も多く得点したのはチリのデビッド・アレジャノであり、ウィキペディアは7得点を記録している。アレジャノは開幕戦のボリビア戦で4得点を挙げ、チリの7対1の勝利に貢献した。新聞はチリの主将を「アレジャノ氏」とだけ記し、第3の記事は組み直した4人の攻撃陣にアレジャノの名を挙げている。メモリア・チレナによると、デビッド・アレジャノはコロコロの指導者で創設者であり、バリャドリードでピッチ上の一見ささいな出来事のあと、ホテルで亡くなった。メモリア・チレナの年表は、その死をこの大会の翌年の1927年としている。

原文

Chilenos y argentinos empatan en el gran match de ayer

Uno de los partidos de mayor importancia del actual certamen continental se desarrolló en la tarde de ayer en los Campos de Sports de Ñuñoa. El comentario giraba en todos los corrillos alrededor de la contienda que se aproximaba entre los elencos de Argentina y Chile. Aquí se discutía acerca de la capacidad de cada uno de los equipos, se hacían comparaciones de adversario a adversario, más allá se vaticinaba el resultado, se bromeaba o bien se narraban fantásticas combinaciones en proyecto, casi siempre rematadas en forma ventajosa para los colores nacionales.

LA OPINION DE LOS CAPITANES

El capitán del elenco chileno, señor Arellano, nos dice, después de la brega, que todos los jugadores entraron al campo de juego convencidos de que iban a hacer un destacado papel frente al poderoso conjunto argentino. El resultado de la brega debe ser para nosotros muy satisfactorio, pues actuamos con diez hombres casi todo el segundo período. Vaccaro, capitán del cuadro argentino, nos expresa: " El cuadro chileno, aunque hizo hoy un gran partido abusó, a mi juicio, excesivamente del cuerpo. Creo que éste es un defecto del conjunto, pues muchas veces sus jugadores pierden oportunidades por tratar de estrellar al contrario. Es el cuadro chileno un conjunto de hombres lleno de vigor y de decisión a toda prueba. Les falta, sí, la técnica necesaria para llegar a ser verdaderos jugadores. Los delanteros de mi cuadro no demostraron decisión frente a la valla defendida por Cortés. Si bien es cierto que los chilenos debieron actuar casi todo el segundo período con diez hombres, no es menos efectivo que los delanteros perdieron dos o tres puntos casi hechos. Terminada nuestra misión en el Certamen Suramericano, debemos lamentar nuestra proverbial mala suerte en las contiendas por la Copa América. Sin embargo, aceptamos con alto espíritu deportivo el resultado de los lances.

Modificaciones en el cuadro chileno

En vista de que los nuestros iban a quedar con sólo diez hombres, hubo de modificarse las líneas para no debilitar la defensa. Así Poirier pasó a actuar de zaguero derecho; González F. de zaguero izquierdo y Subiabre de half izquierdo. El ataque quedó entonces entregado a H. Muñoz, Ramírez, Arellano y Olguín.

紙面の出典:Source: Internet Archive

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