Le Figaro
- 断髪の政治
- 暫定十二分の一予算にご用心
- 汎ヨーロッパのメシア思想
1926年10月10日付のフィガロ紙一面は、P.-B. Gheusiの風刺的な論説「断髪の政治」を掲げた。Gheusiは断髪や膝丈スカートの流行になぞらえて、ボルドー大会に向かう急進党が左派カルテルの社会党との同盟を捨て、急進社会主義という矛盾した党名まで変えるかもしれないと書いた。その下では、筆名アンテリムの筆者が郵便局の営業時間を縮めて五千万を節約する案を批判した。サン=セルヴは、予算が350億フラン、1,500章に膨らんだいま、下院が1927年度予算を12月31日までに可決できず、暫定十二分の一予算に頼るおそれがあると警告した。アルフレッド・マレの外交欄は、ウィーンで開かれた第一回汎ヨーロッパ会議を伝えた。マレは運動の理想を認めながらも歴史的・政治的な異論を並べ、パウル・レーベとクーデンホーフ伯の狙いはオーストリアとドイツの国境の撤廃ではないかと疑った。
翻訳
断髪の政治
編集・管理・宣伝・広告 パリ、ロン=ポワン・デ・シャンゼリゼ14番地 電話 エリゼ [?]、[?]、[?] 購読料 3か月・6か月・1年 パリ、各県および植民地……30フラン、54フラン、100フラン 外国 郵便料金軽減国……52フラン、100フラン、190フラン 郵便料金割増国……72フラン、140フラン、260フラン 購読の申し込みはフランス国内のすべての郵便局で受け付ける。郵便振替口座 パリ242-53。第73年。文芸主幹 ロベール・ド・フレール
断髪の政治
流行はあらゆるものを支配する。これに抗う少数派は、ワーテルローの最後の方陣のように、歴史に残る一言さえ発することなく消えていく。現代の暴君のうちで最も横暴なこの暴君の野蛮さに、犠牲者たちはもはや反抗しない。短い髪と刈り上げたうなじが祖母たちにまで押しつけられている。セヴィニェ侯爵夫人の時代なら、彼女たちはその年齢ゆえに、わが身を傷つけ醜くせよという正式の命令に反旗を翻したことだろう。膝で断ち切ったスカートは、足や脚やくるぶしが、道理からいえばイザボー・ド・バヴィエールやアンヌ・ドートリッシュのようなたっぷりとした襞の衣装を必要とする場合でさえ、すべての女性に義務づけられているかに見える。
ところで、ボルドー大会の開催が告げられた。純粋な急進党の教義もまた、流行の法則に従って、そこから社会党との同盟を切り詰められ、S.F.I.O.という彗星のたてがみを永久に剃り落とされて戻ってくるおそれがある。二年前、そのたてがみこそが、咆哮し勝利したカルテルにアトラスのライオンの風格を与えていたのである。
ああ、神学校を逃げ出したあの老人、アルビ大司教ジェルファニオン猊下の反抗的な生徒だったコンブ親父が、世俗の教皇として君臨した時代はどこへ行ったのか。当時、急進社会主義ブロックは独立し、均質で、ひび一つなかった。レオン・ブルム氏の先駆者たちは、首吊り縄が吊られた男を支えるように、政権にある同盟者を断続的に支えるというやり方をまだ発明していなかった。そもそも急進派は、政権を担う多数派をつくるのに社会党の票を必要としなかった。しかしすでに急進派の教義は、地平線に現れつつあった諸問題を前にして、素早く残酷な閃光に照らされていた。その光によって、党の威厳ある正面にいくつかの亀裂が見えるようになった。南部の諸県では、厳格なブリッソンの神聖な掟が時として時代遅れに見えはじめ、九月四日派のフロックコートの間で、四十歳という批判的な鏡に自分を映す習慣をなくした老婦人のような様子を帯びつつあった。
⁂
われわれが若い頃、不遜にも選挙委員会の前ですでに主張していたことは、いまやすべて新しい政治のやむを得ない計画となった。あまりに長く権力の座にあったことによる避けがたい過ちが、サリアンを執政とし、デュジャルダン=ボーメッツを聖遺物を運ぶ巡礼とした多数派に、敗北と分裂と命取りの内輪もめをもたらした。カルテルは勝利の翌日、新たに銃眼を刻んだ古い砦を若返らせたと信じ、少なくとも四年間は揺るがない政府をわれわれに与えるつもりでいた。その政府はおそらく次々と交代する内閣から成り、多数派の議員は全員が順番に大臣候補となるが、それでも緊密で花崗岩のように固い一体性を保つはずだった。カルテルは、レオン・ブルム氏の非妥協ぶり、あるいはその離反、新旧両世界の経済的な紛糾、そして戦後の財政の転落を計算に入れていなかった。
「ボルドー大会は」と『デペッシュ』紙の論説主幹は手厳しく警告する。「われわれが悔い改めるべき大罪を認めるのがよかろう。わが党の大臣があれほど多く並べたトランプの人形のように倒されたのは、右から攻撃され、左から見捨てられたからだけではない。あまりにしばしば身内に裏切られたからである。急進党の中には『代役』の一団がいる。昨日の大臣であり明日の大臣候補である彼らは、神の起こすあらゆる出来事のうちに、例のオレンジの皮を置く機会を見つけたと思い込むのである。」
こうしてわれわれは、すでに遠い昔となった最初の急進党衰退期の命令に引き戻される。この同じピエール・エ・ポールが昨日「旧集中派」と呼んだ時代のことである。何としても古びた見方を改め、昔ながらの十八番の主張を捨て、現代化した理想と明確な現実とを結びつけねばならない。だが何よりも、大急ぎで名前を変えねばならないのだ。
⁂
明日の諸問題、すなわちフランの救済、太平洋という不安な謎、リヨテやアルベール・サローの方針に沿った植民地からの強力な寄与によるフランス商工業の救済を前にして、急進社会主義という矛盾した二つの語を今後も保ち続けることに何の意味があろうか。
――急進?……この言葉は何を意味するのか。未来の解決策を思い起こさせるか。――まったくそうではない。この言葉がわれわれの前にちらつかせるのは、もはや色あせた影と消え去った偶像だけである。それは、塵と化した亡霊に激しく食ってかかるランクであり、陰気なブリッソンであり、ボヘミアンの古文書学者カミーユ・ペルタンであり、風刺画におけるわれらが師、トゥールーズのウルナックである。ウルナックは党派心が強いと同時にたいそうな好人物で、何とも言いようのない思い出を残したあの有名なグット・ドリの相棒だった。グット・ドリを、あの詩的で愛すべき嘘つきグドゥリと決して取り違えてはならない。
「急進」はもはや何の意味もない。とりわけ「社会主義」と溶接されると、「社会主義」のほうがこれと結びつけられたことにひどい悲鳴を上げる。カピトルの統一社会党員たちに、同郷の急進派と共同名簿を組むかどうか尋ねてみるがよい。靴屋ヴェストルパンの店でさえ聞いたことのないほどの大笑いが返ってくるだろう。中世の火刑の炎を思い出させる赤れんがの町アルビで、アンリ・シモン議長はカルテルのマヨネーズを作り上げ、うまく固めていた。そのマヨネーズがいま酸っぱく変わった。三か月後には、カルモー、グローレ、ヴィルグドゥが、改選を迎える急進派の上院議員たちに社会党候補三人をそろえてぶつけることになる。ほかの百もの町でも事情は同じで、そこでは「急進社会主義」という看板が、いまや「共産主義的独裁者」や「無政府主義的憲兵」に劣らず矛盾したものになっている。
⁂
いつまでも美しい女のように化粧をし、髪を短く刈り、ふくらはぎをあらわにし、腰のくびれも性別も輪郭もなく、見分けがつかなくなるほど流行を追い、出来の悪い名か幸運な名かはともかく改名した急進党の軍勢は、新しい顔になってボルドーから戻ってくるはずである。せめて来るべき闘いに敬意を表して、フランスの演壇で響きわたる決闘を華やかにするほど自らの勝利を信じる権利を持っていてほしいものだ。命取りになる一歩手前の試練を経たのちでも、翌日の雪辱を準備するためにボルドーから立派に戻ってくることはできる。われわれはすでに1914年12月にそれを見た。
では、ボルドー大会から何が生まれるのか。……強化され、いまやすぐ近くにいるS.F.I.O.からの大物離脱者まで取り込んで広がった新党か。厳格さのない枠組み、憎しみのない教義、国民的な綱領、もしかするとガンベッタの若き共和国の妹か。……――あるいは、何も生まれないかもしれない。
P.-B. Gheusi
社会の武装解除
熱心な改革者たちが、郵便電信予算で節約する思いがけない方法を見つけた。彼らは日曜日の配達を廃止し、正午から二時まで局を閉め、六時以降は業務を完全に止めることを提案している。この新案で五千万の節約になるという。この案は破滅的で、まったく誤った原則から出たもののように思われる。
実際、局を閉めれば、朝から晩まで働く数多くのつつましい人々のあらゆる層にとって、たいへんな不便となる。勤め人、下級公務員、あらゆる種類の役所の職員は、正午から二時までの間か、六時以降、しばしば七時以降にしか自由な時間がない。彼らはいつ為替を送り、あるいは受け取りに行けばよいのか。いつ貯蓄金庫の窓口に行けばよいのか。誰も彼らのことを気にかけていないようだ。そのうえ、公衆の生活に、商工業の運営に、どれほどの混乱が生じることか。どれほど多くの取引が失われることか。電話が数時間止まっただけでも、ほんの短い事故が経済生活と社会生活の慣れ親しんだ仕組みにどれほどの面倒を引き起こすかを、われわれは身をもって経験した。
一般に、節約を口実に活動を減らすという方法は、ひどく凡庸である。国家が郵便、電信、電話を赤字にしたくないのなら、利用を減らすことでは成功しない。逆に、局を増やし、郵便業務を簡素で容易なものにし、公衆に便利さを、さらには誘惑さえも提供することによってこそ成功するのである。客に応対するには金がかかるという口実で客を閉ざされた扉の前に置き去りにするという考えは、血を引き寄せすぎる罪があるとしてアルガンに腕を一本切り落とすよう勧めたモリエールの医者を思わせる。
このような考え方は、残念ながらわれわれの偽りの民主主義的な習慣の一部になっている。われわれは、かつての権勢を示した壮麗さの観念ばかりか、活力に満ちた制度に特有のゆとりと広がりの観念さえも失ってしまった。われわれは小さく考え、小さく見ている。禁欲はたしかに高い徳であり、個人や国民が折にふれてそれを実践できるのは立派なことである。しかし現代の物質文明においては、創造し発展する能力こそが第一の能力である。道路や鉄道や郵便を節約する国家には予算の悩みはないだろうし、住民がふたたび遊牧民になれば、財政問題はほとんどすべて消えてしまうだろう。ただし、そのような国家は世界でもはや物の数に入らない。現代世界の標語は、生産し発展することである。制限は、たとえ必要なときでも、永遠の法則ではない。切り詰めることは、縮んだ生活を受け入れることではない。より激しい活動に備え、その後もっと力強く生きるために、しばらく節制することである。未来は、自らを惜しみなく費やし、人生を寛大に信頼する者たちのものである。そうした者たちにだけ、人生はいつの日か与えたものを返してくれる。彼らは働き、骨を折ったからである。
アンテリム
暫定十二分の一予算にご用心
ロン=ポワン・デ・シャンゼリゼ14番地 本日 グラン・パレ 自動車サロン。パルク・デ・エクスポ……クール・ラ・レーヌ ボートショー。午後2時 祭典……ロンシャン競馬。主幹兼政治部編集長
政治
暫定十二分の一予算にご用心
議会審議の再開日はまだ決まっていない。せいぜい下院財政委員会が再開の動きを見せたくらいである。劇場で幕間が長引くと、観客のいらだちを鎮めるためにオーケストラが一曲演奏しはじめるのと同じだ。実のところ、フランスは議会の幕が再び上がるのをあまり急いでいない。フランスは休会期間にすっかりなじんでおり、しかもその期間はまだ通常の長さに達していない。大臣たちはといえば、それぞれ長期にわたる改革の仕事を引き受けており、議員たちと再び顔を合わせることを望んでいないのは明らかである。議員たちは戻ってくるやいなや、恒例の質問攻めで政府の活動を麻痺させるだろう。
しかし財政再建のためには、今年こそ予算が期限どおり、つまり12月31日までに可決されることが、これまで以上に重要である。誰もがそれを認めている。だが弁論家の一派には、休会中に練り上げた退屈な演説、それも選挙だけを目当てにした演説をあきらめるつもりの者は一人もいない。だから、早くも暫定十二分の一予算の見通しが検討されはじめているのも理由のないことではない。
下院は、議会政治が最近めまぐるしい速さで変化し、かつての方式が1926年にはもう通用しないことを理解しようとしない。一世紀前の王政復古期には、31の章に分かれ10億に満たなかった予算が、20回ほどの会議で可決された。ところが現在の予算は350億に達し、1,500の章から成る。負担の比率は1対35であり、理屈からいえば下院は1927年度予算の審議におよそ700回の会議を充てねばならない。経済節約令や連合国間債務についての討議を除いたとしても、年末までにそれだけの会議をどこで確保できようか。
王政復古期の方式を比較の基準にしなくても、事態は同じく手のつけようがない。下院は、少なく見積もっても四か月かかる仕事を二か月で片づけなければならないのだ。昨年、とりたてて先見の明があるとは見られていないエリオ氏も、議長席の上から次のような警告を発した。「300億を超える予算の審議だけで、諸君の会期は埋まってしまうだろう」。どの議席からも賛同の声が上がり、そして話題は別のことに移った。下院は、厳しい規律をついに自らに課さないほど無分別なのだろうか。その規律がなければ、下院は自らを脅かす重大な危機を避けられず、その危機は下院の威信の最後の切れ端まで奪い去りかねない。
サン=セルヴ
休暇の二度目の二週間を終えようとしているリュシアン・ロミエ氏は、旅行中に、本紙政治主幹と同氏との間に不和があったとされる噂を耳にし、このほどフランソワ
汎ヨーロッパのメシア思想
シャンゼリゼ パリ8区 本日……自動車……パルク・デ・エクスポジシオン 自動車見本市。……午後2時 トロカデロで慈善祭。ロンシャン競馬。第283号 政治部編集長 リュシアン・ロミエ
外交
汎ヨーロッパのメシア思想
グロティウスからヴィクトル・ユゴーに至る汎ヨーロッパ主義のあらゆる預言者たちが見守るなか、金色の太陽に赤い十字を配した青い旗がはためくなか、バッハの音楽の宗教的な調べと最も純粋な平和主義の甘美な吐露のなか、二十六か国の代表と五千人の聴衆を前にして、第一回汎ヨーロッパ会議がウィーンのグローサー・コンツェルトハウスでこのほど開かれた。
汎ヨーロッパ運動の発起人たちが掲げる構想は壮大である。ヨーロッパ合衆国を築くこと、言い換えれば大陸間のあらゆる障壁を取り除くことが目的なのだ。戦略上の障壁は仲裁と保障の制度によって、経済上の障壁は自由貿易への復帰によって、民族上の障壁は排外主義と少数民族抑圧の根絶によって取り除くのだという。
これほど寛大で幻想的な野心は、古くからの願望と現在の必要に応えるものである。わが国のようにラテン文化に育まれた国では、「ローマの平和の恩恵」が懐かしさと願望を呼び起こさずにはいなかった。長引く戦争の惨禍は、将来の紛争を仲裁によって解決したいと人々に願わせずにはいなかった。この原則はすでにウェストファリア条約にうたわれている。政治上の必要は「連合」を促しえた。神聖同盟は革命と戦うためにメッテルニヒによって創設された。そこに、昨日今日に始まったものではない人道主義の思想を加えてみるがよい。そうすれば、十九世紀に何人もの政治家、哲学者、詩人がヨーロッパ合衆国を見たいという願いを口にしえた理由がわかるだろう。
こうした漠然とした夢に、戦争の、そしてとりわけ戦後の出来事がいくらかの実質を与えた。戦いの必要から、連合国および協力国の諸国民は単一の指揮のもとに結集せざるをえなかった。平和はこの外見だけの統一をたちまち打ち砕いた。しかし不幸が、勝者と敗者の間に新たな連帯を生み出すことになる。不幸とは、すなわち講和条約の不合理、為替の暴落、アメリカの債権である。同じ負担に立ち向かうために、旧大陸のすべての国家は互いに助け合い、強くなるためにアメリカという大共和国の連邦諸州のように団結すべきではないのか。
この「汎ヨーロッパ」計画が大きな障害にぶつかっていることは残念である。実をいえば、純粋に技術的な異論は、われわれをさほど怖がらせない。「パンオイローパ」が国際連盟と重複することは予想できる。それがそれほど深刻だろうか。また、パンオイローパの設立は連盟規約第21条で想定されており、ジュネーヴの機関の仕事を軽くし簡素にするだろうというポリティス氏の主張を認めず、氏を悲しませる必要がどこにあろうか。
いわゆる「歴史的」異論は、たしかにもっと重要である。幾世紀もの歳月がヨーロッパに見事な分立と多様性をつくり出した。数時間旅をして国境を越えれば、社会生活も人種も宗教も制度も風俗も変わるのを目にすることができる。要するに限られた枠の中で、文明はきわめて多様な姿を見せている。合衆国ではそうではない。人種と言語の多様性は二世代目で消えてしまった。そして自然や気候の違いにもかかわらず、どこへ行っても同じ壮大さがあり、それは単調である。「汎ヨーロッパ主義」は、本人がどれほど否定しようとも、その地ならしの鉋で各国の生活の本質的で特徴的な要素を消し去り、多様性という瀕死の神にとどめを刺すおそれはないだろうか。
政治的観点からすると、異論は致命的に見える。パンオイローパはイギリスと協調して働く気はあるが、イギリス抜きでやろうとしている。なんと。では旧大陸は、いつもの仲買人であり供給者であるイギリスの代わりを誰に務めさせるのか。この若い機関がアルビオンの怒りに挑むとは、ずいぶん大胆に見える。パンオイローパはアメリカやアジアなしでもやっていこうとしている。しかし、さまざまな大陸帝国主義どうしがぶつかり合う将来の戦争が、それでいくらかでもましになると思うだろうか。何よりも、パンオイローパは大陸全体の参加を前提としている。昔から子羊たちは、狼に邪魔されず清らかな水辺で静かに草を食むことだけを求めてきた。だがヨーロッパでは、狼がすべて死に絶えたわけではない。皇帝の思想はポツダムの周りをうろついている。復讐だけを望む国々がある。講和条約で与えられた「戦利品」が乏しすぎると考える国々もある。
ウィーンの会議でレーベ氏とクーデンホーフ伯が主導的役割を果たしたことは、われわれにはよい兆しとは思えない。ヨーロッパのすべての国境を廃止すると言いながら、この紳士たちが考えているのは、オーストリアとドイツを隔てる国境を取り払うことだけではないのか。
解説
1924年に勝ち1926年に割れた左派カルテル
Gheusiが二年前の咆哮する勝利のカルテルと呼んだのは、急進社会党、社会党SFIO、小規模な左派共和派諸党がつくった政権連合であり、この連合は1924年5月11日の総選挙で勝利した。カルテルの多数派は得票よりも選挙制度に支えられていた。得票率は左派が48.3パーセント、右派が51.7パーセントだったが、カルテルは議席の過半数を得た。エドゥアール・エリオが率いたこの多数派は1926年に分裂し、SFIOは野党に回った。資本逃避とドイツ賠償金の取り立ての失敗が通貨危機を招き、レーモン・ポアンカレが旧ナショナル・ブロック諸党に急進社会党を加えた政府を組織した。Gheusiはこの立場を皮肉ったのである。急進党は右派と並んで政権に加わったままボルドーに向かい、タルン県などの地元では社会党の対立候補に直面していた。Gheusiがあざけった二重の党名はその後も残った。急進社会党は1928年の総選挙でもふたたび左派の側に立って戦い、1932年には第二次カルテルが議席の過半数を得た。1934年2月6日の騒乱の後に辞任に追い込まれた政府首班エドゥアール・ダラディエも、急進社会党員のままだった。
350億フランの予算とサン=セルヴの警告の背後にあった通貨危機
サン=セルヴは予算の膨張に危機感を示しており、その危機感は戦後フランスの財政状況と合っている。1924年10月、財務相エティエンヌ・クレマンテルは1925年度予算案を下院財政委員会に提出した。この案では歳出が過去最高の325億フランに達し、歳入は265億フランにとどまった。タイム誌は当時、フランスが実際には支払われなかったドイツからの支払いを歳入に計上して、帳簿の上だけで予算の均衡を取ってきたと指摘した。サン=セルヴが引用したエリオの警告は300億フランを超える予算を前提にしており、記事が現行予算として挙げた350億フランはこの増加の延長にある。支払われない賠償金と資本逃避が重なって通貨危機が起き、この危機によってポアンカレは1926年に政権に復帰した。サン=セルヴが財政再建のために12月31日までの予算可決を求めたのは、この危機があったからである。同じ一面でGheusiがフランの救済を明日の課題の筆頭に挙げたのも、同じ危機による。
ウィーン会議を主導した人々とフランス政府の対応
マレが描いた会議は、リヒャルト・クーデンホーフ=カレルギーが1923年の著書『パン・ヨーロッパ』で始めた運動の第一回大会である。この本には入会申込書が付いていた。マレは二十六か国の代表と五千人の聴衆と書いたが、後年の伝記的記述によれば、クーデンホーフ=カレルギーを中央評議会議長に選んだ代表は2,000人である。ユダヤ電信通信が1926年10月5日付でウィーンから送った記事は、マレが反発した顔ぶれを裏づけている。記事によれば、ドイツ国会議長パウル・レーベが基調演説を行い、クーデンホーフ=カレルギーらも演説した。同じ記事は、会議がイギリスとソ連を除くヨーロッパ合衆国を提唱したと伝えており、この点はマレがイギリス抜きの計画を批判したことと一致する。記事はさらに、外相アリスティード・ブリアンが出席できない代わりに在ウィーン公使ド・ボーマルシェに公式にフランスを代表させ、公式代表を送った大国はフランスだけだったと報じた。マレが会議の狙いをオーストリアとドイツの国境の撤廃だと疑った時点で、フランス政府はすでにこの会議に公式代表を送っていたのである。
ウィーン大会以後の汎ヨーロッパ運動とブリアン
マレが警戒した汎ヨーロッパ運動は、ウィーン大会の後の数年間でフランス外交に近づいていった。1927年、ブリアンは汎ヨーロッパ運動の名誉総裁に選ばれた。クーデンホーフ=カレルギーの構想は、ブリアンが1929年9月8日に国際連盟で行ったヨーロッパ連合を支持する演説にも影響を与えた。運動はオーストリアでも支持を得ており、イグナーツ・ザイペルはオーストリア支部の総裁職をためらわずに引き受けた。フランスの論者が運動にオーストリアの思惑を読み取った理由の一つは、このつながりにある。一方でナチ党の指導者は、運動を利用するのではなく攻撃した。アドルフ・ヒトラーは汎ヨーロッパ主義の平和主義と、彼が機械的経済主義と呼んだ考え方を激しく嫌い、1928年の『第二の書』でクーデンホーフ=カレルギーを政敵として攻撃した。運動をオーストリアとドイツの合併の隠れ蓑とみたマレの見方は、最も攻撃的なドイツ民族主義が実際にこの運動をどう扱ったかとは一致しない。
原文
La politique en cheveux courts
RÉDACTION - ADMINISTRATION - PUBLICITÉ - ANNONCES 14, ROND-POINT DES CHAMPS-ÉLYSÉES, PARIS - Téléph.: Élysées [?], [?], [?] ABONNEMENTS: 3 mois 6 mois 1 an Paris, Départements et Colonies.... 30» 54» 100» ÉTRANGER {Pays à tarif postal réduit.... 52» 100» 190» {Pays à tarif postal augmenté.... 72» 140» 260» On s'abonne dans tous les Bureaux de Poste de France. Chèque postal 242-53 Paris. 73e Année DIRECTEUR LITTÉRAIRE: ROBERT DE FLERS La politique en cheveux courts La mode tyrannise tout. Les minorités qui lui résistent fondent comme le dernier carré de Waterloo, sans même proférer un mot d'histoire. La barbarie du plus impérieux des tyrans modernes ne révolte plus ses victimes. Les cheveux courts et la nuque tondue s'imposent à des grand'mères que l'âge canonique aurait, au temps de la marquise de Sévigné, insurgées contre l'ordre formel de se mutiler et de s'enlaidir; la robe fauchée au genou paraît obligatoire à toutes les femmes, même quand le pied, la jambe ou la cheville exigeraient raisonnablement les drapés étoffés d'Isabeau de Bavière et d'Anne d'Autriche. Or, voici s'annoncer le Congrès de Bordeaux, d'où la pure doctrine radicale menace, elle aussi, selon les lois de la mode, de nous revenir écourtée de l'alliance socialiste et rasée à jamais des crins de la comète S. F. I. O., qui avaient donné, il y a deux ans, l'allure d'un lion de l'Atlas au Cartel rugissant et victorieux. Hélas! où sont les temps du pontificat laïque de ce vieux séminariste échappé que fut le petit père Combes, élève révolté de Mgr Gerphanion, archevêque d'Albi? Le bloc radical-socialiste était alors indépendant, homogène et sans fêlures. Les précurseurs de M. Léon Blum n'avaient pas encore inventé de soutenir par saccades leurs alliés au pouvoir comme la corde soutient le pendu. D'ailleurs, les radicaux n'avaient pas besoin des suffrages socialistes pour réaliser une majorité de gouvernement. Mais, déjà, la doctrine radicale, en présence des problèmes qui surgissaient à l'horizon, s'éclairait de lueurs rapides et cruelles: elles permettaient de découvrir quelques lézardes sur la façade auguste du parti; à certaines heures, dans les départements du Midi, la loi sacrée de l'austère Brisson commençait à se révéler démodée et, parmi les redingotes du 4 septembre, tendait à prendre des allures de vieille dame, désaccoutumée de se regarder au miroir critique de la quarantaine. ⁂ Tout ce que, plus jeunes, nous soutenions déjà devant des comités électoraux, auprès de notre irrévérence, est devenu maintenant un plan forcé de politique neuve. Les fautes inévitables d'un trop long exercice du pouvoir ont amené les défaites, les divisions, les querelles meurtrières de la majorité dont Sarrien fut le consul et DujardinBeaumetz le pèlerin chargé de reliques. Le Cartel avait, au lendemain de sa victoire, cru rajeunir l'antique bastion, crénelé de frais, et nous donner, pour quatre années au moins, un gouvernement immuable, composé peut-être de ministères successifs - tous les membres de la majorité étant ministrables à leur tour - mais d'une compacte et granitique unité. Il comptait sans l'intransigeance, ou l'abandon, de M. Léon Blum, les complications économiques des deux mondes et la dégringolade financière de l'après-guerre. - Le Congrès de Bordeaux, avertit rudement le leader de la Dépêche, fera bien de reconnaître le grand péché capital dont il sied que nous fassions pénitence. Si tant et tant de nos ministres ont été abattus comme des capucins de cartes, ce n'est pas seulement parce qu'ils étaient attaqués à droite, lâchés à gauche. C'est parce que trop souvent ils étaient trahis chez nous; il existe, dans le parti radical, un groupe de «remplaçants», ministres de la veille, ministrables du lendemain, qui, dans chaque événement que Dieu fait, croit découvrir une occasion de placer la fameuse pelure d'orange. Nous voici ramenés aux injonctions, déjà lointaines, du premier déclin radical, celui que le même Pierre et Paul appelait hier «l'ancienne concentration»: il faut, à tout prix, modifier les vues surannées, renoncer aux vieux chevaux de bataille, grouper ensemble un idéal modernisé et une réalité précise. Mais, surtout, il faut changer de nom en toute hâte! ⁂ Devant les problèmes de demain, le sauvetage du franc, l'angoissante énigme du Pacifique, le salut de l'industrie et du commerce français par le puissant apport colonial selon les directives d'un Lyautey ou d'un Albert Sarraut, que pourrait signifier désormais le maintien de ces deux termes contradictoires: radical-socialiste? - Radical?... Que veut dire ce mot? Evoque-t-il les solutions de l'avenir? - Pas le moins du monde. Il n'agite plus devant nous que des ombres falotes, des idoles disparues. C'est Ranc et ses violences contre des spectres tombés en poussière, le funèbre Brisson, le chartiste bohème Camille Pelletan et notre maître en caricature, Ournac le Toulousain, tout à la fois sectaire et si brave homme, compère du fameux Goutto d'Oli, d'ineffable mémoire, qu'il faut bien se garder de confondre avec ce poétique et cher menteur de Goudouli. «Radical» ne veut plus rien dire, surtout soudé à «socialiste», qui hurle affreusement d'être lié à lui. Allez donc demander aux unifiés du Capitole s'ils feront liste commune avec leurs compatriotes radicaux! Vous n'aurez jamais entendu pareil éclat de rire, même chez le cordonnier Vestrepain. Dans Albi, la ville rouge des briques en souvenir médiéval des flammes de bûchers, le président Henry Simon avait réalisé et lié la mayonnaise du Cartel. Elle vient de tourner à l'aigre: Carmaux, Graulhet et Villegoudou, dans trois mois, opposeront un brelan de candidats socialistes aux sénateurs radicaux sortants. Et c'est ainsi dans cent autres villes où l'étiquette de «radical-socialiste» n'est maintenant pas moins contradictoire que «communiste-dictateur» ou «anarchiste-gendarme». ⁂ Fardée comme une toujours belle, le cheveu ras, le mollet nu, sans taille, sans sexe et sans contours, soucieuse d'être à la mode jusqu'à en devenir méconnaissable, rebaptisée assez mal ou avec bonheur, l'armée radicale doit nous revenir de Bordeaux avec un visage renouvelé. Puisse-t-elle, en l'honneur des luttes prochaines, avoir tout au moins le droit de croire assez à sa victoire pour embellir les duels retentissants de la tribune française! On rentre fort bien de Bordeaux, après des épreuves à deux doigts d'être mortelles, afin de préparer les revanches du lendemain: nous l'avons déjà vu en décembre 1914. Que va-t-il donc sortir du Congrès de Bordeaux?... Un parti nouveau, consolidé, élargi jusqu'aux grands transfuges, désormais si proches, du S. F. I. O., - un cadre sans rigueur, une doctrine sans haine, un programme national, peut-être une sœur puînée de la jeune République de Gambetta?... - Peut-être rien. P. - B. Gheusi. Le désarmement social Quelques réformateurs zélés ont trouvé un moyen inattendu de faire des économies dans le budget des postes et télégraphes. Ils proposent de supprimer la distribution du dimanche, de fermer les bureaux entre midi et deux heures, et d'arrêter complètement le travail à partir de six heures. Il paraît que cette innovation procurerait cinquante millions d'économies. Elle semble désastreuse et inspirée par les principes les plus faux. En fait cette fermeture des bureaux serait une très grande gêne pour toutes les catégories de la population, nombreuses et modestes, qui travaillent du matin au soir. Les employés, les petits fonctionnaires, les agents des administrations de toutes sortes n'ont de liberté qu'entre midi et deux heures ou après six heures, souvent après sept. A quel moment enverront-ils ou iront-ils toucher un mandat? A quel moment iront-ils au guichet de la Caisse d'épargne? On ne paraît pas se soucier d'eux. En outre, quelle perturbation dans la vie du public, dans la marche du commerce et de l'industrie! Que d'affaires manquées! La seule suspension du téléphone pendant quelques heures a permis de faire l'expérience des complications que cause un accident même de courte durée dans les rouages accoutumés de la vie économique et sociale. D'une manière générale, la méthode qui consiste à diminuer l'activité sous prétexte de faire des économies est d'une terrible médiocrité. Si un Etat veut que ses postes, ses télégraphes, ses téléphones ne soient pas en déficit, ce n'est pas en réduisant la consommation qu'il réussira. C'est au contraire en multipliant les bureaux, en simplifiant et en facilitant les opérations postales, en donnant au public des commodités et même des tentations. L'idée de laisser la clientèle devant des portes closes, sous prétexte qu'il faut dépenser pour la servir, fait songer au médecin de Molière qui conseillait à Argan de se faire ôter un bras, coupable d'attirer à lui trop de sang. Cette manière de raisonner fait malheureusement partie de nos habitudes faussement démocratiques. Nous avons perdu la notion non seulement de la magnificence qui attestait la puissance de jadis, mais même de cette aisance et de cette ampleur qui caractérisent les institutions en pleine vitalité. Nous pensons et nous voyons petit. L'ascétisme est sans doute une haute vertu, et il est beau que les individus et les nations en soient capables à l'occasion. Mais dans la civilisation matérielle des temps modernes, la faculté de créer et de se développer est la faculté maîtresse. Un Etat qui ferait l'économie de ses routes, de ses chemins de fer et de ses postes n'aurait pas d'ennuis budgétaires, et si la population redevenait nomade, presque tous les problèmes financiers seraient supprimés. Seulement un pareil Etat ne compterait plus dans l'univers. La devise du monde moderne est de produire et de développer. Les restrictions, même quand elles sont nécessaires, ne représentent pas une loi éternelle. Se réduire, ce n'est pas consentir à une existence diminuée, c'est se mettre provisoirement au régime pour préparer une activité plus intense et pour vivre ensuite plus fortement. L'avenir est à ceux qui se dépensent et qui font généreusement confiance à la vie: c'est à ceux-là seuls que la vie rend un jour ce qu'ils ont donné, parce qu'ils ont travaillé et pris de la peine. Intérim.
Gare aux douzièmes provisoires
14, ROND-POINT DES CHAMPS-ÉLYSÉES - Aujourd'hui: Grand Palais: Salon de l'Automobile. - Parc des ExpoCours-la-Reine: Salon nautique. - 14 heures Fête de Courses à Longchamp. DIRECTEUR-RÉDACTEUR EN CHEF POLITIQUE LA POLITIQUE Gare aux douzièmes provisoires La date de la reprise des travaux parlementaires n'est pas encore fixée. Tout au plus, la Commission des finances de la Chambre a-t-elle esquissé un mouvement de rentrée; comme au théâtre, lorsqu'un entr'acte se prolonge, l'orchestre attaque un morceau pour calmer l'impatience des spectateurs. Au vrai, la France n'est pas très pressée de voir se relever le rideau parlementaire; elle s'accommode fort bien d'une période de vacances qui n'a, d'ailleurs, pas encore atteint sa durée normale. Quant aux ministres, qui, chacun de son côté, ont assumé une longue tâche réformatrice, ils ne brûlent évidemment pas du désir de se retrouver en contact avec les députés qui, sitôt rentrés, vont paralyser l'action gouvernementale par les interpellations rituelles. Pourtant, il importerait plus que jamais, dans l'intérêt du redressement financier, que le budget fût voté, cette année, à son heure, c'est-à-dire avant le 31 décembre. Chacun en convient; mais, dans le clan des orateurs, personne n'est disposé à renoncer à ces fastidieuses interventions à la tribune qui ont été mûrement préparées au cours des vacances, dans une intention exclusivement électorale. Aussi, n'est-ce pas sans raison que, dès maintenant, la perspective des douzièmes provisoires commence à être envisagée. La Chambre se refuse à comprendre que le parlementarisme a évolué, en ces derniers temps, avec une rapidité vertigineuse et que les méthodes jadis en vigueur n'ont plus cours en 1926. Il y a un siècle, sous la Restauration, le budget réparti en 31 chapitres et n'atteignant pas un milliard, était voté en une vingtaine de séances. Or, le budget actuel s'élève à 35 milliards et comprend 1. 500 chapitres. La proportion des charges est donc de 1 à 35 et, logiquement, la Chambre devrait consacrer à l'examen du budget de 1927 environ 700 séances! Où les trouverait-elle d'ici la fin de l'année, en écartant même les débats sur les décrets d'économie et sur les dettes interalliées? Mais sans prendre comme point de comparaison les méthodes de la Restauration, la situation n'apparaît pas moins inextricable: la Chambre a devant elle deux mois pour accomplir une besogne qui en exigera quatre, au bas mot! L'an dernier, M. Herriot, qui ne passe pas pour particulièrement clairvoyant, laissa néanmoins tomber du haut du fauteuil présidentiel cet avertissement: «La discussion d'un budget qui dépasse 30 milliards suffirait à occuper vos sessions.» On approuva sur tous les bancs et l'on parla d'autre chose. La Chambre sera-t-elle assez malavisée pour ne pas s'imposer enfin la discipline sévère sans laquelle elle n'évitera pas la crise grave qui la menace et qui risquerait d'emporter les derniers lambeaux de son prestige? Saint-Selve. M. Lucien Romier, qui achève une seconde quinzaine de vacances, ayant connu au cours de son voyage les bruits relatifs à un prétendu désaccord qui aurait existé entre notre directeur politique et lui, vient d'adresser à M. François
Le messianisme paneuropéen
CHAMPS-ÉLYSÉES - PARIS (8e Arrond.) Aujourd'hui: obile. - Parc des Expositions: Foire de l'Automobile. ue. - 14 heures Fête de bienfaisance au Trocadéro. Courses à Longchamp. N ° 283 EN CHEF POLITIQUE: LUCIEN ROMIER LES AFFAIRES EXTÉRIEURES Le messianisme paneuropéen Sous le regard de tous les prophètes du paneuropéanisme, de Grotius à Victor Hugo; parmi l'envol des drapeaux bleus portant croix rouge sur soleil d'or; au milieu des accents religieux de la musique de Bach et des suaves effusions du plus pur pacifisme; en présence des délégués de vingt-six nations et de cinq mille auditeurs, le premier congrès paneuropéen vient de tenir au Grosser Konzerthaus de Vienne ses assises. Le dessein que se proposent les initiateurs du mouvement paneuropéen est ample. Il s'agit de fonder les Etats-Unis d'Europe ou, si l'on préfère, de supprimer toutes les barrières intercontinentales: les barrières stratégiques par un système d'arbitrage et de garanties; les barrières économiques par le retour au libreéchange; les barrières nationales par l'anéantissement du chauvinisme et de l'oppression des minorités. De si généreuses et illusoires ambitions répondent à de vieilles aspirations et à des besoins présents. Les «bienfaits de la paix romaine», dans un pays nourri de latinité comme le nôtre, devaient éveiller des regrets et des désirs. Les horreurs des guerres prolongées devaient faire souhaiter de résoudre les conflits futurs par l'arbitrage; et ce principe est déjà énoncé dans le traité de Westphalie. Les exigences politiques pouvaient inviter à une «confédération»; et la Sainte Alliance était fondée par Metternich pour lutter contre la Révolution. Ajoutez l'idéologie humanitaire, qui ne date pas d'hier. Et vous comprendrez que plusieurs hommes d'Etat, philosophes et poètes, aient pu, au dix-neuvième siècle, formuler ce souhait: voir les Etats-Unis d'Europe. A ces rêves imprécis, les événements de la guerre et surtout de l'après-guerre se chargèrent de donner quelque consistance. Les nécessités de la lutte forcèrent les peuples alliés et associés à se grouper sous un commandement unique. La paix eut tôt fait de briser cette unité purement extérieure. Mais le malheur allait créer entre vainqueurs et vaincus une nouvelle solidarité. Le malheur, c'est-àdire les anomalies du traité, la débâcle des changes, la créance américaine. Pour faire face aux mêmes charges, tous les Etats du vieux continent ne devaient-ils pas s'entraider, et, pour devenir forts, s'unir comme les Etats fédérés de la grande République américaine? Il faut regretter que ce programme «paneuropéen» se heurte à de grands obstacles. A vrai dire, les objections purement techniques ne nous effraient guère. On peut prévoir que «Paneuropa» fera double emploi avec la Société des nations. Est-ce si grave? Et pourquoi chagriner M. Politis en refusant de lui accorder que la Constitution de Paneuropa est prévue par l'article 21 du Covenant, qu'elle allégera et simplifiera la tâche de l'institution genevoise? L'objection dite «historique» est, certes, plus importante. Les siècles ont créé en Europe un morcellement et une diversité admirables. En quelques heures de voyage, on peut voir changer, en passant les frontières, la vie sociale, la race, la religion, les institutions, les mœurs. Dans un cadre en somme limité, la civilisation présente les aspects les plus variés. Aux Etats-Unis, il n'en est pas de même. La variété des races et des langues est disparue à la seconde génération. Et, en dépit des différences de la nature et du climat, c'est partout la même grandeur - monotone. Le «paneuropéanisme» - quoiqu'il s'en défende - ne risquerait-il pas de faire disparaître, sous son rabot niveleur, les éléments essentiels, caractéristiques de chaque vie nationale, et ne porterait-il pas le dernier coup à cette divinité agonisante: la diversité? Du point de vue politique, les objections apparaissent mortelles. Paneuropa veut bien travailler d'accord avec l'Angleterre, mais sans elle. Eh! quoi? Par qui donc le vieux continent remplacerait-il son courtier et son pourvoyeur habituels? La jeune institution semble bien audacieuse de braver le courroux d'Albion! Paneuropa veut également se passer de l'Amérique ou de l'Asie. Mais croyezvous que les guerres futures seraient moins terribles pour opposer les uns aux autres les divers impérialismes continentaux? Surtout Paneuropa implique l'adhésion du continent tout entier. De tout temps les agneaux n'ont demandé qu'à paître paisiblement au bord de l'onde pure, sans être troublés par les loups. Mais, en Europe, tous les loups ne sont pas morts. La pensée du kaiser rôde autour de Potsdam. Certaines nations n'aspirent qu'à la revanche. D'autres trouvent trop maigres les «dépouilles» que leur a accordées le traité. Le rôle prépondérant de M. Loebe et du comte Coudenhove aux assises de Vienne ne nous dit rien qui veille. En parlant d'abolir toutes les frontières européennes, ces messieurs ne songeraient-ils qu'à détruire celles qui séparent l'Autriche de l'Allemagne?