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· ジュネーヴ(スイス) · フランス語

Journal de Genève

1926年11月1日付のジュルナル・ド・ジュネーヴは、アレックス・フィラデルフェウスの署名記事を載せた。筆者は、シキュオンでの四度の発掘で古代都市の中心部に行き当たったと主張し、その証拠として神殿、ブーレウテリオン、アゴラを見下ろす台地上の大柱廊を挙げた。ラウル・パトリの文芸欄は、同紙が以前に神をめぐる調査を紹介したフェルナン・ディヴォワールが、今度は死後の人間についての信念を現代の思想家たちに尋ねていると伝えた。別の記事は、ベートーヴェンの貧困を十三歳のころのボンの宮廷までさかのぼって描き、当時の音楽家が召使いと同じ扱いだったと述べた。

翻訳

シキュオンの遺跡にて

シキュオンについて、私は確信している。手元の資力は乏しいが、それでも私はこの壮麗な都市のまさに中心部に行き当たったのだ。なぜなら、四度の発掘期に私が掘り出した三つか四つの大きな建造物は、いわば公的な性格のものであり、シキュオンの中心部にしかありえなかったはずだからである。それは一つの神殿、ブーレウテリオンすなわち元老院の議場、そして一つの大きな柱廊である。この柱廊は地域の中央にある高い台地の上に建てられ、アゴラ全体と町全体を見下ろしている。

死後

フェルナン・ディヴォワール氏については、神をめぐる氏の調査を以前に本欄で紹介したが、氏は現代の思想家たちへの調査を続けている。今回投げかけられた問いは次のとおりである。「死後の人間について、あなたはどのような信念をお持ちですか」

ベートーヴェンの貧困

十三歳にしてすでに、貧困は彼の足どりにつきまとい、二度と離れることはなかった。ボンの小さな宮廷では、ルイ・ヴァン・ベートーヴェンの名がある覚書の中で「貧しい」「非常に貧しい」と記されている。権勢ある主人に雇われていた身であったことから、この不安定な暮らしにもおそらく説明がつく。当時、音楽家は召使いとみなされ、召使いと同じ立場で家中の一員となっていたのである。

解説

フィラデルフェウスが市の中心部の証拠とした神殿、ブーレウテリオン、柱廊

フィラデルフェウスは、自分が掘り出した神殿、ブーレウテリオン、大柱廊が公的な性格を持つことを根拠に、シキュオンの中心部に行き当たったと確信していた。現在の遺跡案内も、アゴラの周りに同じ種類の建物を挙げている。ある遺跡案内サイトは、ヘレニズム期シキュオンのブーレウテリオンの基礎を広い方形の建物として説明し、ブーレウテリオンとその柱廊がヘレニズム期のもので、後の時代に修復されたと記している。同じサイトは、アゴラ近くの神殿をアルテミスかアポロンに捧げられた東向きの周柱式神殿としている。このサイトによれば、アゴラは考古学協会による発掘の中心であり、シキュオンで最初の発掘は1886年から1898年にかけてアメリカ古典学研究所が劇場で行ったものである。記事は1926年に四度目の発掘期を終えた発掘者自身の解釈を記録しており、遺跡案内サイトは同じ公共建築群を今日の見学者向けに説明している。

公共建築が高い台地に建っていた理由

フィラデルフェウスは、高い台地の上に建ち、アゴラと町全体を見下ろす大柱廊について書いている。この立地は、シキュオンが一度作り直されたことにさかのぼる。ウィキペディアのシキュオンの項目によれば、デメトリオス・ポリオルケテスは前303年にシキュオンを征服し、平野にあった古い町を破壊してアクロポリスへ移した。ある遺跡案内サイトは、公共建築の大半がデメトリオスの治世に建てられ、その後はシキュオンをアカイア同盟に加えたアラトスのもとで建てられたと記している。したがって、記事が壮麗な都市と呼んだ市の中心部は、主にヘレニズム期の町だった。シキュオンの名声はそれより古く、ウィキペディアはシキュオンをアルカイック期のギリシア世界で最も強力な都市国家の一つとしている。

死後の人間を問う調査を行ったフェルナン・ディヴォワール

ラウル・パトリは、ディヴォワールを、すでに神について現代の思想家たちに調査を行い、今度は死後の人間について問いかけている人物として紹介した。ディヴォワールはベルギー系フランス人の詩人、ジャーナリスト、劇作家、美術批評家であり、1906年からパリで著作を発表していた。ディヴォワールは詩作と並んでオカルティズムや哲学についての本も出しており、死をめぐる信念の調査は、彼がそれまで著作で扱ってきた関心に沿うものだった。ディヴォワールは1926年の後もこの問いを扱い続け、1934年には虚無、天国、輪廻という三つの答えを題に並べた『Néant… paradis… ou réincarnation?』を出版した。

後の著述が描くベートーヴェンの金銭難

記事は、ベートーヴェンの貧困を十三歳までさかのぼり、その原因をボンの宮廷で音楽家が召使いとして扱われていたことに求めた。後の著述は、この見方をウィーン時代にまで広げている。2020年に音楽サイトに載ったベートーヴェンとお金についての文章は、ベートーヴェンが生涯の大半にわたって金銭に苦しんだと述べ、ナポレオン戦争によるオーストリア通貨の大幅な下落が彼の資産を半分以上減らしたと記している。同じ文章は音楽市場の条件も重く見ており、印税や国際的な著作権がほぼ知られていなかったため、作曲家は作品を売るたびに一度きりの報酬しか期待できなかったと説明している。この記事が出てからおよそ五か月後に、1927年のベートーヴェン百年祭の行事が開かれた。ウィーン・フィルハーモニーの記録には、1927年3月28日に楽友協会の黄金のホールで開かれたベートーヴェン百年祭演奏会が載っている。

原文

Sur les ruines de Sicyone

Pour Sicyone, j'ai la conviction que malgré les faibles moyens dont je dispose. je suis tombé au cœur de cette magnifique ville, parce que les trois ou quatre grandes constructions que j'ai mises au jour pendant mes quatre campagnes sont d'un caractère, pour ainsi dire, officiel et ne pouvaient qu'être situées dans le centre de Sicyonc. Il s'agit d'un temple, d'un Bouleutérion, ou chambre du Sénat, et d'un grand portique qui, érigé sur un haut plateau au milieu de la région, domine toute l'Agora et la ville entière.

Après la Mort

M. Fernand Divoire, dont nous avons signalé précédemment une enquête sur Dieu, continue ses investigations auprès des penseurs contemporains. Cette fois-ci la question posée est la suivante: «Quelles sont vos croyances sur l'homme après la mort?»

La pauvreté chez Beethoven

A treize ans déjà la misère s'attachait à ses pas pour ne plus le quitter. Dans la petite cour princière de Bonn, nous trouvons Louis van Beethoven mentionné dans un Pro-Memoria, comme «pauvre» et «très pauvre». Etant à la solde d'un maître puissant, cette existence précaire s'explique peut-être. A cette époque-là, les musiciens étaient considérés comme domestiques, ils fatsaient partic de la maison au même titre qu'eux.

紙面の出典:Source: Le Temps archives / Journal de Geneve

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